2-2.わたしが良さcafeを授かった理由
2012年4月。清里へ行った。
その日のことを、わたしは忘れないと思う。
子どもの頃から長い間、わたしは「頑張り屋さん」だった。
頑張ることで他人に認めてもらわないと、自分の価値を感じられなかったからだ。
それに気づき、「頑張っていても頑張っていなくても、わたしの価値は変わらずあるんだ」と思えるようになって、随分 楽になった。
良さcafeを始める1,2年前だったと思う。
それからは、
・他人と比較する必要なんてない
・他人から認められなくても、自分で自分を認めているから大丈夫!
・過去の「他人に認められるために、価値があると証明するために頑張っていた自分」からはもう卒業した
と、すべてクリアに解決したのだと思い込んでいた。
でもそれは、湧いてくる不安や無価値感をないことにして抑え込んで、平気なフリをしていただけだった。
清里へ行ったのは、そこである場を開くためだった。
1泊2日。
わたしともう一人、二人体制で講師やファシリテーターを務める。
そこでわたしは、久しぶりに、強く「他人との比較」をした。
もう一人の講師に対する劣等感と、「わたしはここにいなくてもいい、必要じゃない」という思いが急に噴出したのだ。
本質を見抜いて、鋭く指摘できるところ。
わかりやすさ、説得力。
カリスマ性…
その人にあり自分にないものに憧れて、自分ではない誰かになろうとした。
その感情も苦しかったし、「もうクリアした」と思っていたのにクリアなんてしていなかったのだ、と思い知らされたこともショックだった。
久しぶりにその感情にどっぷりと浸った後で、あらためて、自分の「一番星」に立ち返ることができた。
夕方の空に一番に輝きだすように、「輝くことを止められない」もの。
わたしは、アドバイスをしたり、世界の見え方を変える方法を伝えたり、求心力やカリスマ性で影響したりする人ではないのだった。
わたしは、聴いて、一緒に何かを見つめて、その人が自分と向き合い心の中にあるこたえに気づくための関わりをする人。
そうだったではないか!!
当時、コーチングやセミナーをしていたわたしは、それをしているときの自分を思い出してみた。
誰も、私に「カリスマ性」や「何かを教えてもらうこと」なんて望んでいない。
クライアントさんたちが、わたしやわたしとの時間を表現してくれた言葉はこんなふうだった。
「ちゃんと待ってくれる」
「親近感がある」
「評価されずに、受け入れられる体験」
「影響されやすいタイプの私が、ちゃんと自分でこたえを出すための時間」
「自然と、見えていなかった心の中が目の前に現れてくる」
「等身大」
「自分の心の声が聴ける」
「(どんなこたえも否定しないから)自分はこれでいいんだ、と思える」
わたしはこんなふうに認められている。
受け取っていいんだ。
受け取ることで、私の一番星をもっともっと輝かせていけばいい。
この出来事から5日後が、初めて良さcafeを開く日と決まっていた。
このタイミングで、「良さcafe」を任されたということが、意味のあるメッセージのように心に響いてきた。
「良さcafe」は、「あなたの良さがみえるcafe」だ。
目の前の人の良さが、その人自身や周りの人たちから見えてくるカフェ。
任されたのは、講演でもなく、何かを教えるということでもなく、「あなたの良さがみえる」場だったのだということ。
なんだ、ここでもわたしらしさが認められていたし、受け取っていいんだ。
そう安心すると同時に、静かな決意も生まれた。
この「良さcafe」の店主を務めるには、わたしがわたしでいることが必要。
わたしがわたしの一番星を信じることが必要。
わたしがわたしでいることに、もっと価値を感じよう。
そうして迎えた、2012年4月28日「良さcafe OPEN!」という場。
そこでわたしは、自分の一番星を過去最高に信頼していた実感があった。
来てくださった大切な人たちが、自分の良さに気づいて、それを受けとれますように、という想い。
もう一つは、大切な人たち同士の関わりが素晴らしいものになり、それぞれが必ず気づきを得ると信じている気持ち。
それだけ、だった。
そうか。これでいいのか。
こんなに肩の力を抜いて、本当に自然な自分でいていいんだ。
実はその方が、喜んでいただけるんだ。
という、「店主」のわたし自身が、きっと一番「あなたの(わたしの)良さがみえる」を経験した話。