「自らの権威を主張せずに」
使徒の働き 22章22―29節
22. 人々は彼の話をここまで聞いていたが、声を張り上げて言った。「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしておくべきではない。」
23. 人々がわめき立て、上着を放り投げ、ちりを空中にまき散らすので、
24. 千人隊長は、パウロを兵営の中に引き入れるように命じ、なぜ人々がこのように彼に対して怒鳴っているのかを知るため、むちで打って取り調べるように言った。
25. 彼らがむちで打とうとしてパウロの手足を広げたとき、パウロはそばに立っていた百人隊長に言った。「ローマ市民である者を、裁判にもかけずに、むちで打ってよいのですか。」
26. これを聞いた百人隊長は、千人隊長のところに行って報告し、「どうなさいますか。あの人はローマ市民です」と言った。
27. そこで、千人隊長はパウロのところに来て言った。「私に言いなさい。あなたはローマ市民なのか。」パウロは「そうです」と答えた。28. すると千人隊長は言った。「私は多額の金でこの市民権を手に入れたのだ。」パウロは言った。「私は生まれながらの市民です。」
29. そこで、パウロを取り調べようとしていた者たちは、すぐにパウロから身を引いた。千人隊長も、パウロがローマ市民であり、その彼を縛っていたことを知って恐れた。
礼拝メッセージ
2023年10月15日
使徒の働き 22章22―29節
「自らの権威を主張せずに」
さわやかな秋を迎えている私たちとは正反対に、聖書の舞台であるイスラエル・パレスチナが恐ろしい戦場と化しています。使徒の働き8章26節に、さて、主の使いがピリポに言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」そこは荒野である。(新改訳聖書2017)とありますが、以前の翻訳では、
ところが、主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」(このガザは今、荒れ果てている。) (新改訳聖書・第3版)となっていました。2000年前も現在も荒れ果てているガザ。これからさらに恐ろしいことが待っているガザのために祈りましょう。そしてイスラエルのためにも。ミサイル攻撃で倒壊した建物の下敷きになって、うめいている人々が救出されるように。突然の襲撃で耐えがたい恐怖を体験しているであろう双方の人々が守られますように。そして一日も早く戦いが終わるようにと。
今朝も使徒の働きのみことばから、2000年前のエルサレムで起きた出来事を見ていきます。逮捕されたパウロは怒り狂う大群衆を前に、自らの救いと献身の証しを堂々と語りました。以前は、クリスチャン迫害の急先鋒に立っていた自分が、なぜイエス様を信じるようになったのか。なぜイエス様の福音を宣教するようになったのかを語りました。
静かにパウロの語る言葉に耳を傾けていた群集でしたが、ある言葉をきっかけに、再び怒りを燃えたぎらせます。21節に出てくる「異邦人」という言葉です。主イエス様がパウロを異邦人宣教に遣わされた。その言葉を聞いたユダヤ人たちは激しく怒り始めたのです。「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしておくべきではない」(22節)と一斉に叫んで、飛びかからんばかりの勢いで迫って来ます。上着を放り投げ、ちりを空中に撒き散らしました(23節)。激しい怒りと憎しみの表現です。
ある牧師はこの箇所を「まるで大相撲の結びの一番で、あまりにも強いモンゴル出身の横綱が負けてしまった。次の瞬間、場内の観衆が一斉に座布団を放り込むシーンのようだ」と説明していました。大相撲の座布団放り投げは、その場だけの一時の興奮状態です。それに対して、この時のユダヤ人の激しい反感は、彼らがずっと持っていた根強い異邦人差別意識、異邦人を軽蔑する心から沸き上がって来た怒りでした。
「ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかった」と、ヨハネの福音書4章9節に出てきます。お隣に住むサマリヤ人とすら交流を持たないくらいです。ましてやギリシア人やその他の民族とは、一緒に食事をしたり、家に遊びに行ったりするなんて、考えられないことでした。
パウロは、あらゆる壁=人種の壁や民族の壁を乗り越えて、福音を宣教していました。異邦人もユダヤ人も関係なく一緒に集まり、一緒にイエス様を神と信じる教会が各地に誕生していました。しかし、そのことがユダヤ人たちの中に激しい反感と怒りをかき立てていたのです。
やかんが沸騰したかのような有り様です。再び暴徒化しわめき立てる群集を目にし、ローマ軍の千人隊長はあせります。パウロはユダヤ人に対して、彼らの母国語であるヘブル語でメッセージを語っていました。千人隊長には、外国語であるヘブル語は理解できなかったでしょう。何が起こっているのかわけが分かりません。ですから「とりあえず、騒ぎの中心にいるこの男をきつく縛っておけ!そして、この男にむちを打っても構わない。拷問を加えて取り調べよ」と命令を下すのです(24節)。
当時のローマ軍が用いていたむちは、革のひもの先に、鉛のかたまりや角ばった骨のかけらが結びつけてあるものでした。そんなもので体を打たれたら、どうなるか…? 想像するだけでゾッとしますね。当時、このむちを打たれて、死んでしまう人も多かったそうです。もし生き延びることができたとしても身体と心に一生消えない痛みが残ったでしょう。
むち打ちは恐ろしい拷問でした。けれどもパウロは、このむち打ちをされないで済む権利を持っていました。ローマ市民権というものです。当時、ローマ帝国がヨーロッパ全域、西アジア、北アフリカ一帯を支配していました。そのローマの市民権を持っていることは、特別でした。ローマ市民には、次のような権利が与えられていました。
① 選挙権・被選挙権
② 婚姻権
③ 所有権
④ 判事の判決に対して、ローマ皇帝に異議申し立てをできる権利
⑤ ローマ軍団兵となる権利
⑥ 属州民税(収入の10%)を課されない権利
⑦ 打ち叩かれたり、かせをはめられたりしない権利
パウロはユダヤ人でしたが、お父さんかおじいちゃんがローマ市民権を獲得していたようです。たくさんのお金を払って市民権を獲得していた千人隊長に対して、パウロは、「私は生まれながらの市民です」(28節)と胸を張って伝えています。
危機一髪、ここでパウロは「ローマ市民権」という持っていた権利を用いて、命の危険を脱します。以前、ピリピの町でパウロはむちを打たれていました(使徒16:23)。その時には市民権があることを伝えるいとまもなかったのでしょうか。あのピリピでの傷がまだ痛んでいました。
まだ、パウロは死ぬわけにはいきませんでした。「ローマに行ってそこで宣教する」という使命を与えられていました(使徒19:21)。ここエルサレムでは生き延びなければいけなかったのです。
この時、エルサレムの町では命拾いをしました。しかしパウロは、コリント教会に宛てた手紙の中で、「私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。それはまた、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです。」(Ⅱコリント4:11)と語っています。いつでもイエス様のために死ぬ準備(殉教する覚悟)ができていました。そして、この地上での命の次に天の御国でイエス様のよみがえりのいのち=永遠のいのちにあずかる確信もありました。9年後のA.D.67年頃、パウロはローマ皇帝ネロの迫害に遭い、捕らえられ、ローマの町で殺された=他の使徒たちと同じように殉教したと伝えられています。
パウロの歩みは、主イエス様の召しに従い、聖霊の導きに従って、ただただイエス様を宣べ伝た歩みでした。使徒の働きを記したルカは、このパウロの歩みを主イエス様の歩みと重ね合わせて書いたと言われています。パウロはこの時、むちを打たれることから守られましたが、約30年前に、同じエルサレムの町でぼろぼろになるまで、むちを打たれたお方を私たちは知っています。主イエス・キリストです。
私たちはつらくなってしまい、恐ろしく悲しくなってしまいますが、主イエス様の受難の箇所、イエス様がむちを打たれた、みことばに耳を傾けきたいと思います。「その打ち傷のゆえに、私たちは癒された。」と、イザヤ53:5に預言されていました。イエス様の打ち傷は、私たちの罪を赦し、私たちを慰め、癒してくださいます。
新約聖書ヨハネの福音書18章33節から19章16節まで、
18章
33. そこで、ピラトは再び総督官邸に入り、イエスを呼んで言った。「あなたはユダヤ人の王なのか。」34. イエスは答えられた。「あなたは、そのことを自分で言っているのですか。それともわたしのことを、ほかの人々があなたに話したのですか。」35. ピラトは答えた。「私はユダヤ人なのか。あなたの同胞と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのだ。あなたは何をしたのか。」36. イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」37. そこで、ピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたの言うとおりです。わたしは、真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」38. ピラトはイエスに言った。「真理とは何なのか。」こう言ってから、再びユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私はあの人に何の罪も認めない。39. 過越の祭りでは、だれか一人をおまえたちのために釈放する慣わしがある。おまえたちは、ユダヤ人の王を釈放することを望むか。」40. すると、彼らは再び大声をあげて、「その人ではなく、バラバを」と言った。バラバは強盗であった。
19章
1. それでピラトは、イエスを捕らえてむちで打った。2. 兵士たちは、茨で冠を編んでイエスの頭にかぶらせ、紫色の衣を着せた。
3. 彼らはイエスに近寄り、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、顔を平手でたたいた。
4. ピラトは、再び外に出て来て彼らに言った。「さあ、あの人をおまえたちのところに連れて来る。そうすれば、私にはあの人に何の罪も見出せないことが、おまえたちに分かるだろう。」
5. イエスは、茨の冠と紫色の衣を着けて、出て来られた。ピラトは彼らに言った。「見よ、この人だ。」
6. 祭司長たちと下役たちはイエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは彼らに言った。「おまえたちがこの人を引き取り、十字架につけよ。私にはこの人に罪を見出せない。」
7. ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。その律法によれば、この人は死に当たります。自分を神の子としたのですから。」
8. ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れを覚えた。
9. そして、再び総督官邸に入り、イエスに「あなたはどこから来たのか」と言った。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。
10. そこで、ピラトはイエスに言った。「私に話さないのか。私にはあなたを釈放する権威があり、十字架につける権威もあることを、知らないのか。」
11. イエスは答えられた。「上から与えられていなければ、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに引き渡した者に、もっと大きな罪があるのです。」
12. ピラトはイエスを釈放しようと努力したが、ユダヤ人たちは激しく叫んだ。「この人を釈放するのなら、あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者はみな、カエサルに背いています。」
13. ピラトは、これらのことばを聞いて、イエスを外に連れ出し、敷石、ヘブル語でガバタと呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。
14. その日は過越の備え日で、時はおよそ第六の時であった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「見よ、おまえたちの王だ。」
15. 彼らは叫んだ。「除け、除け、十字架につけろ。」ピラトは言った。「おまえたちの王を私が十字架につけるのか。」祭司長たちは答えた。「カエサルのほかには、私たちに王はありません。」
16. ピラトは、イエスを十字架につけるため彼らに引き渡した。彼らはイエスを引き取った。
・ このお方、主イエス様は、真夜中から開始された不当な裁判の場に被告人として立たされました。
・ 一つも罪の無いお方が、極悪な犯罪人と同じ死刑判決を下されました。
・ このお方は、身体中にあのローマ軍のむちを打たれました。何度も何度も繰り返し。
・ 頭にはとげのとがった茨の冠をかぶせられ、侮辱されました。
・ ほっぺたをバチーンと、兵士たちからビンタされました。
・ そして世界一残酷な死刑の道具、十字架に架けられて命を落とされました。
このどれもが、先ほどの「ローマ市民権」を持っていたならば、回避できたことでした。このお方、イエス様はローマ市民権などはるかに及ばない大いなる権利・権威を本当は持っておられました。イエス様は神の御子、神ご自身でした。総督ピラトなど、ユダヤの宗教指導者など、はるかに及ばない力と権威を持っておいでのお方でした。しかしこのお方は受難の場面において、その権威を一切、主張されませんでした。その権威を一切用いられませんでした。先ほど交読したピリピ2章のみことばにあった通りです。
ヨハネ18章36節には、イエス様のこんな言葉が記されてあります。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」
神の御子イエス様が父なる神に願われたならば、すぐに天国からしもべたちが来て戦ったのです。「十二軍団よりも多くの御使い」(マタイ 26:53)が天から下って来て、イエス様をしばっている縄をばさっと断ち切り、イエス様に逆らう者たちを、一網打尽にすることだっておできになったのです。
イエス様のお力で、思い一つ・お言葉一つで、この状況を一変させることだってできたはずです。一瞬にして、ピラトもローマ兵もユダヤの宗教家たちも、一網打尽にすることだって簡単なことでした。
しかし、イエス様はそうされなかったのです。一つもご自身の権威を主張されずに、ただひたすら十字架へと進んで行かれました。まっすぐ十字架の死へと進んでいかれました。私たちのために、私たちの身代わりとして死んでくださるために、神の御子イエス様が、十字架に向かって行かれました。
・ 私たちの罪が赦されるのは、ただただこのイエス様の身代わりの死によってのみです。
・ 私たちの救いは、ここにあります。
・ 私たちの本当のいのちは、ここにあります。
・ 私たちの本当に慰めは、私たちのたましいの癒しは、ここにしかありません。
自分の権利や権威ばかりを主張しやすい私たちです。神の御子イエス様が、ひとつもご自身の権威を主張されずに、ここまでへりくだってくださったことを忘れないようにしましょう。イエス様が、ご自身の権威を一切用いられずに、十字架へ進んでくださったこと。このイエス様の御姿を覚えながら、少しでも謙遜な者にならせていただきたいと願います。
お祈りします。