温故知新~今も昔も変わりなく~【書評・第121回】 カエサル『ガリア戦記』(講談社学術文庫,1994年)
・政治家の眼光と兵士達のまなざし
中東情勢が厳しさを増すなかで、報道も比例して増えてきている。コメンテーターや論者の立ち位置はそれぞれだが、私個人としては、断片的に伝わりくる映像のなかに強い印象を受けたものがあった。それは、イスラエルのネタニヤフ首相が、地上戦に向けて集結を始めているイスラエル国防軍の兵士たちを見舞い、一人一人と固い握手を交わし、肩を叩きながら、鋭い眼光と真剣な声で「戦う準備は出来ているか?」と激励をしているシーンだった。
自らの決断で死地に追いやることになる兵士達のまなざしを、逃げることなく真っ向から受けて回っていた。現在は政治的指導者であるネタニヤフ首相も、かつては軍人(特殊部隊サイェレット・マトカル・大尉)として、祖国のために銃火の下を潜り抜けてきた人物であり、戦争の厳しさを知っているリーダーとして責務からの振る舞いのようにみえた。こうしたものを政治家の政治的パフォーマンスと評する人もいるかもしれないが、そうした要素があったにしても、厳しい任務を背負う兵士に対しては必要な儀式だと思う。
このシーンを報道でみた時期、私は偶然にも『ガリア戦記』を読み返していた。同書は、地理的・歴史的にもイスラエル、ユダヤと浅からぬ因縁を持った古代ローマで、政治的・軍事的に名を轟かせたユリウス・カエサルが、ガリア全体を征服していく戦いを記したものだ。政治家であり軍人でもあったカエサルも、ネタニヤフ首相が兵士達に行ったような振る舞いを、ガリアでの征路のなかで行いながら軍団をマネジメントしていたことだろうとの思いが交差した。
・私的な『ガリア戦記』の読み方とは
『ガリア戦記』は全8巻で構成され、カエサルが軍団を率いてガリア、ゲルマニア、ブリタニアといった地域で縦横無尽に転戦を続ける紀元前58年から51年までの8年間の記録である。カエサル自身の手によって書かれた『ガリア戦記』は、その内容や文体を含めた評価も高く、現代においても、経済雑誌の教養特集などで「読書するべき00冊」などにかなりの高確率でランクインしてくる。私自身が同書を初めて読んだのは20年近く前だと思うが、きっかけはこの手の特集に半ば唆されて読んだような記憶がある。ただ、当時は仕事をしながら読み流したという感じであり、動乱と争乱が目まぐるしく続く記録を読み終えたあとで、いくつか感想らしいものは持ったが、じっくりと考えをまとめて教養にまで昇華したとはいえなかった。あの頃より、政治・戦略・戦術についての知見も少しは成長しただろうし、そうした期待を持ちつつ読み返していた。
なお、『ガリア戦記』は厳密な邦題にすると「カエサルのガリア戦争に関する覚え書」といったものになる。この「覚え書」は本来、公私の事務的な記録を意味し、将軍や総督が元老院へと戦況を報告するときにも「覚え書」という体裁が使われた。同書には、あまり馴染みのない当時の地理、聞きなれない部族名が大いに出てくるので、別の解説書からわかりやすい地図などをコピーして手元に置くなどの工夫はいるが、現代語訳ならば「覚え書」だから簡潔であり、テンポよく読み流していくことができる。
ただ、このテンポの良さがある意味では曲者でもあり、読み手が何かしらの問題意識を持っていないと、カエサルのリーダーシップ、戦術眼、ローマ軍団兵の努力と奮闘、幾度も争乱に訴えるガリア諸族やゲルマニア人の行動ばかりに注目がいくことになってしまう。「覚え書」という性質上、この戦記を通して何を考えるべきかまでは示唆してくれていないので、私は今回読み返すに際して、カエサルの政治的指導者としての資質からする判断の記述と、軍事的指導者としての必要から下す決断の記述、それらの境目と揺らぎがどのようなものであったかを私個人の問題意識として持つことにした。そうした読み方の感想の全てを書くことはできないが、第1巻だけでも初めて読んだ頃には思いもしなかったところが気にもなった。
・総督カエサルとヘルウェティイ族
地理的にガリアと呼ばれたのは、ライン河を境にした西側の地域であり、今日の南フランスを除くフランスの全部、ベルギー、ルクセンブルク、オランダ南部、ドイツ西部、スイスまでを含むものになる。ローマは当時既にアルプス以南や南フランスなどの3つの属州を有しており、カエサルはそれらを統治する総督として赴任したのは42歳のときであった。当初の手持ちの軍団は4個軍団(第7,第8,第9,10軍団であり、1個軍団は6000人程度で構成)、任期は5年で、人事権を含む指揮権がカエサルの手中にあった。総督として赴任する前の1年は、政治の最高ポストである執政官を務め、ときに権謀術数を駆使しながら元老院を抑え、市民が支持する政治的実績を十分に達成してから総督に赴任している。カエサル自身はガリアを大きく3つに分けて捉えており、ガリアの南部はローマの影響を受けて、文化や習俗が変わり始めていたが、北部や中部のガリアの諸部族は、ライン河より東、ゲルマニア人の侵入により圧迫され始めていた。
現在のスイス、レマン湖あたりを居住地にしていたヘルウェティイ族なども、こうしたゲルマニア人の圧迫に耐えきれなくなった部族であり、カエサルが赴任した時期、30万人を超す全部族が居住地を棄てて、西方へと移動を始めようとした。実際、ガリア全体では100以上の部族があって、ヘルウェティイ族が移動先として考えていた西部も既に別の部族が居住しており、そこへ新たな部族が入り込めば衝突が起き、それはローマ属州に波及するとの判断をカエサルはしている。故に、ヘルウェティイ族の移動を阻止するべく軍団を本格的に動かす決断をしたが、手持ちの4個軍団では足りないと考え、新たに2個軍団の募集と動員をイタリアで開始した。総督として赴任時に与えられた軍団は4個軍団であり、新たな軍団を募集する権限は元老院にあって、カエサルの独断でこれを行うことは違法となるが、それを無視して新たな軍団を編成した。
ヘルウェティイ族の移動により混乱を来たし始め、被害を受けたガリアの他の部族からは救援要請がカエサルの下に届く。ローマの属州が直接侵攻されてわけではなく、属州国境を越えてガリアに軍団を進出させるには、本来は元老院の許可が必要であるが、カエサルは火急の判断として手続きを省いて軍団を出動させている。なお、『ガリア戦記』という「覚え書」では、援軍を要請してきた部族の言い分もセリフを立てて記している。
「「われわれは、これまでいつも変わらぬ奉仕をローマ国民に捧げてきた。そのわれわれが、いまローマ軍の見ている前でといってもよいほどの近くで、畑を荒らされ、われわれの子どもがさらわれ奴隷にされ、町を攻略されている。ローマ軍がこのままわれわれを黙認するのは、不当である」・・・このような事情に動かされて、カエサルはヘルウェティイ族がサントニ族の地へ行くまで、拱手傍観しているべきではないと決心する。さもないとその間に、ローマの同盟部族の財産が、みんな奪いとられるだろうと」(第1巻11)
・カエサルの「弁明」
カエサルに率いられた軍団は、他の同盟部族の援軍(騎兵)を得て増強され、ヘルウェティイ族を捕捉するべく進軍を行い、河川周辺で渡河している最中のヘルウェティイ族を発見する。カエサルは即座に機動できる3個軍団を動かして、奇襲をかける形で戦端を開く。ヘルウェティイ族は渡河作業中であったこともあり、戦力が分断されて戦闘力が発揮できずに、多くの犠牲を出すことになった。この結果として、ヘルウェティイ族からは講和の可能性を探る使者がカエサル側に派遣されたが、ヘルウェティイ族が人質を出すことを渋ったことで頓挫し、再度、移動を開始した。
これにカエサルは6個軍団全てで追撃に移行して15日間それが続くが、途中で同盟部族からの食糧支援が滞り始める。カエサルは兵士への食料配給が滞れば、戦闘力が途端に低下するリスクを十分に認識し、この問題の解決のために追撃を一旦打ち切り、食糧確保へと注力を迫られた。それを反攻のチャンスと考えたヘルウェティイ族が、今度はローマ軍団の殿(しんがり)部隊へと喰いついてくることになった。こうした幾つかの誤算と摩擦の後で、カエサルの軍団とヘルウェティイ族の主力が丘陵地帯で対陣することになった。その対陣を次のように記述している。
「カエサルは軍団兵の総勢を近くの丘へ連れて登り、騎兵隊は敵の攻撃に対抗させて送り出す。その間に古強者の四個軍団で三重の戦列を丘の中腹に敷く。丘の頂上にはイタリアで新しく募集していた二個軍団と、すべての援軍歩兵をおいた。こうして自分の位置から上の方の丘を全部、兵でみたした恰好となる」(第1巻24)
このあたりの文脈を読んでいて、カエサルならではの巧みさだなと感ずるのは、軍事的指導者として、いわゆる軍事的合理性の観点から布陣状況を記述し、4個軍団の後に2個軍団を予備隊的な運用のために配置することが必要であったことを淡々と述べているように見える。他方で、元老院の許可を取らずに、違法行為までして新たな2個軍団を募集して編成したことが、この局面でやはり必要であったことを、政治的指導者として読み手を上手に説得しているようにも思えるのだ。
この戦闘において、ヘルウェティイ族は典型的な密集陣形で丘陵を攻め登ろうとするが、高みを利用して衝力に勝るローマ軍の突撃に陣形は崩され徐々に押されていく。ヘルウェティイ族は次第に劣勢になっていくが戦闘は夜が更けるまで続いたとしている。その後、ヘルウェティイ族は退却していくが、軍団が追撃に耐えきれず降伏の使者を送ってきた。カエサルに対して恭順することを示す証として、ヘルウェティイ族は十分な人質を差し出すこと、もとの居住地に戻ることなどを条件に降伏を認めている(ガリアにおけるカエサルの数々の戦いは、敵の講和や降伏の申し出に対して、人質を差し出すことなどでそれを認めることがほとんどであった)。
『ガリア戦記』の最初に記述されているこのカエサルとヘルウェティイ族との戦い以降、カエサルの転戦は続いていく。8年間における戦いを通じて、カエサルの政治的指導者としての判断と、軍事的指導者としての決断、これらの境目やその揺らぎを問題意識として読み込んでいくと、初めて同書を読んだときとはだいぶ違った感じを受けている。それは、政治家であり軍人であることを柔軟に使いわけながら、その時々の行動の理由をそれぞれの立場を駆使して筋を通して弁明をしているようだ。政治と軍事の両方の頭脳を持った生身のカエサルと、政争にせよ戦争にせよ対峙しなければならなかった同時代人はさぞや大変であったろう。なお、私個人としては、『ガリア戦記』が自分の教養になったとはまだいえない。ただ読み流して弁明を受け入れるのではなく、もう少し醒めた気持ちで読んでみたいなと思っている。
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筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。