Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

ZIPANG-7 TOKIO 2020 「江戸を顧みて今に継ぐ 寛永から令和へ」 令和7(2025)年に創建400周年を迎える寛永寺が 400周年記念事業となる国内最大級の天井絵を報道陣に公開

2023.10.15 03:25


令和7(2025)年に創建400周年を迎える東叡山寛永寺(東京都台東区上野桜木)では、現在、様々な記念事業に取り組んでいます。その一環として寛永寺の総本堂である根本中堂の天井に、縦約6m×横約12mという国内最大級の天井絵の奉納を予定しておりますが、鋭意製作中のその天井絵が10月13日に報道陣へ内覧会形式で公開されましたのでご紹介いたします。


天井絵図案

※天井絵の一般公開は未定であり、公開が決定次第、寛永寺ホームページほかにてご覧になれます。


記者会見に臨む(左から)德川当主・浦井貫首・手塚名誉教授・服部区長


天井絵について話す手塚名誉教授


この天井絵は、寛永寺のある上野の山(上野公園)に本校を置く東京藝術大学の手塚雄二名誉教授の手による作品となり、龍をモチーフとして天井板一枚一枚に丁寧に描かれたその迫力は、400年の時を超えて、永く世の平穏を祈願し続けていく寛永寺の決意を表わしているかのような勇壮な姿を見せています。


東叡山寛永寺は、寛永2(1625)年に幕府と万民の平安・安泰を祈る祈願寺として、慈眼大師天海大僧正によって創建されました。山号は「東の比叡山」を意味し、寺号は寛永年間に創建されたことによります。さらに第四代将軍家綱公の御葬儀以降、德川将軍家の菩提寺としての役目も併せ持つこととなり、寛永寺はその権威格式・規模において国内随一の大寺としてその威容を誇る寺院となって現在に至ります。


公開当日は天井絵の内覧と合わせて、こうした歴史を経て迎える創建400周年に向けた記念事業の概要を寛永寺の代表である浦井正明貫首が発表し、同席した手塚雄二東京藝術大学名誉教授、寛永寺の檀家総代である德川宗家19代当主・德川記念財団理事長の徳川家広氏、そして地元を代表して服部征夫台東区長より、400周年記念事業に向けた期待とお祝いの言葉が添えられました。


【予定される記念事業一覧】

・手塚雄二師天井絵奉納

・故富永直樹師慈母観音像奉納

・檀徒向け天井絵先行内覧会

・記念誌発行

・慶讃記念法要、祝賀会(令和7年10月10日実施予定)

・山内諸施設整備(根本中堂耐震工事等)

・協力団体(台東区観光課.德川記念財団.東京藝術大学)との事業連携



鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
石川県 いしかわ観光特使


協力(敬称略)

紅山子(こうざんし)


※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。



アーカイブ リンク記事をご覧ください。


広大な寛永寺領は幕末の上野戦争で焦土となりながらも、明治の幕開けとともに近代日本の象徴として力強く生まれ変わる。きっかけは明治6年(1873)に日本初の公園として誕生した上野恩賜公園である。


上野「不忍池」


第1回内国勧業博覧会(明治10年)や明治期最大規模といわれた東京勧業博覧会(明治40年)など、明治日本の国家的行事はすべてこの上野恩賜公園で催され、最先端の産業および文化を紹介するスポットとして多くの人も集めました。文明開化の発信地の一つにもなった上野のその後の発展は、必然ともいえる。

東京国立博物館の開館(明治5年)を筆頭に、国立西洋美術館や国立科学博物館などが相次いで建ち、さらには大学や図書館も集まり、学術・文化の中心となっていく。その流れは大正から昭和にかけても続き、やがて上野は日本屈指の文教施設が集まるアカデミックなエリアへと育っていきました。


上野「寛永寺根本中堂」


ZIPANG TOKIO 2020「 四百数十年前、 徳川家康公によって始まった江戸のまちづくりが・・・ いま上野で開花する(その弐) 」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2968992



円頂寺の天井絵「八方にらみの龍」


元岩村城天守閣の天井絵「八方にらみの龍」明治維新に廃城になった岩村城より移築された「八方睨みの龍」と称される天井絵です。畳八畳分の天井絵でどこからみても龍が睨んでいるように見えることから、このように呼ばれる。

移築地は最後までご覧いただくとわかりますので・・・


岩村町本通り伝統的建造物群保存地区 町並み


岩村町土佐屋(紺屋) 外観


岩村町土佐邸 内観


国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された岩村城下町

明知鉄道岩村駅から岩村城跡までをつなぐ本通りに広がる女城主ゆかりの城下町。全長1.3kmの古い町並み周辺には当時の面影を残す商家やなまこ壁、旧家が今も佇みます。

山々を望みながら歩くと、それぞれの店先に見えてくる暖簾。城下町では「女城主」にち なみ、暖簾に「おかみさん」の名前が入っています。 400 年前、戦乱の時代を生きた「おつや」を偲んで、代々続けられてきました。 家々の軒下に掲げられているのは岩村が生んだ偉人「佐藤一斎」の碑文。「この人物がい なかったら、日本の夜明けはなかったかもしれない」とまでいわれる江戸時代後期の儒学者で、著書『言志四録』は西郷隆盛、勝海舟、坂本龍馬など、幕末の志士に大きな影響を与え ました。 江戸時代に岐阜・東濃の政治・経済・文化の中心として栄えた城下町は、今も歴史的景観 を保ちながら、訪れる人を受け入れています。

(詳細は本文にて・・・)


ZIPANG TOKIO 2020「女城主岩村城下町  山里の生活の中で生きるその土地の伝統的民家とは &(一社)日本色彩学会 平成29年度研究大会 NAGOYA」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3252617



大徳寺 法堂並びに狩野探幽筆 法堂天井画「雲龍図」(重要文化財)


絵師・狩野探幽(かのうたんゆう)35歳の時の力作。法堂内で手を叩くと、まるで龍が鳴いたように音が響くことから「鳴き龍」とも称されています。


大徳寺

京都市紫野(むらさきの)船岡山の北辺に広大な境内地を有する臨済宗大徳寺は、元応元年(1319)、東山に遁世していた宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)が、播磨の武将赤松則村の援助でこの地に大徳庵を作ったのに始まり、正中元年(1324)、妙超に厚く帰依した花園・後醍醐両天皇が船岡の雲林院(うじゐ)の跡地を寄進したことによって寺基を拡張し、龍宝山大徳寺として開山しました。

妙超は入宋して日本臨済禅特に公家禅宗に多くの人材を残した南浦紹明(なんぼしょうみょう)の門下であるが、若くして天下の諸禅師を歴参し、京都に帰って天台・真言の旧仏教と論争して禅旨を明確にするに及び、その純粋に宋朝風の禅が朝廷の尊信をえたものであって、妙超は興禅大燈国師の号を賜わり、大徳寺は勅願所とされたのであります。

鎌倉幕府滅亡の元弘三年(1333)、大徳寺は五山の一に加えられ、翌建武元年(1334)には五山第一の南禅寺とならんで五山の上位に列しました。これは建武新政権によって京都中心の五山制度が定められた結果であります。その間、大徳寺は妙超の門派のみが相承することを特許されていました。その二高弟のうち、徹翁義亨(てっとうぎこう)は大徳寺を継いでその基礎を固め、関山恵玄(かんざんえげん)は妙心寺を開いたのでした。

しかし建武の新政が瓦解して足利政権が成立すると、後醍醐天皇と関係の深かった大徳寺は足利将軍家から軽んじられ、五山から除かれてしまいました。

至徳3年(1386年)には、十刹の最下位に近い第9位となっています。

このため第二十六世養叟宗頤は、永享3年(1432年)足利政権の庇護と統制下にあって世俗化しつつあった五山十刹から離脱し、座禅修行に専心するという独自の道をとったのでした。五山十刹の寺院を「叢林」(そうりん)と称するのに対し、同じ臨済宗寺院でも、大徳寺や妙心寺のような在野的立場にある寺院を「林下」(りんか)といいます。

その後の大徳寺は、貴族・大名・商人・文化人など幅広い層の保護や支持を受けて栄え、室町時代以降は一休宗純をはじめとする名僧を輩出しました。

侘び茶を創始した村田珠光などの東山文化を担う者たちが一休に参禅して以来、大徳寺は茶の湯の世界とも縁が深く、武野紹鴎・千利休・小堀遠州をはじめ多くの茶人が大徳寺と関係をもっています。また国宝の塔頭龍光院密庵(みったん)など文化財に指定された茶室も多く残っているのです。

このため京童からは「妙心寺の算盤面」「東福寺の伽藍面」「建仁寺の学問面」などと並んで「大徳寺の茶面(ちゃづら)」と皮肉られました。

享徳2年(1453年)の火災と応仁の乱(1467–77年)で当初の伽藍を焼失しましたが、一休宗純が堺の豪商らの協力を得て復興。近世以降も豊臣秀吉や諸大名の帰依を受けたのです。

江戸時代初期に幕府の統制を受け、元住持の高僧・沢庵宗彭が紫衣事件で流罪の圧迫を受けましたが、三代将軍家光が沢庵に帰依したこともあって幕府との関係ものちに回復したのでした。近世には「二十四塔頭、六十寮舎・子庵」あるいは「二十四塔頭、准塔頭五十九宇(「六十五宇」とも)」などと呼ばれ、末寺は25ヶ国280余寺、末寺の塔頭130余院を数えるほど栄え、朱印地は2011石余を有したのです。

この広大な寺領が大徳寺の経済的基盤であったのですが、明治維新後の上知令によって多くを失ってしまいました。なんとか堂宇を維持するため明治11年(1878年)、塔頭13寺を合併(事実上廃絶)、4寺を切縮、20寺を永続塔頭とする縮小を行う事で、寺運は栄え今日に至っています。


大徳寺 山門(金毛閣)

千利休が建てた金毛閣は、この楼上に利休の木像を置いたことから秀吉の逆鱗に触れ、利休切腹の要因になったことでも知られています。現在、利休の木像はご位牌と共に裏千家に祀られています。


大徳寺 唐門


大徳寺 方丈庭園と唐門


(詳細は本文にて・・・)


ZIPANG-4 TOKIO 2020 ~本朝無双之禅苑 大徳寺本坊~ 特別公開のご案内
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/9733249/



伊豆松崎町 浄感寺  名工 入江長八 作

漆喰(しっくい)と鏝(こて)で、絵を描き、あるいは彫塑(ちょうそ)して彩色するという独自の方法を編み出した 「左官の名工」伊豆の長八(本名・入江長八)。


文化12年(1815)8月5日、長八は伊豆国松崎村明地(現在の静岡県賀茂郡松崎町)に貧しい農家の長男として生まれました。

3歳の頃から菩提寺の浄土真宗・浄感寺で学問を学び、当時住職であった十三世正観上人のもとで12歳の頃まで育てられました。

12歳のとき同村の左官棟梁(とうりょう)関仁助のもとに弟子入りします。その当時から手先の器用さで知られておりました。

天保4年(1833)19歳のとき江戸へ出て御用絵師である谷文晁の高弟、狩野派の喜多武清から絵を学ぶ一方、彫刻も学びました。 絵画や彫刻技法を漆喰細工に応用し、従来は建物の外観を装飾する目的で漆喰壁に鏝で模様を描いていたものを絵具で彩色して室内観賞用の芸術品に昇華させました。 26歳で江戸日本橋茅場町にあった薬師堂の御拝柱の左右に『昇り竜』と『下り竜』を造り上げて、名工「伊豆の長八」として名を馳せました。

弘化2年(1845)31歳の時に弟子2人を連れて生まれ故郷の浄感寺の再建に係わり鏝絵を作成しています。

天井に描いた『雲龍』や欄間を飾る『飛天の像』(静岡県指定有形文化財)は傑作とされております。

現在、浄感寺の本堂は長八記念館となっており、これらの作品をみることができます。

長八は江戸に戻り、東京都台東区の浅草寺観音堂、目黒区の祐天寺などを含む多くの場所で傑作を作り上げたと言われています。

明治10年(1877)に第1回内国勧業博覧会に出品。

晩年、明治13年(1880)にも65歳で故郷を訪れ、岩科村役場や岩科学校などで制作作業を行っています。

明治22年(1889)10月8日、深川八名川町(現江東区深川)の自宅にて75歳で亡くなりました。墓は故郷の浄感寺と浅草正定寺の二箇所に設けられています。


浄感寺 本堂


浄感寺の創立は永仁年間ですが、約300年前の松崎村大火(元禄時代)で浄感寺も被害を受け全焼しました。その際、御本尊しかお助け出来ず伽藍などは全て焼失してしまいました。

以来仮本堂でしたが、十三世正観上人により弘化2年(1845)12月15日に立柱し、弘化4年(1847)3月中旬に落成されて現在に至っております。

本堂は紫宸殿風造りで耐風耐震建築です。

本堂の屋根は強風が吹くため、1丈2尺(約4m)切り詰められましたが、焼失以前は今より高かったので清水や沼津方面から松崎港へ向かう船は、 伊那下神社の大銀杏と浄感寺を目当てに入港したと言われております。


[ 棟 梁 ] 森 富蔵

[ 彩 色 ] 入江 長八

[ 彫刻師 ] 石田 半兵衛邦秀


「左官の名工」伊豆の長八(本名・入江長八)浄感寺の本堂天井に左官の技法で龍を描く!

ZIPANG-3 TOKIO 2020 ~ 日本の原風景 棚田巡礼 ~「世界一 富士山の眺望景観 西伊豆松崎町の石部棚田(2)」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/6735055



神奈川九龍 全エリア


宮彫りの歴史と芸術性

先ごろ、日本全国に建立されている寺社の建築物に精巧に施された彫刻を「宮彫り(MIYABORI)」と呼び、日本独自の芸術文化財として社会的認知の推進が計られている。

「宮彫り」は、桃山時代から江戸・幕末にかけて建築物に多用され、伊達政宗は、都の文化として彫刻大工や宮大工を藩内に呼び寄せ、宮城県瑞厳本堂(国宝)を建築しているほか、豊臣秀吉や徳川家康も彫刻を建築物に用いたことで知られている。

特に、民衆の宗教的演出効果を狙った経典の場面や極楽浄土の景色などを欄間などに彫刻し、金箔や彩色を施し、堂内を荘厳にするようにし、それを結実させたのが、栃木県・日光東照宮の名工・左甚五郎の眠り猫を代表作とした宮彫である。


神奈川 上行寺 左甚五郎作


寺社の装飾彫り物 超絶技巧 宮彫り「MIYABORI」

ZIPANG-5 TOKIO 2020 世界が驚嘆した日本の誇る宮彫り~神奈川九龍~とは?(1)
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/16814638



※現在、2150件余の記事掲載、下記のサイトからご覧ください。


新サイトの記事をご覧いただけます。

ZIPANG-7 TOKIO 2020 (VOL-7)
https://tokyo2020-7.themedia.jp/


最新の記事をご覧いただけます。

ZIPANG-6 TOKIO 2020 (VOL-6)
https://tokyo2020-6.themedia.jp/


最近の記事をご覧いただけます。

ZIPANG-5 TOKIO 2020 (VOL-5)
https://tokyo2020-5.themedia.jp/


250件ほどの記事をご覧いただけます。

ZIPANG-4 TOKIO 2020 (VOL-4)
https://tokyo2020-4.themedia.jp/


235件ほどの掲載記事をご覧いただけます。

ZIPANG-3 TOKIO 2020 (VOL-3)
https://tokyo2020-3.themedia.jp/


200件ほどの掲載記事をご覧いただけます。

ZIPANG-2 TOKIO 2020(VOL-2)

https://tokyo2020-2.themedia.jp/


615件ほどの掲載記事をご覧いただけます。

ZIPANG TOKIO 2020 (VOL-1)
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/