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諺から考える

2024.01.23 12:50

https://ameblo.jp/seijihys/entry-12498749599.html 【連句が残した日常語】より

現代は「俳句」が主流で、「連句」をしている人は、(もちろん今も、たしなんでいる人もいるが…)圧倒的に少ない。

ある時、連句も勉強しなければ…、と思い、連句をされている俳人に、一度、見学したい、とお願いしたら、高齢化と人数不足で、中断してしまった、と言われた。

はっきり言えば壊滅的現状であろう。

ただ、連句の「言葉」は今に残っている。

私たちがなにげなく使っている日常語に、連句から生まれた言葉があり、今に残っているのだ。知っている限りを列記してみたい。

<二の句がつげない〉

【意味】

次の言葉が出てこない。あきれてあいた口がふさがらない。

【由来】

もともとは平安時代の「朗詠」(ろうえい)から生まれた言葉である。

朗詠とは、漢詩を三つ、「一の句」「二の句」「三の句」に分け、歌うこと。

「一の句」は普通の音の高さで歌うが、二の句から急に音域が高くなるので、歌いづらい。

うまく歌えないことを「二の句がつげない」と言うようになった。

ただ…、上記の由来では、次の言葉が出てこない。あきれてあいた口がふさがらない。という意味にあてはまらない。「連句」でいう「二の句」とは、発句の次、二番目の句である。

発句が「575」を詠み、二の句が「77」をつける。

ところが、発句があまりに下手だと、二の句でどうつけていいのかわからない。

それが今、われわれが使っている「二の句がつげない」という意味になった。

〈挙句の果て〉(あげくのはて)

【意味】

最後の最後。とどのつまり。

【由来】

連句は全部で32句(歌仙)、50句(五十韻)、100句(百韻)などの形式があるが、どれであっても一番最後の句を「挙句」(あげく)という。「揚げ句」ともいう。)

ここから、ものの最後のことを「挙句」と呼び、最後の最後なので「挙句の果て」となった。

さんざん迷惑をかけた挙句というように、単独でも使われる。

〈花を持たす〉

【意味】

相手を立てる。名誉や栄光をその人に譲る。

【由来】

連句には「花の座」「月の座」などという「座」がある。

つまり、連句の何句目には「花」を、何句目には「月」を詠まなければいけない約束事がある。何句目に詠むかは歌仙、五十韻、百韻などで違う。

中でも「花の座」は連句の華で、句座の主役や来賓などが詠む。そこを若い人や、他の人に譲る。そこから「花を持たす」という言葉が生まれた。

このように日常において今でも使う言葉が、連句から生まれた、というのは実に不思議である。

それだけ、「連句」が庶民の暮らしに浸透していた、ということではないか。「連句」は「俳諧」の一部である。

俳諧はなにより、人々の暮らしに寄り添っていたのだ、ということをしみじみ思うのである。

今の「俳句」は、それほど(ことわざが生まれるほど)親しまれているだろうか、と考えると、はなはだ心もとない。

芸術性の高い俳句も必要だが、もっと気軽であっていいのではないか、と思うゆえんである。


Facebook藤井 清史さん投稿記事【諺から考える健康学 88】

『一日千秋の思い(いちにちせんしゅうのおもい)』という諺があります。

これは、「一日が千年もの長さに感じられるほど長いということ。未来の事柄を待ちこがれる気持ちの表現」のことです。

最近、ハマスによる武力行使や、依然として続くロ・ウの戦闘、世界各地での天変地異など、「地球が病んでいる」とも言えるような状況が続いております。

これも文明開化以降の、人類の功罪の結果であることには間違いはありません。

明るい未来を描きたくても、なかなか描けない、という状況が続いてしまっており、「本当にまた明るく健在な世界は訪れるのだろうか」という先に希望がなかなか見出せない、まさに諺通り、安心立命で過ごせない時期が続いております。

しかし、社会が、国が、世界状況が、と嘆いていても事は改善してきません。

一人一人の個の集合体が社会であり、国であり、人類であるのです。

さすれば、今、一人一人に出来ること、求められていること、また、出来ることは何なのか?と、考えてみますと、自分自身の中の、悲観的な世界状況と合い通ずる部分を見出だし、そこを修正していくほかないのでは無いか!?と私は思っています。

日常生活の中にも、嫉妬や独占欲、自分さえ良ければよい、というような思い、そして、怒りや戦闘性など世界の人類の縮図が潜んでいるのではないでしょうか?

ひとり一人で、出来ることは本当に小さい。いや、むしろ無いに等しいかもしれませんが、自分自身の心を正していくことだけは可能ではないかな、と私は思います。

個々の集合体が、社会であり世界であるなら、その個々が日々修正を心がけたなら、計り知れない時間はかかろうとも、世界が、地球全体が幸せな方向に舵を切り直すことは可能ではないかと信じています。

皆様は、どう思われますでしょうか?

健康においても如り、であります。

一つ一つの細胞が、組織を作り、器官を作り、臓器や骨格を作っています。

その一つ一つの細胞が、良くなろう、調和とバランスを取ろうとしてきた時に、健康体というものが形成されるのではないか、と思います。

その長たるものが自分自身であるわけですから、そのようにいつもいつも、号令をかけ続けるのが大事なのではないか!?と私は考えています。

悪いものを取り除くだけでなく、いかに、更生していってもらうか、バランスをとって調和していってもらうか、そこを考えて自分自身の心を見直していくのが長たるものの役目ではないか、と思っています。

自分の身体の長は、自分自身です。

そこを忘れることなく、置き去りにすることなく、しっかりと取り組んでいきたいと、私は考えています。

不幸な、不安な一日は、長く長く感じるかもしれませんが健全で幸福な日を待ち焦がれて、確実な一手一手を打つしか、明るく幸福な未来を創るにないのではないか!?と私は思います。

皆様は、いかがお考えでしょうか?

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