東高野山 医王寺
https://ameblo.jp/daradarabochi777/entry-12795843693.html 【栃木県・東高野山 医王寺 その1/2】より
2023年3月2日 栃木県鹿沼市北半田の東高野山 医王寺に参拝しました。
彫刻が多いため、2つに分けて掲載します。
・栃木県・東高野山 医王寺 その1/2(金堂)
・栃木県・東高野山 医王寺 その2/2(唐門)
由緒
東高野山弥勒院医王寺は栃木県鹿沼市北半田に境内を構えている真言宗豊山派の寺院です。医王寺の創建は天平元年(765)、日光を開いた事でも知られる勝道上人の霊夢に薬師如来の化身が立ち、その御告げに従い山中で薬師如来像を獲得し、御堂を設けて開山したのが始まりと伝えられています。大同4年(809)、弘法大師空海(真言宗開祖)が当地に巡錫で訪れた際、鎮護国家の道場として整備し、自ら彫刻したとされる御影像や不動明王像を安置しました。
仁王門
仁王門は平成四年に新築され、金剛力士立像2躰が安置されています。
仁王像
狛犬
金堂
金堂は寛文5年(1665)の再興と伝えられていますが、その規模も大きく木割も太く、豪壮な建造物で風格があります。内外ともに総体丹塗で、彫刻その他に彩色を施し、特に内陣の御宮殿に緻密な細工を施し、装飾も多く施されています。
中備:龍 木鼻:獅子・獏
蟇股に20個(5個×4面)の彫刻があります。
蟇股の彫刻20個の内、10個を掲載します。
二十四孝 楊香
ある日のこと、楊香は父と一緒に山へ薪を取りにいきました。すると、虎が出てきて父を食べようとしました。それを見た楊香は自分の身の危険もかえりみず、急いで虎の首に両手で飛びかかりました。虎は楊香の捨て身にの行動に驚いて逃去り、父は虎に食われることなく、助かったという。
猩々
高風という親孝行な人物が、夢の告げに従って酒を商うと繁盛してお金持ちになりました。高風の店にいくら酒を飲んでも顔色の変わることがない不思議な客がいました。名を尋ねると海中に棲む猩々だと名乗りました。ある夜、高風は猩々と海岸で会う約束をしました。酒を持って海岸で猩々を待っていると、猩々が海中より現れます。そして、酒を飲み、無邪気に酒を讃える舞を舞います。猩々は酒のお礼として、高風に汲めども尽きぬ不思議な酒壺を授けたという。
二十四孝 郭巨
郭巨は貧困のため母と子供を養えなくなり、悩んだすえに「子供は再び得られるが、母は再び得られないのだから、子供を捨てる」と決心し、妻にそう告白した。夫の悩む姿を見続けていた妻も頷きました。郭巨が子供を埋める穴を掘ると、黄金の釜が出てきました。その釜には「孝行な郭巨に天から与える。役人も他人も盗ってはいけない」と書かれた札が入っていました。郭巨は黄金の釜を売り、子供を養いながら更に母に孝行しました。
二十四孝 大舜
大舜の母親は早く亡くなり、義母は義弟を可愛がり、大舜に辛く当たった。大舜は自分を愛さない義母や父のために不平も言わず一生懸命に働いた。その徳によって、大舜が田を耕しに行くと、象が現れ田を耕し、鳥が来て田の草を取り、農作業を助けたという。時の皇帝である堯王は大舜の孝行に感心し、娘を娶らせ、後に皇帝の座を大舜に譲ったという。
不明
二十四孝 孟宗
中国三国時代、呉国に孟宗という親孝行の息子がいました。幼い頃に父を亡くし、高齢の母は重い病にかかっていました。彼は医者から母に新鮮な筍のスープを作るようにと言われました。時は冬、筍は春にならないと生えてきません。なす術もなく竹林に入った彼は、竹にすがって泣き出しました。すると大地が揺れ始め、地面がひび割れたかと思うと、数本の筍が生えてきました。大喜びした孟宗は筍を家に持ち帰り、筍のスープを母に飲ませまると、母の病気が治ったといいます。
二十四孝 王祥
晋国に非常に孝行な王祥という青年がいました。継母が寒中に生魚を食べたいと言われ、王祥は池で魚を取りに行きましたが、池が凍っていました。王祥は衣を脱いで、氷の上に臥し、身体の温もりで氷を割ろうとしました。天はその孝行に感じ、厚い氷を割り二匹の鯉を出させました。王祥は喜び、継母に鯉を与えたという。
梅
猿
<ネズミとヘチマ? (何のか意味があるのか?)
https://ameblo.jp/daradarabochi777/entry-12795843514.html【栃木県・東高野山 医王寺 その2/2(唐門)】より
2023年3月2日 栃木県鹿沼市北半田の東高野山 医王寺に参拝しました。
彫刻が多いため、2つに分けて掲載します。
・栃木県・東高野山 医王寺 その1/2(金堂)
・栃木県・東高野山 医王寺 その2/2(唐門)
唐門
金堂の背面の一段高い台地に、前面に石段を設けて建てられています。四脚門、入母屋造りの正面に軒唐破風が設けられています。
懸魚:鳳凰 唐破風下:闘鶏
門に彫刻がされています
門の上:弁財天と吉祥天が双六をし、毘沙門天が観戦している
王延
王延は九歳より曠眞人に仙道を学び、三洞の秘訣を授けられた。周の武帝は彼の名を聞いて召えさせたが、しばらくすると彼は暇を乞いて山へ帰っていった。王延は西岳にいた時、来客がある時には何処からともなく二羽の青鳥が飛んできて、客が訪ねて来ることを前もって彼に告げていた。また、彼の傍には常に虎や豹の猛獣が附ていて王延を守っていた。隋の文帝が位を皇太子に譲られた時、仙都の観に王延を付けた。仁寿四年の春、王延は門人に近日、西岳へ帰ろうと思っていると話していたが、ある日俄かに死んでしまった。皇帝は彼の死骸を棺に納めて西岳へ送りったが、西岳の藩宅へ到着した時、棺の中の死骸は何時の間にか消え失せていたという。
参考として、王延 (絵本直指宝 五巻より)
玉巵弾琴
玉巵は西王母の娘で、太真王の夫人であった。玉巵は琴の名人で、一弦琴を弾ずれば、百禽の鳥が飛来したという。また時には、白龍に乗り四海を周遊したとも伝えられる。
陳楠
人々が干ばつで苦しんでいると、陳楠は鉄鉢から龍を出し、雨を降らせ困っている人々を助けた。また、洪水で舟が進めなくても、陳楠は浮かせた笠に乗り渡る事ができた。
控鶴仙人
控鶴仙人は、天台の元虚老君の第七番目の弟子で、鶴に乗り空を飛ぶため、武夷山の近くの人々から「控鶴仙人」と呼ばれています。伝説によると、秦王朝時代、魏の騫王子と12人の修道者が武夷山で道教を修行をしていて、ある時、武夷山で深刻な干ばつが起こり、魏の騫王子たちは龍潭に祭壇を築き、雨乞いをしました。この時、控鶴仙人が鶴に乗って降りてきて呪文を唱えると、たちまち大雨が降りました。そして、控鶴仙人は騫王子たち13人に道教を教え、大王峰で修行させました。800年後、彼ら13人はついに昇仙し、武夷の十三仙と呼ばれ、崇拝されたという。
琴高仙人
琴高は琴の名手で、長寿の術で二百年も生きていたという。ある時、弟子に「龍の子供を捕まえてくる」と言って去って行った。弟子達は帰ってくると約束の日に群衆一万余人と共に河原に出迎えると、波が高くなり、琴高は二尾の鯉に乗って現れたという。
黄安仙人
列仙伝という中国の道教にまつわる説話集で、70人の仙人たちの伝記が載せられている。その一人が黄安。黄安は中国前漢の武帝時代の仙人。家にいる時には三尺程ある大亀に乗っている。逸話に、今年で何歳になるかと聞くと、この亀は三千年に一度顔を出し、今まで五度頭を出しているので一萬五千歳と答えたという。長寿、永遠の象徴となっている。
講堂
平面が26m×16m(12間7面)に及ぶ大堂で、真言宗の大法である伝法大会(でんぽうだいえ)や、伝法灌頂(でんぽうかんじょう)等の道場として江戸初期に造営され たといわれ、須弥壇(しゅみだん)にかかれた銘文から正保(しょうほう)2年(1645)~元禄(げんろく)5年(1692)の造立とみられています。
コメント:唐門の金堂側には仙人などが多く彫刻されていましたが、講堂側には特に彫刻はありませんでした。講堂は仏教修学の道場として造営されたため、飾りが無いのだろうか。
https://www.iouji.net/about/gohonzon/ 【ご本尊 薬師如来】より
薬師如来は、正式には薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)で、医王という別名で呼ばれたりもします。寺院名で医王寺や薬師寺、薬王院などは、ご本尊として薬師如来をお祀りしている場合が多いです。
薬師如来は、薬壺(やっこ)を左手に載せ、右手は施無畏印(せむいいん)という尊像が一般的になります。また、薬師如来のみでお祀りされることは少なく、脇侍(わきじ)として日光・月光菩薩。眷属として十二神将を従えています。
写真は、天平6年〜20年(734〜748)行基菩薩が敬刻したと伝えられる、ご本尊の薬師如来像です。医王寺では長い間、秘仏として薬師堂内にてひっそりとお祀りしておりました。
しかし、それを知った松平伊豆守信綱(まつだいらいずのかみのぶつな)は、薬師如来を信仰するすべての人々が、薬師如来のお姿を直接拝むことが出来るように。とのはからいで、「御前立ち」として薬師如来座像をご寄進下さっています。
現在は、松平伊豆守信綱のご寄進による薬師如来は、客殿にてお祀りし、行基菩薩敬刻の薬師如来は、薬師堂にてお祀りしています。どちらの仏さまも、ご参拝下さる皆さまに慈悲の眼差しを向けておられます。
仏の教えを守り、仏道修行に邁進するものを、菩薩といいます。如来とは悟りを得て、仏になった状態なのですが、薬師如来もずっと昔は菩薩でした。菩薩はみな、基本的な誓願(せいがん)という5つの誓いを立てています。
衆生無邊誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)
福智無邊誓願集(ふくちむへんせいがんしゅう)
法門無邊誓願覺(ほうもんむへんせいがんかく)
如来無邊誓願事(にょらいむへんせいがんじ)
菩提無上誓願證(ぼだいむじょうせいがんしょう)
薬師如来の十二の大願「薬師瑠璃光如来本願功徳経」
松平伊豆守信綱寄進「御前立ち」の薬師如来
松平伊豆守信綱寄進「御前立ち」の薬師如来
薬師如来の十二の大願とは、先の五大願を基本にして、菩薩の頃の薬師如来が、将来如来になったときに実行すべき衆生救済のための十二の誓いのことです。五大願と区別するために別願と呼ばれたりもします。
第一願 相好具足(そうこうぐそく)
第二願 光明照被(こうみょうしょうひ)
第三願 所求満足(しょぐまんぞく)
第四願 安立大乗(あんりゅうだいじょう)
第五願 持戒清浄(じかいしょうじょう)
第六願 諸根完具(しょこんかんぐ)
第七願 除病安楽(じょびょうあんらく)
第八願 転女成男(てんにょじょうなん)
第九願 去邪趣正(きょじゃしゅしょう)
第十願 息災離苦(そくさいりく)
第十一願 飢渇飽満(きかつほうまん)
第十二願 荘具豊満(そうぐほうまん)
薬師如来の功徳は、現世利益(げんせりやく)であって、人がこの世で生きるために必要なものを授けてくれます。その中でも多くの人が苦しめられている病気。その病を除いてくれるという部分が強調され、「病気平癒・延命長寿」という、薬師信仰の特徴を決定づけたものと考えられています。
薬師如来の十二の大願の本質は、衆生の身を安楽な状態に導き、精神上の解脱(悟り)を衆生に得させようとするものです。これは十二の大願中、第七願に述べられていることで、他の十一の大願は、第七願の示す状態を得るために、心身おのおの別々に満足させて、最後には無上菩提(悟り)を得させようというものです。
薬師如来立像(作者不明)
薬師如来立像(作者不明)
お気づきの通り、現世利益(げんせりやく)と言って薬師如来の功徳は、私たちの日常生活に直接影響を及ぼすものです。だからこそ、私たちは人間的な欲望に負けてしまって、薬師如来の功徳をもっと欲しいとか、独り占めしようとしてはいけません。
薬師如来の数々の功徳は、あくまでも悟りを得るための手段にすぎないのです。
薬師如来の功徳と教えに導かれ、悟りの境地を目指し、一切衆生を救済するという、慈悲の心をみずから起こしていく。それが智慧と慈悲を基とする、仏教の特徴であり一番大事なことです。
薬師如来の真言 「オンコロコロセンダリマトウギソワカ」