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Angler's lullaby

Shot glass lullaby(心の漂泊)

2018.09.15 15:00

どうも小さい頃から心の中に何か得体の知れない大きなモノがいるような気がしてならない。


果たしてそれが、かのフロイトの言う、リビドーなのかそれともタナトスなのかは分からないが、とにかくいるのだ。 


幼稚園から小学校の5年生までは周りに溶け込めないと感じられる自分が嫌で嫌で、無理矢理笑ったり、興味がないアニメの話しで盛り上がったフリをしたり、面白いとは思えない遊びで一緒にはしゃいでみせたりしていた。


しかし、小6の時、本当にふとした瞬間、そんなことに耐えられなくなり、いつもの遊びの誘いを断り、夢中で絵を描き続けたことがあった。 


それは忘れもしない、図画工作の課題で与えられたゴッホの「星月夜」の模写だった。授業が終わった放課後にもまた絵の具を出して、狂ったように幾重にも幾重にも色を塗り重ねた。心の奥底をぶちまけている気分だった。一筆ごとに曇っていた命が輝いてくる気がした。


遊ばなくなった友人たちからは不思議がられ、やがてだいぶいじめられるようになったが、全く気にならなかった。むしろ爽快な気分だった。

 

あれからもう数十年経つ。このことをきっかけにして嫌なことは嫌と言えるようになったし、好きなことに没頭する喜びを知った。むしろ周りからはマイペースな人間だと思われ続けてきたかもしれない。 


・・・・・・・・・・・・・・・・

8月某日、友人に誘われてキャンプに行った。


仕事が立て込んでいる時期で正直心身ともに疲れてはいたが、気の置けない友人たちからの誘い、昼過ぎまでで仕事をこなし終えて山奥へと車を走らせた。


実はこの数日前にちょっとした出会いがあった。 


個人的に、「どうしても欲しい」と思える程ではない「いつかは、何となく、欲しい」ものはあえてネットで探さないようにしている。
偶然の出会いを待つような気持ちだろうか。もし何年も会わなければそれまで。
もし会えたらそれを小さな運命として喜ぼう、と。 


その1つがショットグラスだった。


大体、釣り場で飲んで美味しい酒って、意外と限られている。 


長時間ドライブした後で飲むビールはやっぱりキンキンには冷えていないし、お湯割りとか水割りとかするっていうのもあんまり現実的じゃない。 


そうなると、やっぱりウイスキーや、日本酒や、ジンなんかをチェイサーと一緒にキュッとやるのがいい。


そのためのショットグラスをずっと探していたのだ。 



近所をブラブラと歩いていると、突然それは目に留まった。 

スタンレーのショットグラス。4個セットでしかもケース付。

このタイミングで。 

迷わずその場で購入し、友人たちの待つキャンプ場へと持って行った。 


着いてみると、一緒によく遊ぶルアー組が3人、御池で知り合ったフライフィッシャーが2人、私も入れて合計6人。 


泊りがけの仕事を終え、ほとんど身1つでろくな差し入れも持たずに駆け付けた自分と違い、めいめいがご馳走を持ってきてくれている。ちょっと申し訳ない気持ちで宴会に参加した。


ビールを2本開け、まだ明るい内からショットグラスを見せたくなる。 


後輩君が買ってきてくれたジャパニーズライムこと「平兵衛酢(へべず)」をカットし、グラスを配って、皆にジンをついでまわった。


 これを一口を含んで、平兵衛酢を軽くかじり、チェイサーでアルコールを冷ます。


何年か欲しかったショットグラスのデビューがこんな素敵なものになるとは思っていなかった。何杯か飲み干し、段々と上機嫌になってゆく自分を感じていた。


釣り人たちの異業種交流は、いつしかタックル談義に行き着き、


何故だか、キャスティング大会へと変わっていった。

実は、もうこの時はだいぶアルコールが足に来ていたので、しっかりとは覚えていないが、フライのバンブーロッド、渓流ベイトフィネスタックル、スピニングタックル数本がキャンプ場で入り乱れていたように思う。


私の心に住まうモノは、年とともに変化していき(多分成長し)、強力になり、時に私をあおりたて、時に沈ませようとする。


そのコントロールがたやすい時もあれば、制御不能になりそうな時もある。


本を読みたくなるのは大抵、制御が難しい位沈ませようとする時で、ここまで何度も活字に救われてきた。

 

また、友人とこんな風にバカをやりながらゲラゲラ笑い合えるのも、一時、モノの存在を忘れ去ることが出来る貴重な時間だ。 


皆、多かれ少なかれ心に闇(病み)はあるだろう。言葉とジェスチャーの交流、空気と時間の共有はその表面だけでなく、お互いの光と闇を見せ合うことでもあると思う。



随分と夜の帳(とばり)が降りてきた宴の最中、ふと思い出したことがあった。 


それは、ここ数年、人からの台詞で一番嬉しかったもの。  


「マツモトさん、あなたも立派な"社会不適合者"ですよ。」 

と、大笑いしながら言われたことだった。 


そこに至るまで数時間話し込んだ後でのことだったから、何だか本当の意味でに癒やされた心地になったものだ。

俺、本当はそうなんだよなあ、としみじみ感じ入った。  


そしてとっくに圏外になってる自分の携帯の代わりに誰かのを使って、世田谷のショップに電話を掛けた。別に用事はなかった。
 

次に最近、

「もっと"自由"にやればいいじゃないですか。」
と肩の力を抜いてくれたカリスマアングラーにも掛けた。 


2件とも始めのあいさつだけを軽くして、ゆかりのある友人にすぐバトンタッチ。 

我ながら随分タチの悪いイタズラで、皆からかなり叱られてしまった(ごめんなさい。もうしません。)。 


後日、2人ともにちゃんと直接お詫びはした。


ただ、真心がこもった一言がどれだけ人の心を救う瞬間があることか。


モノとの対峙は誰にとってもそうそう簡単なことではないだろう。 


それとも真っ昼間、間抜けに灯る白熱灯のようにぼうっと生きられたら楽なのだろうか。

私はそんな生き方はしたくない。 



まあ、でもそこまで気にすることではないないのかもしれない。


人の心は誰しもリビドー(生への衝動)から少しずつタナトス(死への欲動)へと変わっていくものだろうから。 


ここまで考えて、あてどなく漂泊する心の怪物は、ショットグラスの子守歌を聞きながら浅い眠りについた。