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ルーツ

2023.10.19 11:44

Facebook清水 友邦さん投稿記事

人間は自然界の関係性の中で生かされています。

それがいつのまにか命のネットワークの一員であることを忘れてしまい地球規模の環境破壊をしています。

癌細胞は、最初、体の組織の一部でしたが、調和を乱して増殖し、宿主の人間を殺して自分も滅びてしまいます。

いまや人間が地球の癌細胞になっています。

女神の時代の記憶は、古層にしまいこまれてしまい、人々は自分が誰か忘れてしまいました。

マインドの罠に気がつくのが女神の智慧です。

男性原理に傾いたバランスを回復しようと、女性原理が表に現れようとしています。

女神の智慧が開花した時、男性性と女性性は統合されます。

私達が知っている世界は、真実の世界ではなくマインドが投影された世界です。

日本に最初から統一国家があったわけではありません。

様々な人々が日本列島に渡って来るうちに、各地に共同体ができて、それが徐々に婚姻関係を結んで、母系を中心とした部族連合社会へ、移行していきました。

日本人は、単一民族と思っている人がいますが、DNAの配列から、日本は多民族の集まりだということがわかっています。

ミトコンドリアDNAのハプログループ

https://first-genetic-testing.com/gene/haplo.html

母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体を調べてみると、日本は混血であることがはっきりしています。

日本人の血液検査をしても、日本人というDNAはないのです。

漢の時代の『漢書地理誌(かんじょちりし)』に『楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国をなす』と記されています。

魏志倭人伝(ぎしわじんでん)に、邪馬台国という大きな国があって、その下に小さな国々が従っていたとあります。

昔から日本は単一の国ではなく、異なった言語を持つ人々が住む多民族の国だったのです。

神道政治連盟国会議員懇談会の麻生太郎名誉顧問が「2000年にわたって同じ民族が、同じ言語で、同じ一つの王朝を保ち続けている国など世界中に日本しかない」と述べて顰蹙(ひんしゅく)を買いました。

大和民族は、明治になってから政府が作った概念です。

大和民族という共通の言語、文化、生活習慣、宗教を持った日本民族など存在していなかったのです。

日本国とは概念であり、昔はなかったのです。

国といえば薩摩や津軽などの藩のことを指していて、藩を越えると風俗習慣も異なり、言葉が通じない外国でした。

昔から日本は単一の国ではなく異なった言語を持つ人々が住む多民族の国でした。

日本人とは個人を抽象して一般化した実態のない概念なのです。

血を何万年もさかのぼれば日本人、中国人、朝鮮人、はては西洋人と東洋人も消えてしまいます。母系を遡れば一人の女性にたどり着きます。地球に住む人々は皆兄弟姉妹なのです。

自分の属する文化・民族・国以外の文化を否定的に判断したり、低く評価したりする態度をエスノセントリズム(自文化中心主義)といいます。

分離した自我は自分と他人を分けて自己中心的な物語の中にいます。

内面の抑圧が強いとシャドーの投影に気がつかないので自分以外の他者、集団、国に強い嫌悪感をもってしまいます。

ランクをつけて優劣を争い、異質な物を排除しようとする男性原理が強くなると排外主義や在日コリアンやアイヌへの差別となって現れます。

ヘイトスピーチは思考の罠にはまっている状態です。

日本の土地に長く住み、土着の固有の言語と文化を保持している人びとを日本人と定義すると、2万年以上続いた旧石器時代と1万6千年続いた縄文人こそ日本人です。

古事記の国生み神話で最初に出てくるのは淡路島です。次に生んだのが四国、三番目に生んだのが隠岐。そして九州、壱岐、対馬、佐渡と生み、最後に本州を生んでいます。北海道は出て来ません。古事記を記述した人々の頭には西日本しかありませんでした。東日本は風俗習慣が違う異国だったのです。

私が住んでいる東北は昔、蝦夷(エミシ・エビス・エゾ)と呼ばれヤマトと異なる言語、風俗、習慣、価値基準を持っていた異民族とみられていました。

蝦夷とは自ら名乗ったわけではなく蝦夷の文字に虫がついているように中央集権を築いたヤマトが、エスノセントリズム(自文化中心主義)のマインドで先住民族に対して、劣った野蛮人としてみた名称なのです。

日本書紀に「斉明記5年7月(659年)服従させた蝦夷を唐に見せるために連れて行った。」と書かれていますが 中国唐の正史の新唐書では「倭国の使者と蝦夷が共に入朝した。その使者はヒゲが4尺ある。」と記述され唐の史書「通典(つてん)」は「蝦夷国 倭国の国使と共に入朝した。」とあり蝦夷と倭国は同等であり唐では蝦夷を独立国としてみなしていました。

そして 中国の歴史書『旧唐書』には、「倭国伝」と「日本伝」の2つがあって倭国と日本は別国扱いで記述されていました。

そして「小国の日本が倭国を併合した。」あるいは「倭国は小国の日本を併合してその国号を奪って日本とした。」とあります。

倭国は日の本(蝦夷)を併合して国号を日本としたのです。

景行天皇の息子小碓尊(おうすのみこと)が熊曾建(くまそたける)を殺して、その名前をとってヤマトタケルとなった故事と一緒です。

言葉は言霊といって名前は霊力があるのでその力を取り入れたのでしょう。

本州で一番最初に朝日が当たるのが岩手県の早池峰山です。

蝦夷は九州・近畿から見ると日の出の東の方向にあるので日の本(ひのもと)と呼ばれていました。

蝦夷の「日の本」は言葉がまったく通じず、獣や魚を主食とし農耕をまったく知らないという鎌倉時代の記述があります。津軽の安東氏は日之本(ひのもと)将軍と呼ばれていました。

青森県東北町には「日本中央」の碑があり、豊臣秀吉の文書でも東北を日の本と呼んでいました。日本は東北の地名だったのです。

高い太陽を見る国という意味の日高見国(ひだかみのくに)という記述が「釈日本紀」に出て来ます。

また『日本書紀』の景行天皇の条に「東の夷の中に、日高見国有り」とあって、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征からの帰りに「日高見国から帰りて」とあり『常陸国風土記』に「此の地は本の、日高見国なり」とあります。

神社で奏上する大祓祝詞(おおはらえのことば)に「大倭日高見の国(オホヤマトヒタカミのくに)を安国と定めて」と出て来ます。

祝詞は倭国がヤマトにきて大倭になりさらに日高見国と一つになって日本国になったとも読めます。

古代の日本は統一国家ではなく大雑把にいえば、西の大倭と東の日高見の二つの国があって日高見国は独自の文化と言語をもって千年以上も独立を保っていたのです。

2000年(平成12年)に三内丸山遺跡を凌駕する大規模な縄文集落、大清水上遺跡(おおすずかみいせき)が岩手県の胆沢で発見されました。

大清水上遺跡(おおすずかみいせき)では直径約20mの中央広場を中心に長さ 10m以上もある大型竪穴住居62棟が 中心部へ向けて同心円状に集落が形成されていました。

縄文時代の東北は女神を中心とした母系社会を築き戦いのない平和な暮らしをしていました。

いまでこそ東北が辺境の地であるかのように思われていますが、縄文時代の東北は世界に先駆けて土器を発明した世界でも類のない文明の最先端地域でした。

縄文時代の東北は間違いなく文化の中心地だったのです。

八世紀末頃まで東北・北上川流域の日高見国は大和朝廷の勢力圏外にあり、ゆるやかな部族連合による合議制で独自の生活と文化をきずいていました。

中央集権国家体制を整えていたヤマト朝廷は東北のまつろわぬ民を蝦夷(えみし)と呼び「蝦夷(えみし)は野蛮な心があって馴れず、しばしば良民に危害を及ぼしている」と蔑視していました。「まつろわぬ」とは「従わない」の意味です。

豊かな砂金が取れ、良い馬が育つ「蝦夷」を制圧するために中央集権国家体制を整えようとしていたヤマトは軍隊を動員して、何回も東北に侵略してきました。

『日本書紀』景行天皇二十七年(西暦97年)に武内宿禰が蝦夷を侵略するように進言しています。

「東夷の中、日高見国あり、其の国人、男女並に椎結(かみをあげ)、身を文(もとろ)げて、人となり勇悍(いさみたけ)し。是をすべて蝦夷と日(い)う。亦(また)土地(くに)沃壌(こ)えて曠(ひろ)し。撃ちて取るべし」

658年に阿倍比羅夫(あべのひらふ)が蝦夷(えみし)と粛慎(みしはせ)を征伐

709年に陸奥・越後の蝦夷が良民を害するためとして佐伯宿禰石湯(さえきのすくねいわゆ)が征越後蝦夷将軍に任じられました。

720年に多治比県守 (たじひのあがたもり) が征夷将軍に任ぜられました。

この年から蝦夷を討伐する官職の称号が征夷将軍という名称になったのです。

それ以降、源頼朝から江戸時代まで武士のトップの役職が征夷大将軍となりました。

724年多賀城(多賀柵)が設置され国府・鎮守府が置かれ、蝦夷制圧の拠点となり、天武天皇の976年に仙台までの東北は「陸奥国」となりました。

延暦3年(784)に桓武天皇は平城宮から長岡宮に都を移しました。

桓武天皇は国家の威信を取り戻すため何度も攻略に失敗している蝦夷の徹底討伐を決意しました。

「蝦夷は天皇の命にしたがわず、追えば鳥のように散り去り、捨てておけば無数の蜂や蟻の様に群がる。攻めれば山や薮に素早く逃げ込み、放っておくと城や砦を侵略する。」

桓武天皇は「東国に朕の意のあることをしらしめよ」と激をとばしました。

延暦8年(789)3月9日、朝廷は関東の民を徴発して、紀朝臣古佐美(きのあそみこさみ)を将軍に5万2千800人の軍隊を仙台の多賀城に集結させました。

3月10日桓武天皇は蝦夷征討を祈願して伊勢神宮に供物を奉献しました。

6月3日、4千の官軍は今の奥州市付近の北上川の両岸二手に分かれ蝦夷の村を焼き払いながら進軍しました。

蝦夷の本拠地、巣伏村に入り蝦夷軍を挟み撃ちして合流しようとしていたそのとき、アテルイを軍事司令官とする蝦夷軍が現れ、前軍2千の兵は渡河できず合流できませんでした。

さらに中軍・後軍の前に蝦夷軍が現れて進軍を遮りました。

蝦夷軍に押された官軍が南に退いたその時、別の蝦夷軍が現れ、退路を絶たれた官軍の兵は次々と川に飛び込み溺れて流されました。

官軍の被害は甚大でした。

川で溺死したもの1036人、裸で泳ぎついた者1257人、矢で怪我したもの245人、戦死は25人でした。官軍は大敗北をして敗走しました。

アテルイは巣伏(すぶせ)の戦いで数百の軍勢で4千人のヤマト朝廷軍に多大の損害を与えたのです。ヤマトの侵略に対して蝦夷の各部族連合は武力を総結集して徹底抗戦しました。

桓武天皇は再び蝦夷を討伐するために3年間戦いの準備をして延暦12年(793)に大伴弟麻呂(おおとも の おとまろ)を征夷大将軍とする10万の大軍を蝦夷に向かわせましたが攻略することは出来ませんでした。

しかし、戦いの連続で東北の村々は疲弊し荒れ果てました。

794年、流罪の途中で衰弱死した弟の早良(さわら)親王の祟りを恐れた桓武天皇は平安京へ都を移しました。

坂上田村麻呂は死去した百済王俊哲(くだらのこにきししゅんてつ)の後をついで796年に陸奥鎮守将軍となりました。田村麻呂は百済から来た渡来人の子孫でした。

田村麻呂は蝦夷の懐柔政策を推し進め、帰順してくる者に対しては、土地を与え生活を保証し、服従した俘囚(ふしゅう)でも戦功のあった者は昇進叙位を取り計らい、また公民となろうとして改姓を願い出る者に対してはそれを認めたので、多数の族長が帰降しました。

長年の戦で田畑を荒らされて疲弊した蝦夷の村人も和平を望んでいたのでしょう。

801年、征夷大将軍となった田村麻呂は四万の将兵を率いて蝦夷に赴き、いたずらに戦うことはせず懐柔政策により多数の族長を味方につけて胆沢(岩手県奥州市)に進出しアテルイの本拠地に胆沢城を築きました。

造営中の胆沢城を見たアテルイとモレは802年ついに降伏しました。

郷土の荒廃に心を痛め、平和を願っての投降だったのでしょう。

田村麻呂はアテルイとモレを引き連れて7月10日京都に凱旋しました。

田村麻呂は自分を信じて平安京まで従ったアテルイとモレの延命を申し立てましたが蝦夷を憎悪していた公家たちは、それを聞き入れませんでした。

あの空海でさえ蝦夷を人間ではなく心は獣で人を食う鬼の類であると言っているように天皇を崇敬するヤマトにとって朝廷に逆らう蝦夷は野蛮で人間ではありませんでした。

802年8月13日に河内国でアテルイとモレは処刑されました。

大阪の枚方市片埜(かたの)神社のすぐ近くに蝦夷塚があります。

片埜(かたの)神社は河内国の鬼門を守ってきた神社です。

アテルイとモレが斬首されたあとも蝦夷の抵抗は終わりませんでした。

蝦夷の組織的な抵抗の記録は811年、坂上田村麻呂の後を継いだ文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)が爾薩体(にさったい)(二戸市仁左平)を制圧したという記録が最後です。

東北の支配は盛岡の志波城が北限でそれ以上北に城が造営されることがありませんでした。

寒冷の北国の気候風土は稲作に適さず米を食べるヤマトは盛岡までの支配が限界だったのです。

爾薩体(にさったい)を攻めたのは早くからヤマトに服従を誓った蝦夷でした。

蝦夷をもって蝦夷を討ったのです。

ヤマトは朝廷の支配を受け入れた蝦夷をヤマトの民と区別し俘囚(ふしゅう)と呼びました。

侵略で捕らえられた蝦夷の人々は片っ端から強制移住させられ職業の自由も、居住・移転の自由もない奴隷としてヤマトの管理下に置かれました。蝦夷の聖地には神社や寺院が建立されました。極端な人種差別をされ土地や財産、文化や言語まで奪われた蝦夷はアメリカ大陸のインディアンと同じ運命をたどりました。

宗教や文化が異なる先住民が征服されると文化の破壊と虐殺が起きて多くの民族が消滅しました。

現代でも先祖伝来の土地を追われた少数民族は言語と宗教を奪われる同化政策をとられ絶滅の危機に瀕しています。

大和朝廷に征服された蝦夷は、吸収同化されて消えていきました。

坂上田村麻呂が征夷の記念に、京都の清水寺をまねて岩窟に建立した達谷窟毘沙門堂が、平泉にあります。

その縁起由来は、蝦夷が領民を苦しめ乱暴を働くので、田村麻呂が多聞天の加護で成敗したことになっていますが、実際は逆でした。

朝廷が東北に侵略して、平和に暮らしていた蝦夷を崩壊に導いたのです。

アテルイは、『吾妻鏡』で「悪路王」と呼ばれ、田村麻呂は東北で神として崇められました。

郷土に侵略した司令官の田村麻呂は神となり、侵略者に立ち向かった郷土の英雄たちは、悪さをする鬼や山賊にされてしまいました。

平安遷都1200年を記念した1994年(平成6年)11月清水寺に「アテルイ・モレ顕彰碑」が建立されました。

長い間、朝廷に歯向かった賊将とされてきたアテルイでしたが、ようやく見直されることになったのです。

蝦夷の侵略を命じた桓武天皇も公家たちもあの世に帰ってから1200年の間に反省して自分の間違いに気がついたとおもいます。アテルイも快くそれを許すことで、魂は安らかになったでしょう。

2013年NHKテレビドラマ『火怨・北の英雄 アテルイ伝』が放送されてアテルイの復権がすすみました。教科書にもアテルイの名が記載になりました。

奥州市の道の駅の名前がいまでは朝廷の賊首のアテルイになっています。

北上川のほとりにアテルイの勝利を記念した「巣伏の戦い」公園が整備されています。

朝廷の敵を名前にするなど昔では考えられなかったことです。

怨念は消え東北を照らす光に変わったのです。

宮澤賢治の詩『原体剣舞連』の一節に、悪路王(アテルイ)が出てきます。

Ho!Ho!Ho!

むかし達谷〔たった〕の悪路王〔あくろおう〕   まっくらくらの二里の洞

わたるは夢と黒夜神〔こくやじん〕        首は刻まれ漬けられ

アンドロメダもかゞりにゆすれ        青い仮面〔めん〕このこけおどし

太刀を浴びてはいっぷかぷ

(途中略)

打つも果〔は〕てるも火花のいのち      太刀の軋〔きし〕りの消えぬひま

dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah   太刀は稲妻〔いなづま〕萱穂〔かやほ〕のさやぎ

獅子の星座〔せいざ〕に散る火の雨の   消えてあとない天〔あま〕のがはら

打つも果てるもひとつのいのち      dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

すべての出来事は、一瞬現れてはすぐに消える火花のように、はかない現象のひとつにすぎません。

賢治の宇宙で、悪路王の首は蝦夷の地からアンドロメダまで飛翔します。

宇宙全体から見える戦いに善と悪もなく、勝者敗者も等しく 大いなるひとつの命なのです。

蝦夷は自然の循環や生命のリズムに即した生き方をしていた縄文人の末裔でした。

東北には今でもトチモチやドングリを食べる習慣があります。

縄文遺跡から発掘された植物の繊維で編んだ籠とまったく同じ編み方の籠がいまでも使われています。今も人が住んでいる茅葺の南部曲がり屋は縄文時代と同様な素材と技術で建てられています。東北には縄文時代から続く暮らしの伝統が色濃く残っていました。

人間は自然界の関係性の中で生かされています。

それがいつのまにか命のネットワークの一員であることを忘れてしまい地球規模の環境破壊をしています。

癌細胞は身体組織の一員でしたが調和を乱して自分だけ増殖し、宿主の人間を殺して自分も滅びてしまいます。

いまや人間が地球の癌細胞になっています。頭の中の妄想を現実思いこんでいます。

女神の時代の記憶は古層にしまいこまれてしまい、人々は自分が誰なのか忘れてしまいました。マインドの罠に気がつくのが女神の智慧です。女神の智慧が開花した時、男性性と女性性は統合されます。あなたも私も誰もが、かけがいのない個性をもった個人であるとともに、全体なのです。


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2018年7月18日 ·

<宣下(天之御中主神からのメッセージ)>

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本来、この世界に日本という国は存在しない。そこにあるのは大和の国だ。日本という国は聖徳太子が言った「日出ずる国」を中国人が解釈した名前であり、「ジパング」も「ジャパン」という呼び方も同じだ。

その当時の日本には、邪馬台国や富士王朝などたくさんの国が存在していた。その中の1つに日之本王朝という国があり、その場所は現在の福島を中心に栃木、群馬、宮城、岩手、山形に跨がる蝦夷民族の国であった。

その日之本王朝をだまし討ちの形で滅ぼしたのが大和朝廷であり、最終的には、北海道を除く地域を掌握した王朝である。この大和朝廷は福井を拠点とした白山王朝を中心に、島根、鳥取を拠点とした出雲王朝、大阪府交野市にある星田妙見宮に落ちた隕石により壊滅状態に陥り、後に白山王朝に吸収された近畿の倭(やまと)王権から成り立った王朝である。

それに対し、協力したのが「呉」と呼ばれる渡来民族を中核とした「秦氏」である。その拠点は岡山県を中心に広島、愛媛、香川、徳島、高知に跨がる耶麻都(やまと)王朝であった。

この日之本王朝、大和朝廷、耶麻都王朝の3つの王朝が、今まさに和合する時期に来ている。そのために必要なのが「禊」であるため、日之本王朝は和合できるのかを、ここ数年を掛けて試されており、大和朝廷と耶麻都王朝に関しては和合するための「禊」が始まった。

これら全ては「思い上がり」を質し、人々に氣付かせるためである。それが整えば新しき「大和の国」が誕生するであろうが、もし出来なければ、坂を転げ落ちるように日本という国は亡くなるであろう。これからの数年がその分かれ目となる。心して掛かれ。

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七夕神事を執り行った際に、審神者(サニワ)である長典男さんに降りてきたメッセージの続きです。

前回は『男とはなにか?女とはなにか?それがわからぬのなら、人として生きよ』というメッセージの解説をしましたが、今回は後半に降りてきた『日本という国はなく、大和の国』について。

メッセージの主(ここでは天之御中主神[アメノミナカヌシ]と関係する存在)によると、この日本列島には日本という国は、存在しておらず、現代における日本は中国がつけた名前の名残であり、今も本当の日本は「大和の国」であると。

ただ、この大和の国が、今はバラバラの分離状態が続いており、そのうちの1つが歴史的にも有名な大和朝廷。

歴史の教科書では、西暦350年頃に大王(オオキミ=後の天皇)による大和朝廷は誕生し、日本統一をしたとありますが、この大和朝廷はいくつもの王朝が合併した連合国家のようです。

中心にあるのは朝鮮半島から分離した王家である北陸の福井を中心とした白山王朝、そして山陰を中心とした出雲王朝、さらに近畿地方を中心とし、西暦535年に予言された隕石によって壊滅した倭王権の3つから成り立っているそうです。

隕石で壊滅した倭王権は、世界的ベストヒットとなったアニメ「君の名は。」のモデルとも言われています。

北陸(白山)、山陰(出雲)、近畿(倭)の連合国家に力を貸したのが、秦の始皇帝の流れをくんだ渡来人、古代ユダヤとも繋がりの深い「秦氏」が中心となった耶麻都(やまと)王朝です。

耶麻都王朝は、瀬戸内海を中心とした山陽、四国のエリアを統治していた勢力であり、この2つの「ヤマト(大和・耶麻都)」によって滅ぼされた反対勢力が、東日本の福島を中心とした関東・東北エリアの日之本王朝であるといいます。

日之本王朝の中心的民族は、古代縄文からの流れをくむ、蝦夷民族となります。

渡来系戦闘民族によって構成された西日本の大和朝廷と縄文系調和民族である東日本の日之本王朝の争いは、最終的にはモレ、アテルイをはじめとする蝦夷(えみし)の時代にまで続き、西日本の大和朝廷によって、日本は北海道以外は表面的には統一されていきます。

やがて、渡来系も縄文系もすべてごちゃ混ぜで、すべてひとくくりの日本人として今に至っていますが、DNAの流れなのか、霊統なのか、なんとなく自分自身が、どの系統の流れなのか、どれが何%、どれが何%くらいのハイブリッドとか、人それぞれ感じるところがあるかと思います。

俗に言う、濃い顔や薄い顔、目の色(縄文人は目が茶色)だったり、肌の色やら性格やら色々ありますが、でも結局はDNAの特徴として表面的には出ていても、みんなごちゃ混ぜの日本人であるのに違いはないと思います。

それにしても、大地としてもフォッサマグナを中心に西日本と東日本は分かれていますが、王朝、民族としての流れとしても、大きな違いがあって、今もエネルギーとしての統合は完結していないと読んで取れます。

その間にあって、どちらでもない中庸・中立のポイントに八ヶ岳があるのも、なんとなく納得ですが、いずれにしても、今は表には出ていない3つの王朝で構成された日本、正式には大和の国が統合されるかどうかのタイミング。

福島県での原発事故、宮城県沖を震源地とする、東北地方を襲った東日本大震災は、蝦夷民族(日之本王朝)が統合に向けて試されていた禊であるとメッセージの主はいいます。

そして、現在起こっている西日本の地震や豪雨などは、大和朝廷と耶麻都王朝の「禊(みそぎ)」として、これもまた統合に向けての最後の試練であると(もちろん大勢犠牲者が出ている中で、この理由だけで片付けられる出来事ではありません)。

これが東日本は関東大震災や首都直下型地震、さらに富士山の噴火、西日本は南海トラフ地震など、その禊がどれほどの段階にまで進んで終着するのかわかりませんが、すべては「氣づき」のためであり、この禊が経て、日本人の意識も変わって日本は初めて真の統合となり、調和的な時代がやってくる。

日本は世界の雛形、己の意識が変われば日本人の意識も変わり、日本人の意識が変われば日本が変わり、また世界も大きく変わる。

地球、宇宙そのものの大きな変化のプロセスの中で、今は様々な出来事が個人的にも社会的にも起こっています。

平成が終わって、大和の国元年が始まるでしょうか・・・。

「3つの王朝よ、早く統合してくれ」

と願うよりは、自分自身の内側を統合するのが、すべての統合の近道。それぞれの心、魂、DNAの中にも3つの王朝は存在していて、その統合が日常的にも試されています。

苦手なあの人は、もしかすると古代から対立する民族同士の違いもあるのかもしれません。

現代社会に馴染めないのは、競争や対立を知らない民族の流れを強くくんでいるのかもしれません。

それもまた、自分自身にとっての試練、禊であり、これらも乗り越えて調和を生み出せたら、それもまた3つの王朝が統合するエネルギーの1つになっているのかもしれません。

大事なのは広く深い世界観を知りながらも、目の前の現実に焦点を合わせて今をバランス良く生きること。

とはいえ、今回突如として降りてきたメッセージが、日本というものを知る上での1つの参考情報となればと思います。

(天下泰平「日本という国はなく、ここは大和の国である」より転載)