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偉人『吉田松陰』

2023.10.20 00:00

読書に関する記事を2023年10月9日『読書の効果』、10月16日『本が好きな乳児にするために』を記し、偉人も読書に深く関係している人物といえばもうこの人物しかいない。幕末の激動の時代に生きた吉田松陰を取り上げる。冒頭で申し上げておくが松蔭の読書量及び読んだ書物の内容を理解する方法は誰もが真似できることではなく、かなりの努力と彼なりの方法及び書物で培った洞察力と考察力を有し多くの明治維新の志士たちに影響を与えた。彼のこのような能力は幼少期の家庭環境にあったことを確認していく。

1830年9月20日杉百合之助の次男として現在の山口県萩市で生まれる。叔父の吉田大助の養子となり山鹿流兵学師範を継ぐことになったが、叔父大助の急逝により松下村塾を開いたもう一人の叔父文之進のスパルタ教育で9歳にして兵学師範となる。叔父文之進のあまりにも厳しいスパルタ教育に実母の瀧子は息子松蔭を逃がそうとすらしたという。それほどまでに厳しい教育を受け兵学を極め、11歳で殿様の前で御前講義をしたというのである。彼の経歴を考えれば29歳という若さで亡くなっているにも関わらず明治維新の志士たちに志を授けることができきたのもまた頷ける話である。

ではなぜ彼が多くの人々の心をとらえて離さなかったのであろうか。

私は一重に彼の読書が深く関係していると考えている。彼の人生を紐解いていけば彼が如何に書物を多読し、自分なりに深い思考でその内容を読み取り、その内容を噛み砕いて学んできたかを理解することができる。書物を読み解くにあたりその内容全てを鵜呑みにするのではなく物事の本質とは何か、物事の真髄を理解しようと深く読み込んでいたその洞察力と考察力は真似しようにもできるののではない。

地方武家の家柄に生まれた松蔭であったが武家というのは名ばかりで実情は大変貧しく食べていくことがやっとであった。松蔭は父と兄と共に畑仕事に出掛けては四書五経の素読を父に促され、父が音読した詩を兄弟で復唱して日中を過ごし、夜は父の読んでくれる書物を大変心待ちにしていたという。いわゆる昼夜を問わず父親が率先して書物を子供達に与えていたことになる。この点に於いては現代のお父様方にも松蔭の父を見習ってほしいものである。

また松蔭には書物の内容を理解する独特の方法を持ち合わせていた。まず書物を黙読し後に声に出して音読すると自ら語っている。これは父と畑仕事に出ていた頃に実践していたことで歳を重ねてもその習慣は変わらずであった、そして黙読や音読してもその内容の理解が難しい場合は書写して理解を進めたと言われている。視覚の黙読に始まり声に出すことで自分自身の声を聞き内容を確認し、そして書くといった五感をフルに活用した読み込みと思考を深めて行ったのである。幼き頃に種蒔きされた書物との関係性を物事を見極めるために昇華させたとも言える。

さてここで彼のエピソード話を付け加えておこう。開国を迫れれていた日本に黒船が到来し、松蔭はその黒船に乗り込んで国外へ同行することを懇願した。しかしペリー側は日本との関係性を重んじこれを断っている。その時に自ら横付けした小舟が流され仕方なくペリーの小舟で岸に戻るが、その事実を隠しきれないと自首し3年間投獄されることになる。その投獄時に読んだ本が1460冊余りで、1ヶ月で40冊以上読んでいたことになる。その本は2歳年上の兄梅太郎と国学者の岸御園が差し入れをした。世界を見ていた松蔭が国学者の岸を介して多くの志を同じくする士たちと読書の会が構築された。その中にいたのが内閣総理大臣まで上り詰めた山縣有朋らである。牢獄に入りながら本の貸し借りを通じ同じ志を持つものを少しずつ増やしていくことができたのである。松蔭の人生は本と共にあり、その書物を通して思考の変化も生じさせつつ日々学びを得ようとしていた形跡が至る所で見受けられ、常に前進し続けていたことが彼の人生を知れば知るほど見えてきたのである。私は松蔭の爪の垢でも煎じて飲んで彼が獲得してきたものの考え方や捉え方を学び獲得したいと考えている。先人の知恵を借りて自分を高めることができる人物の一人であることは間違いない松蔭の人生を知ると、家庭環境の中にどのくらいの読書の習慣が盛り込まれているか、そして物事を深く考えることができる教えが随所に盛り込まれていかにより人としての深みが出てくると考えている。現代は絵本の読み聞かせも浸透しつつあるが、これからは児童書への橋渡しがとても重要だ。現代でいう活字離れはこの絵本と児童書へのバトンの受け渡しが希薄だからだと感じている。またそこには小学生の生活が塾だ習い事だと時間に追われていることも関係していると思うのだが、何よりも小学校低学年の比較的時間に余裕がある時に物語を味わう、読んで感じる考えるという読書の根本を子供自身が自分の手で引き寄せることをさせるべきだと声高に訴えておこう。

目を現代の書店や図書館に向けてみよう。

活字離れが起きているという現実を前に読書法について書いた書籍の多さに気づいてる方はどれだけおられるであろうか。現代の多忙な時代に読書の時間を生み出そうと世の人々は努めておられるのであろう。しかしその書籍の多くは『如何に速く読むかという速読法』や『要点を効率よく理解する方法』といった合理性を優先したもの、『多読をする案内書や手引書』のようなものが圧倒的に出版販売されている。それらが悪いとは言わないが読書とはそもそもそのような位置付けだけで行うべきものなのか甚だ疑問に感じる。私も限られた時間の中で如何に読書の時間を作ろうかと苦戦しているのであるが、読書に効率を求めたことは鼻っからなくゆっくりとした思考を巡らしながらこれまで得てきた様々な点と点を結びつけて新たな展開を想像したり自分なりに導いたりしながら本を読んできた分、忙しなく読書をし求めるもの以外に見えなくなることが滅法勿体無いように感じられて仕方がない、そして狭い視野の中に自分自身が囚われてしまうのではないかと恐ろしくも感じる。

子供の読書の質や思考の広がりを持たせた豊かな人生を送るための財産を獲得したいのであれば、効率や要点を掴むだけの読書方法はさせるべきではない。受験戦争にだけ勝ち抜きたい、良き勤め先に就職したいとするのであればそのような読書法は有利に働くであろうが、物事を多角的に捉える人生を望むのであれば緩急をしっかりと取り入れた『じっくりとゆっくり』さまざまな側面から物事を俯瞰できるような読書というものは取り入れてほしいものである。

吉田松陰その人から親として学ぶことは『家庭が向き合う読書の方法』ではないだろうか。