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ノーマインド

2023.10.09 05:42

https://osho-japan.com/meditation/guide/nomind/ 【OSHO ノー・マインド瞑想】より

OSHOノー・マインド瞑想はOSHOが編み出した、いわゆる瞑想的セラピーと呼ばれる瞑想群のひとつで、1日2時間、7日間のプロセスです。あくまで7日間通して行われるものです。

最初の1時間参加者は意味のない音声、ジべリッシュを出しはじめます。

次の1時間は完全に静止し、沈黙し、くつろいで座ります。

それは瞑想的です。というのも、それをするのはあくまであなた自身であって、瞑想中は誰かがあなたをリードしたり、導いたり、答えたりということはありま せん。自分が自分と向かい合い、すすめていきます。もちろんみんなといっしょにやるので、エネルギーは相乗効果的に高まり、結果ひとりでやるより、より高 く、より深く入っていけるでしょう。

それはセラピー(癒し)です。ジベリッシュとその後の静寂を通じて、いままで表現されてこなかった多くの感情や過去のトラウマなどが、頭の理解を超えた ところで、表現され洗い流され、自分のコントロールを超えたところで変容と繊細さ、自身への愛と受容と明晰さが起きてくるかもしれません。

でも、それは結果として引きおこるであろうことで、瞑想の最初のステージでは、あなたはひたすらジベリッシュに入って行かなくてはなりません。マインド はあなたを引き戻そうとするかもしれません。でもそれには耳を貸さずに、ジベリッシュの嵐の中へ、果敢に、勇気をもって、真摯に陽気に入ってゆき、全身で 表現し、ジベリッシュを続けます。

最初のステージを十全に突き抜けたなら、その後には深遠な静寂、沈黙が訪れるでしょう。二つ目のステージではゆったりと、リラックスして沈黙のうちに座 ります。最初のステージの嵐で舞い上がった枯れ葉がゆっくりと地面に落ちてくるように、内側で、外側で起きていることを、ジャッジせず、あるがままに受け 容れ、見守ります。

それぞれのステージは1時間ずつで、計2時間です。

これを7日間つづけるなら、ことばでは表現できない、なにかが、起こることでしょう。

それは参加者のひとりひとりへの自分から自分への贈り物と言えるかもしれません。

ぜひこの機会に、いっしょにこの瞑想に参加しませんか。

これを1週間つづけることで、瞑想の深淵、 OSHOがノーマインド(無心)と呼ぶ境地が自然と起っていることにあなたは気づくでしょう。

80年代後半、Oshoは三つの新しい瞑想技法を紹介しました。 一つめは、ミスティック・ローズ瞑想、二つめは、ノー・マインド瞑想、三つめが、ボーン・アゲイン瞑想です。ノーマインド瞑想は一日二時間、一週間のプロ セスです。あくまで7日間通して行われるものです。最初の一時間がジベリッシュ・・・・・そしてその 後、静かに座る一時間が続きます。 Oshoはブッダホールで自らノー・マインド瞑想を指導し、その後毎晩の講話やホワイトローブ・ブラザーフッドの集いを締めくくる瞑想としてジベリッシュ 瞑想は使われています。

第1ステージ :1時間ジベリッシュ/  ジベリッシュは無意味で、でたらめな言語や音声を発するテクニックで同時に身体も動くにまかせます。それは感情の深層、過去の肉体的、精神的な記憶とつな がる助けにもなります。感じていることをそのままジベリッシュで表現し放り出します。 何かを理解する必要も意味あることをする必要もありません。ただでたらめな音声を発することを徹底的に楽しむのです。

第2ステージ :1時間観  照/ 1時間後に太鼓の音の合図があるので、そうしたら眼を閉じて完全に静止し沈黙し、くつろいで座ります。エネルギーが内側に集まり、思考がどんどん遠のき、 自己の中心にある 「深い沈黙と平安」 のなかに自分自身が沈み込んでゆくにまかせます。気づきと共に、 全面的にこの瞬間のなかに在りましょう。 「丘の上のものみ」 となって、通過するものは何であれ目撃します。思考は未来へ向かうか、過去に戻ろうとします。はるか距離を置いて、ただ見守りましょう。どんな判断も下さ ず、それにつかまらず、ひたすら現在にとどまり見守っています。 これを1週間つづけることで、瞑想の深淵、 OSHOがノーマインド(無心)と呼ぶ境地が自然と起っていることにあなたはきっと気づくでしょう。


Facebook清水 友邦さん投稿記事

中世ドイツにマイスター・エックハルト(Meister Eckhart, 1260年 - 1328年)というキリスト教神秘家がいました。

彼は「自分と神は一つである。自分を離れて神はいない。神を離れて自分はいない。思考がなくなれば神も自分もいない。(もし私が存在していなかったらば、「神」も存在しなかったであろう。神が「神」である原因は私なのである。もし私が無かったら、神は「神」でなかったであろう)」

と説教をして異端の烙印を押されてしまいました。

マイスター・エックハルトは後の人々に大きな影響をあたえました。

しかし、エックハルトのような境地に至る呼吸法や姿勢などのマニュアルがキリスト教にはありませんでした。

マイスター・エックハルトの説教は禅の教えと似ています。

禅の体験に魅力を感じたカトリックの神父は「父なる神がすべての人の心に働いている以上、キリスト教以外の諸宗教の中でも同様に働かれない筈はない」と教会で坐禅を取りれています。ただし、仏像を拝んだりしません。キリスト教に矛盾を感じた人は仏教へ行きました。

西方教会はマニュアルが皆無と思われていましたが東方教会には呼吸法や姿勢などの伝統があったのです。

キリスト教はローマ帝国が東西に分割された後に東方教会と西方教会に分裂しました。

四世紀の古代キリスト教師父アレクサンドリアのアタナシオスは「神が人になったのは人が神に成るためである。」と唱えました。

これが東方正教会、ギリシア正教会、ロシア正教会の考えとなりました。

西方キリスト教会のローマンカトリックとプロテスタントは人が神に成ることをみとめませんでした。

8世紀のダマスコスのヨアンネスは「神性は無限で把握しえないものであり、把握できるのは無限性と把握不能性のみである。」といい、

プロテスタントでは「人が修行して神と一つになることなど虚しい試みに過ぎない。」といっています。

人が神に成るヘシュカズムは西方キリスト教会にとっては異端であり、同じように考えたギリシャ正教の修道士バルラアムとの間に論争がありました。

そこで、1341年東ローマ帝国の首都コンスタンチノポリス(トルコ・イスタンブール)で会議が開かれました。

結局、神の本質(ウーシア)に於いては、接近不可能だが神の活動(エネルゲイア)においては、神との接近は可能である、というアトス山の修道士パラマスの主張を正統とする裁定が下されました。

しかし、1453年コンスタンチノポリスは、陥落し東ローマ帝国は滅亡しました。

アトス山の修道院は、イスラムの勢力下に入りましたがオスマン帝国は、修道院共同体の宗教活動と自治を認め、アトス山の修道院は存続しました。

ヘシュカズムは、短い祈りの言葉を繰り返すことで、ヘーシュキアと呼ばれる静寂の境地にいたって、神と一致することを目指しています。

その方法は、低い椅子に座り顎鬚を胸につけて自分の臍を見る姿勢をとります。

そして、意識を心臓にむけて「キュリェ・イエス・クリステ」で息を吸い、「ヒュィエ・トゥ・テゥ、エレイソンメ」でゆったりと息を吐きます。

このやり方は、チベット密教のカギュー派の瞑想法と似ています。もちろんイエス・キリストと言わず真言を唱えます。

19世紀後半にロシアのオリョール県に住む農夫が、妻子を失って世間から離れて巡礼者となりました。

農夫は苦難の末シベリアのイルクーツクまで旅を続け、そこで霊的師父に出会った体験を語った記録がアトス山の修道院の修道士によって筆写されました。

それを発見した修道院長によって1884年に出版されると全世界に広がりました。

「イエスの祈り」を唱えるに当たっての簡潔な指示 

1 明かりを薄暗くした、静かな場所に座る。立っていても可。

2 気持ちを落ち着けること。

3 想像力の助けを借りて心の在所を見つけ、慎重にそこに留まること。

4 知性を頭脳から心臓へと導き、静かに声を出すか、もしくは心の中か、自分に合う方法で「主イエス・キリスト、我をあわれみたまえ」と唱える。祈りは、ゆっくりと恭しく唱えること。

5 出来る限り、知性の注意力を見張りどんな想いも入り込むのを許さぬこと。

6 忍耐強く、安らいだ気持ちでいること。

7 飲食物、睡眠の節度を守ること。

8 沈黙を愛することを学ぶこと。

9 聖書、または祈りに関して教父たちの書いたものを読むこと。

10 できる限り、気の散る活動や仕事を避けること。

「無名の巡礼者 あるロシア人巡礼者の手記」エンデレル書店

ヘシュカズムを実践するヘシュカストは、自己が消滅して光と一つになった体験をします。

この光は、タボル山でのキリストの変容の時に、キリストを包んでいた光(uncreated light)と説明されています。

タボルの光は、神そのものではなく神の顕現から溢れ出る働きエネルゲイアを、意味するとされています。

キリストを包んでいたタボルの光は、非物質的で微細なサトルの領域のことです。しかし、神はそのサトルの領域をも超えていました。

神は、始まりもなく終わりもない永遠のものなので、造られざる光(uncreated light)なのです。

ヘシュカズムでは、ヌースを心臓に入れると表現しています。

ヌースは、知性、理性、精神、魂を意味するギリシャ語です。

宇宙の知性、神の智慧でもあります。

仏教の智慧は般若( サンスクリット語のプラジュニャー、パーリー語のパンニャー)です。

意識の座を頭からハートに降ろすことで、神の領域に入ります。ヨガで言えば三昧の境地サマーディです。

神の存在を、マインドは捉えることができません。哲学論議は脳が興奮して心が騒がしくなるだけです。瞑想のほとんどが、心が静かになることを求めます。

マインドが、静かになると光明が現れます。

神は思考活動を超えているので、ノーマインドという沈黙の中で造られざる光(uncreated light)と出会うのです。

それを、キリスト教神秘主義では、神的暗闇と表現しました。

神は、光を超えた存在なので、普通の光ではないことを示す為にあえて闇といったのです。

神的暗闇とは、光の不在の暗闇ではなくて光の過剰による暗闇のことでした。

光と闇を超えた神を知るには、触れる事も見る事も知る事もできないノーマインドという神的暗闇の中に入ることが不可欠だったのです。

静寂と沈黙の中で、神と一体化(テオーシス)するのがヘシュカズムでした。