語ることができなくても
ゆうべ、ふとしたことで、娘の幼い頃の写真が出てきて、
娘とともに懐かしく、大笑いしながら見ていました。
その中に、亡くなった槐と蘇芳の小さな頃の写真がたくさんあり、
「かわいいね~」と喜んで見ていたのですが、
急に娘が泣きだしたので理由をきくと、
「こんなに小さな頃から一緒だったんだ…」と、
いなくなった切なさ、寂しさ、悲しさを伝えてくれました。
その想いの中には、
モットデキルコトガアッタンジャナイカ…
という、深い後悔の念もありました。
それは、わたしも同じです。
「そうだね…」としか、言えません。
慰めることは、陳腐に感じました。
慰められることも、陳腐に感じました。
こんな時、プレイバックシアターだったら、
どうだろう…?
と、ふと思いました。
感じている後悔の念や悲しみや寂しさや悼みを語りたいだろうか…?
意外なことに、あまり語りたくないと感じました。
それよりも、
他の人の想いやストーリーを聴いて、その表現を観て、
何かを自分の内側に映し出すかもしれない。
それを見つめてみたい。
そんな風に感じました。
プレイバックシアターの場に行くと、
「せっかくだから語ってみたら?」
「実際に氣持ちを観てみたら?」
という声掛けをよく耳にします。
わたしも、悪氣なく言っていました。
けれど、その人にとって非常に深い体験は、
分かち合うまでに時間のかかるものなのですよね。
もちろん、プレイバックシアターの場では、
決して無理強いはしません。
氣持ちやストーリーを語るのは、その人次第です。
語ったら良いとか、
語れないから悪いとか、
そんなことはありません。
(実践者としてトレーニングしている人は、積極的に語ると良いとは思いますけれども)
自分は語れなくても、
誰かの氣持ちや、ストーリーに、
今の自分にぴったりくる感覚を見つけることもある。
誰かのストーリーで表されたものが、
あたかも自分のことのように感じることだって、ある。
プレイバックシアターは、それを許している。
共感というカタチで。
悼みがあまりに新鮮で、直視できないとき、
プレイバックシアターで誰かの氣持ちを観せてもらうことで、
少しだけ自分の内側の氣持ちに向き合うことができるのかも、
しれません。