みんな誰かの愛しい人
みんな誰かの愛しい人
Comme Une Image
2004年11月10日 銀座テアトルシネマにて
(2004年:フランス:111分:監督 アニエス・ジャウィ)
世の中渡っていくためには建前を上手く使うこと、が必要な時があります。
本音ばかりで世間は渡れない、でも家族にはついつい本音をもらして、気まずくなったり、和解したり・・・そんな人たちがあれこれ、胸に秘めた想いをストレートに言えずなんとも遠回りになったり、ストレスを感じたり・・・そんな人間模様をうま~く普通の会話に盛り込んだ脚本がいいですね。
高名な作家のエチエンヌの家族は、先妻の娘のロリータと美しくて若い後妻と小さな子供。作家という仕事や人付き合いが忙しくて家族はおざなりになりがち。特にロリータのことはなんでも後回し状態。
そんなロリータは不満で不満で仕方ない。自分が太っていること、義理の母が美しくてやせていてなんとも嫌味に感じる、声楽を習っていても実はあまり才能はない、父は全く相手にしてくれない・・・しかもロリータの周りの人は、父が有名な作家、エチエンヌだと知るととたんにロリータの機嫌をとりはじめるのにもううんざり・・・。
ロリータは何よりも「父に認められたい」と同時に「父に関係なく自分を愛してくれる人が欲しい」・・・周りに群がる人たちが建前で、あれこれ世の中渡って暮らしている中、もう自分の事しか頭にないから「本音ばかり言う」=「不満ばかり言う」・・・なので、周りの人もロリータのことが内心嫌いですが、「高名な作家エチエンヌに近づきたい」という気持ちからおべんちゃらを言って、影でロリータの事を嫌う。
ロリータの声楽の教師シルヴィアが監督で脚本も書いたアニエス・ジャウィですが、「あの子は救いを求めるような目で見るの。もう気分悪くなる」と言ってレッスンを断ろうとする矢先、父親があのエチエンヌだと知って・・・夫は売れない作家でもあるし・・・う~ん、ここはロリータのレッスンを通じてなんとか夫を紹介したい、と逆にロリータに親切にする。
その親切を真に受けて「自分は才能があるんだわ」と喜ぶロリータ。そんな時、ロリータが出会うのがジャーナリスト志望の貧乏な青年セバスチアン。
ロリータの家族、シルヴィア夫婦、セバスチアンの本音と建前が錯綜する人間模様を描きながら、「欲を満たすということ」の難しさがしみじみわかりますね。なんとも本音を隠した会話の連続なのでぴりぴりと神経質な空気が流れる中、1人不器用に本音を言っているロリータが一番の正直者ではあるけれども、一番の嫌われ者であることも事実。
この会話の特徴は、人と人が話している最中にひんぱんに携帯電話がかかってきて、話が勝手に中断されてしまうことの繰り返しですね。普通に会話していたら途中でいきなり割り込むのは失礼だけれども携帯電話ならば当然、という場面がたくさん出てきます。
しかしこのぎくしゃくした人間関係も自然と丸く収まるようになる。別に劇的な事件やきっかけがある訳ではないのですが、建前と建前がぶつかってできる隙間に本音を見ることの繰り返しで皆だんだん、相手をきちんと見るようになるのです。
シルヴィアはエチエンヌがあまりにロリータをないがしろにするのを見て、疑問を感じるし、仕事欲しさに近づいてきたのかと思ったセバスチアンの誠実さがだんだん出てきたり、ロリータもそんな中で「私が、私が!」という気持ちが少しずつ薄れてくる。
これは会話の映画ですね。会話の重要性と言葉の裏腹を見事に見抜いて人間喜劇にしている手腕は見事です。本音ばかり言っていても世の中成り立たないが、建前ばかりでも人間関係苦しいだけ。本音と建前の使い分けの人それぞれをドラマにしてるっていうところがとても気に入っている所です。