【SQ5】20 WINNER TAKES ALL
――少女に促されるまま転移の水晶に触れると、辿り着いた先には今までになく広大な空間が広がっていた。所々に水晶の柱が立つ床は最奥まで見渡せないほど広く、上を見ても吊り下がった水晶の切っ先がこちらを向くばかりでその根元には目を凝らす事すらできない。
全員が息を呑んで辺りを見回す中、先頭にいたマリウスの袖をリズがぐいと引いた。彼女は暗視(ナイトビジョン)の魔法を宿した瞳で広間の奥に横たわる暗がりをじっと見つめ、小さく呟く。
「いる」
同時に、ただの暗闇だと思っていた影がぐらりと頭をもたげる。低く唸りを上げて身を起こし、こちらを睨むその威容……鋭く輝く水晶の翼を広げたその姿は、まさしく水晶竜と呼ぶにふさわしいそれであった。
「しかし、あれを越えろと言われても、近付くのにも難儀するんじゃなあ……」
腕に残った盛大な擦り傷を気にしながらマリウスが呟いた。他の面々の治療を終えたエスメラルダが彼に歩み寄り、鞄からハーブを取り出しながら応える。
「どうにかなりませんかね? あの水晶」
「それを今考えてるんだが、まったく思いつかないな……」
顔を見合わせ、二人は溜息を吐く。
第四層の最奥部でようやく出遭った水晶竜は、こちらを認識するや否や攻撃を仕掛けてきた。その名のとおり水晶のように輝く結晶を撃ち出すその攻撃は、恐らくまともに喰らえばかなりの痛手を負うだろう。軌道が直線的で見切りやすいのは幸いだが、だからといって繰り出される攻撃をすべて避けながら相手の傍まで近付くのは無理がある。現に、今の『カレイドスコープ』も攻撃を避けながら広間を散々走り回った挙句、壁際に追い詰められて慌ててアリアドネの糸で脱出してきたところなのである。
「竜ってあんな攻撃的なんですね。なんかちょっと……祈るのやめようかな……」
「あれは信仰されてる竜とはまた別物なんじゃないか……?」
なんの実にもならない会話をしているうちに、傷の治療も問題なく終わった。感覚を確かめるように手を握っては開いてを繰り返すマリウスの元にケイナが近付いてくる。
「大丈夫か?」
「ああ。しかし、毎回これだと倒すどころじゃないな……」
「うーん……どうにか死角に入りこめたらいけそうだけど……」
そう言って考え込むケイナは他の面々とは違って傷ひとつ負っていない。ギルドでいちばん足が速い彼は、どうやら脱出直前の混乱の中でも無傷で結晶を避けきったようだ。耳を忙しなく動かしながらケイナは続ける。
「あいつ、俺たちを見てから攻撃してきてたから、視界の外に出れば良いんじゃないかって」
「視界の外っていっても、あのだだっ広い場所だとね……」
「目隠しする」
と、唐突に会話に入ってきたのは、いつの間にかマリウスの背後に忍び寄っていたリズだ。地面に座ったままだった彼の頭に全体重を預けながら、彼女は歌うように言う。
「おめめ隠せばー見えないもーん」
「痛い痛いどいてくれ……隠すって、どういう風にだ? 『黒霧』か?」
アースラン族に広く伝わる弱化の魔法を思い浮かべながら問えば、リズは体全体を使って首を傾げた。振り子のように左右に揺れながらうーんうーんと唸る彼女に溜息を吐き、マリウスは立ち上がる。傷も治った事であるし、早く宿に帰った方がいいだろう。いつまでも樹海入り口でたむろしている訳にはいかないし、と荷物を抱え直したところで、彼は気付いた。……エールが四つん這いになって何かを探している。
「……エール、何してるんだ?」
呼びかけに振り返ったエールの顔には見るからにしなびた表情が浮かんでいる。最近よく見せていた落ち込んだ表情とはまた違う、しわしわとしか形容できない顔で、彼女は自身の衣服を指さす。よくよく見てみれば、白い生地で仕立てられた胴回りを飾る金の装飾が、ひとつ足りない。
「ボタン……落としました……」
……これは得なくとも一切人生の役に立たない知見であるが、冒険者が五人、樹海入り口で這いつくばって小さいものを探していると衛兵を呼ばれる。とんだ大恥である。
◆
数日後、『カレイドスコープ』は再び水晶竜の住処を訪れていた。順に転移を終え、広間に降り立った一行は、居住まいを直して奥に鎮座する竜を見つめる。どうやら今立っているこの地点は、あの竜の警戒範囲からは外れているらしい。岩のようにじっとしたまま動く気配のない迷宮の主から目を離さないまま、エスメラルダが呟く。
「じゃあ、予定通りに……って、本当に大丈夫なの? よりにもよってぶっつけ本番って……」
「成功したら成功したで、次は戦わなくちゃいけないですしね……」
「まあその、無理そうだったら脱出しよう。皆、糸は持ったな?」
マリウスの問いに、他の面々は各々アリアドネの糸を掲げて応える。不測の事態が起こっても各自脱出して身の安全を確保しようという苦肉の策であるが、正直なところこれ以上の安全策が思いつかないのだ。もちろん、この糸を使うような事態にならないための作戦も、考えてはあるが……。
とにかく、挑んでみなければ本当に策が通じるのかも分からない。両の頬を叩いて気合を入れ、まずマリウスが先頭に立って歩き出した。四人も彼の背中にぴったりくっつくようにして後に続く。
壁伝いに外周を回りつつ少しずつ水晶竜の元へ近付いていく。竜の無機質な瞳がこちらを捉えたのは広間の半ばあたりまで来た時だった。翼――と呼ぶべきなのかは分からないが、背中から生えているので恐らく翼だろう――を広げ、攻撃態勢に入る。
「左ー!」
とマリウスが叫んで走り出せば、他の面々も一斉に駆けだす。数秒後、先程まで連れ立って歩いていた場所をに鋭い結晶が着弾した。水晶竜は首をもたげ、逃がした獲物へもう一度狙いを定めた。
「来ます……!」
「よし、行くぞ! 作戦通りに!」
ケイナがひとつ頷き、隊列から外れて水晶の陰に滑り込む。水晶竜の狙いは依然として四人に向けられたままだ。それを確かめながら一行は一心不乱に走り続ける。道中、何度か乱立する転移の水晶に触れた。これらが広間の中にしか通じていない事は既に確認済みだ。具体的にどの位置に転移するのかまでは把握できていないが、今の状況ではそれは大した問題ではない。
転移のお陰で水晶竜が一瞬こちらの姿を見失った。その間にマリウスが重砲に弾を込めて引き金に指をかけた。水晶竜までの距離はかなり縮まっている。この距離ならば、十分だ。
狙いをつけ直した水晶竜が放った攻撃が足を緩めた四人のすぐ傍を掠る。追撃が放たれるまでの時間は決して長くはない。視界の端でリズが死霊を召喚する姿を捉えながら、マリウスは重砲の照準を覗き込んだ。狙いは甘くとも構わない――最低限、「当たる」と確信できる角度に砲口を合わせ、引き金を絞る。
放たれた弾丸は水晶竜の目の上、艶やかな黒い角の表面を滑って軌道がずれたまま着弾する。しかしその瞬間、弾を中心に黒い霧が爆ぜる。瞬く間に拡散して水晶竜の顔を覆ったそれは、マリウスの操る瘴気だ。
ソロルとの特訓の中でマリウスが身につけた、瘴気を操る技……それがこの「瘴気弾」だった。多くのリーパーとは異なり、マリウスの瘴気は濃度も量も足りず、霧の状態で使うのも兵装を纏うのも難しい。それならば効果が見込める最低限の量の瘴気を、可能な限り空気中に拡散しない形で相手の元へ撃ち込めばいい。ソロルの助言を受けつつ、内部に瘴気を込められる構造になっている専用の弾丸を手配し、何度も練習を重ねてようやく実戦で使えるまでにこぎつけたが……その努力が、いま実ったようである。
突如瘴気を浴びせかけられた水晶竜が大きく身悶えする。相手が攻撃どころではない状態に陥ったその隙に、水晶の陰に潜みながら少しずつ距離を詰めていたケイナが一気に動いた。刀を抜き、斬りかかる。同時に水晶竜も眼前に纏わりつく瘴気を振り払おうと頭を振り回した。動きの余波で狙いが逸れる。しかし鋭い斬撃は確かに竜の胸元へ一文字の傷を刻んだ。竜の悲鳴が水晶の隙間を跳ね返る。
剣を抜いたエールがケイナと入れ替わりで前へ出た。体重のかかった前足の筋を狙って突きを繰り出す。返す刃でもう一閃。角度が悪かったのか、傷は浅い。
遅れてやってきた三人も各々隊列を整えて戦闘の準備に入る。最後尾で鞄の中身を探りながら、エスメラルダが上ずった声で叫ぶ。
「本当にいけちゃった!? やれるの!? これ!!」
「やれるやれないじゃなくて、やるんだ!!」
一声叫んで応え、マリウスは間断なく盾を構えながら重砲に弾を込め直す。エスメラルダの気持ちも分かるが、むしろ本番はここからだ。
体勢を立て直した水晶竜は足元をうろつく人間たちをじろりと睨み、ぐっと頭を上げると口から炎のブレスを吐き出した。攻撃の構えに入っていたために回避が遅れたケイナを死霊が庇う。エールはとっさにかわしたようだ。マリウスが構えた盾の陰に滑り込んで炎を凌ぎながら、エスメラルダが焦った声で呟く。
「この炎、良くない魔力が混ざってる気がする。例のやつ使ってみていいですか?」
「例の……ああ、あれか。やってくれ」
マリウスの返答にエスメラルダは頷き返し、背負っていた弓を構える。矢をつがえる代わりに魔力を指先に込め、弦を引き、放す――射出された魔力の塊は上空で弾けて周囲に降り注いだ。瞬間、熱気と共に立ち込めていた「良くない」感覚が引いていく。エスメラルダはぐっと拳を握って喜びを露わにすると、すぐに弓を背負い直してハーブに持ち替えた。
マリウスの知らぬ間にエスメラルダが身につけていたこの術は、祈祷:鎮守と呼ばれる祈祷術の一種であるらしい。なんでも偶然街でディアマンテと出会った際に手ほどきを受けたのだそうだ。巫子の技がそう簡単に伝授できて良いのかとは思わなくもないが、こうして役立っている以上利用しない手は無い。
水晶竜が再びブレスの構えを取る。前衛で攻撃を続けていたケイナとエールがすぐさま後退するが、間に合わなかった。眩いばかりの閃光が竜の口から迸る。
祈祷術による支援が効いたのかダメージそのものは大きくない。だが、やはりブレスそのものに何らかの魔法が込められている。不自然に腕を強張らせて刀を取り落としたケイナの元へ、ハーブを握ったエスメラルダが走る。
「っごめん……!」
「大丈夫! すぐ治すから!!」
マリウスが二人を庇う位置へ移動して重砲を構える。最前列のエールが腕封じを免れて攻撃を続けている今、瘴気弾を撃つのは難しい。瘴気での妨害は諦めて水晶竜の足下に狙いをつけた。弾丸が床を跳ね、鋭い爪に覆われた爪先を抉る。
狙撃を受けた左前足が僅かに後退した一瞬の隙に、エールがその足の付け根へと身を滑り込ませる。剣を両手で握り、無防備に開いた関節へ切っ先を捩じ込んだ。溢れた血潮がエールの髪を濡らす。
足や尾をばたつかせる水晶竜へ死霊が次々に組みついては火球と化して爆発していく。息つく暇もない追撃に、竜はたまらず叫び声を上げた。同時にその背の翼が閉じる(・・・)。左右それぞれに生えていたいくつかの鋭い突起が一箇所に集束し、組み合わさってまるで牙か爪のような様相と化す――それがぐっと持ち上がった瞬間、治療を終えたばかりのケイナが弾かれるように動いた。傍らのエスメラルダを抱えて半ば頭から床に突っ込む形でその場を跳び退く。一秒と経たないうちに、先程まで二人がいた場所を翼の先端が抉った。
目にも留まらぬ一撃に呆気に取られていたエールだったが、はっと我に返ると身を翻して水晶竜の懐に飛び込む。体の下に入れば翼の攻撃は届かないと踏んでの判断だ。しかし彼女の頭上で水晶竜が爪を振り上げる方が速かった。空を切る鋭い音。寸前で死霊が割って入ったおかげで直撃は免れた。裂けたスカートの裾を千切り捨て、二歩、三歩と後退し呼吸を整え直してもう一度踏み込む。
距離を取ってエスメラルダを下ろし、刀を構え直してエールに追随するケイナを見送りながら、マリウスは素早く周囲に視線を巡らせる。盾による防御ではあの速度に対応できない。バンカーで誘導できれば何とかなるだろうか――そんな事を考えて注意が疎かになった瞬間、竜が天を仰いで大きく嘶いた。音とすらも認識できないような音が鼓膜を貫いて脳を揺らす。
マリウスの身体が大きく傾ぐ。慌てて駆け寄ったリズが彼を支えて盾の陰に転がす。呼吸はしているが意識が無い。エスメラルダは攻防の中で傷を負った前衛の二人を診ている。むっと眦(まなじり)を吊り上げ、マリウスの頬を往復ビンタし始める。
「お、き、て!」
「リズ、とりあえず置いといて! 代わりに守り固めて!!」
エスメラルダが叫ぶ。寝ているだけなら起こすのは後回しでもいいが、安全に治療できる状況が維持できなければそれすらできなくなる。リズは掴み上げていたマリウスの胸ぐらから手を放すとすぐさま死霊を召喚してエールたちの元へ向かわせた。
前衛ふたりが絶え間なく攻勢に出ているおかげで、水晶竜の動きは当初と比べてかなり鈍っている。前足を振り上げるたび流れた血が滝のように床を叩いた。竜は高く吼えた。大きく口を開け、仰け反る。
このまま終わるような相手ではないと、分かっていた筈だ。それでも油断があった。翼の形が変わってからは速さに特化した物理攻撃が続いていたため、そうは来ないだろうという思い込みがあったのかもしれない。
牙の隙間に眩い虹色の光が見えた、その瞬間に前衛の二人は身を低くして床に伏せる。しかし吐き出されたプリズム光の氾濫の中では回避は無意味だった。熱か、冷気か、閃光か――正体の判然としない魔力の奔流が一面を駆け巡る。暴力的な衝撃が肌を刺す。
光が晴れた。うずくまっていたエスメラルダが咳き込みながら立ち上がる。伏せたまま動かなくなったケイナをエールが引きずって戻ってくるのが見える。マリウスは目を覚ましたようだがダメージが大きいのか四つん這いの状態のまま、動きだす気配が無い。リズは比較的無事だ。だが先程のブレスで死霊が全滅した。召喚を待ってから動き出すのでは遅い。これは、まずい。
水晶竜の背の翼が再び開く。エスメラルダの元にケイナを運んできたエールが必死の形相で荷物を探る。各種ミストは用意してあるが、どのブレスを吐いてくるかは分からない。三分の一の確率に賭けるより先に治療を優先すべきだ。
「ヒギエイアの杯は、」
「まだ無理。……先に君を治す。攻撃を引きつけてほしい」
掠れた声でそう言うエスメラルダに、エールは一瞬逡巡する様子を見せてからひとつ頷いた。最低限の傷を癒やし、彼女は再び水晶竜の元へ駆けていく。入れ替わりに死霊の再召喚を終えたリズが近付いてきた。疲弊した様子の彼女にアムリタの瓶を渡してやりつつ、エスメラルダは鞄からハーブを取り出す。
「リズ。今からケイナを起こすから、その後で死霊を回復にまわして。できれば防御も同時に」
「うん」
その時だった。リズが背後をはっと振り向く。エスメラルダがその様子に気付く前に、彼女は高く叫んだ。
「伏せてえ!!」
リズの言葉をかき消すように、爆発音が響く。
水晶竜を中心に広がった暴力的なまでの熱と風が、『カレイドスコープ』をなぎ倒す。リズに押し倒される形で床に張りついたエスメラルダは、風圧のせいで薄らとしか開かない視界の端でエールが吹き飛ばされているのを見た。
何が起こったのか理解できないまま、ほんの数秒と経たないうちに爆風は止み、熱ばかりが周囲に焦げついたままその場に残される。半ば這うように起き上がろうとしたエスメラルダのすぐ目の前に何かが突き立てられる。杖だ。視線を上へ向ければ、冷たい目をしたルナリアの女が静かにこちらを見下ろしてきている。その視線にこちらを諫めるような……諭すような色を見たエスメラルダは、隣でもぞもぞ動こうとするリズを片手で咄嗟に抑えた。
水晶竜は既に息絶えているようだった。あれだけの輝きを放っていた巨体は見る影もなく、消し飛ばずに残った欠片がいったいどの部位なのかも分からない。黒く焦げた翼が自壊して崩れ落ちる。床に転がった破片を、刀を携えたセリアンの女が踵で踏みつぶす。
足音が響く。二人から離れた場所を、青年がひとり、軽やかに歩いていく。
「やあ、何だかピンチを助けちゃったみたいだ。危なかったね、流石は迷宮の主」
歌うように呟き、青年は足を止める――爆風に吹き飛ばされ、倒れ伏したエールの目の前で。
傷だらけの顔を苦し気に歪め、微かな呻きを漏らすエールを見下ろし、メレディスはにこりと笑う。
「助けたからって礼は要らないよ。情けっていうのは人のためにかけるものじゃないからね。でもまあ、」
これはもらっていくよ。
そう言ってメレディスはエールの腰に手を伸ばした。ベルトに括りつけられたポーチのひとつを取り外し、中身を探る。慎重な手つきで取り出したのは何か、小さく輝くもの……ネックレスだ。水色の石が飾られたシンプルなネックレスが、彼の掌に収まる。周囲に乱立する水晶とはまた異なる柔らかな光を湛えたそれを視線の高さまで持ち上げ、メレディスは高揚を隠せない様子で声を上げる。
「ああ……やっと! これでやっと、入口に立てる!」
ネックレスを丁重な手つきで握りしめ、片手に持ったままになっていたポーチを乱雑に放り捨てると、メレディスは再びエールに視線をやる。顎に手を当ててしばし考え込む様子を見せた彼だったが、やがてひとつ肩をすくめると歩き出した。迷いのない足取りで、広間の奥……水晶竜が鎮座していたその向こう側へと向かっていく。
「さあ、行こう。世界でいちばん高い場所がどんなものか、この目で確かめてみないとね……」
メレディスの呼びかけに応え、セリアンの女が跳ねるような足取りで彼の後に続く。ルナリアの女は静かに杖をエスメラルダの鼻先から持ち上げた。そのまま踵を返して二人――否、よく見ると広間の向こうに二人分の人影が見える――を追う、その直前の一瞬に、彼女はそっと人差し指を唇に添えた。
彼女がその場を立ち去り、メレディスたちが広間の奥へと向かっていく……その間もエスメラルダは今にも起き上がりそうなリズを抑え続けた。いま下手に動いて襲われでもしたらまずい。非力な自分たちにできるのは、一刻も早く彼らがこの場を立ち去り、倒れた仲間たちの治療ができる状況になるよう祈る事だけだ。
遠ざかっていく足音と共に小さく会話が聞こえてくる。
「それにしても、あの子……、…………ったの? あのまま……たのに」
「ああ。……を、……たところで…………。それに……」
広間の奥、壁に埋まるような形でひときわ太く、高く立つ水晶の前で一行は足を止める。広い空間によく響く足音が止んだその数秒の間に聞こえた声に、エスメラルダは思わず顔をしかめた。
「もっと絶望させてからでないと」
しばしの静寂。なにか重いものが動く音がした。遠すぎてよく見えないが、巨大な水晶に組み込まれていた何かの仕掛けが動いたらしい。また少し間を置いて、ようやくメレディスたちの姿が消える。水晶に取りつけられた扉の向こうに行ったようだ……などと考察している場合ではない。勢いよく起き上がり、エスメラルダは鞄からハーブを引っ張り出しながら走りだす。まずは恐らくいちばん深手を負っていたケイナの元へ。
「リズ! 回復!!」
「うんっ……!」
遅れて起き上がったリズが死霊を召喚するのを見届けないまま治療に取り掛かる。ケイナは気を失ってはいるが、命や予後に関わりそうな傷は確認できない。ひとまず安堵しながら傷を塞いでいく、ほどなくしてリズの死霊による治療術の光が辺りを満たした。一連の事件の間もうずくまったままだったマリウスが呻き声を漏らしながら上体を起こす。こちらもリズの声かけにはしっかり応えている様子なので、ひとまず重篤な状態ではないだろう。
ケイナの応急処置が終わった。まだ目を覚まさない彼をリズに任せ、今度はエールの元へ向かう。爆風を近くで浴びたせいか火傷がいくつか見られるがいずれも軽傷だ。それより吹き飛ばされた時に頭を打ったらしい。冷や汗をかきながら状態を診る。大事な骨が折れたり砕けたりはしていないようだが……打ちどころが悪くないよう祈るしかない。
外傷の治療を行いながら、エスメラルダはふと傍らに転がったポーチを見た。用済みとばかりに投げ捨てられたそれの中身は無残に散らばり、爆発の跡に落ちてしまったせいで煤まみれになって汚れている。エスメラルダは考えた。以前エールを殺そうとしたはずのメレディスが、今回はそうしなかった。それはいったい何故か。
――もっと絶望させてからでないと。
脳裏によぎった嫌な予想を、彼は額から垂れた汗と共に拭う。今はそんな事を考えている場合ではない。はやく応急処置を終えて街へ帰還しなければ。
床に残った焦げ跡からは、いまだに熱が燻っている。その中央でもはや物言わぬ骸と化した水晶竜の虚ろな瞳が、荒々しさを残したまま虚空を睨んでいた。