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「それは罪だ」と言う前に~クリスチャンへのメッセージ~

2018.09.13 05:57

(執筆 ルカ)

クリスチャンの方に、セクシャルマイノリティの現状を知っていただき、教会としてまたひとりのクリスチャンとしてどのように接したら良いのか、考えるための材料にして頂ければと思います。

概要

1.キリスト教会においてLGBT当事者が直面する困難
  A.カミングアウトができない
  B.本心をさらけ出しての交わりができない
  C.思い切ってカミングアウトしたけれど

2.クリスチャンに願うこと
  A.聖書を「解釈」していることを自覚する
  B.他人の「罪(だと思うこと)」にどう関わるべきか?
  C.「罪か罪じゃないか」とは違う視点で:「実」を見てください
  D.終わりに


1.キリスト教会においてLGBT当事者が直面する困難

A.カミングアウトができない

自分をどのような性別に認識しているか、またどんな性別に惹かれたり、惹かれないかという「セクシャリティ」は、人にとってアイデンティティの大切な一部です。

社会において「普通」とされる、性自認が身体の性別と一致していて、異性にのみ惹かれる「シスジェンダー・ヘテロセクシャル」の人たちは、世の中でも教会でも「男/女」として規範に適合しているため、セクシャリティを意識せずに生きられますが、それと違う自覚のある「セクシャルマイノリティ」にとっては、常に自分と違う規範との間の葛藤があります。

自分を押し殺して規範に合わせ「クローゼット」として生きるか、自分の本来の姿を現す「カミングアウト」に踏み切るのかは、多くのセクシャルマイノリティにとって大きな問題なのです。

しかし「キリスト教では同性愛は罪」という噂を聞いていたり、信徒も牧師も明確にはセクシャリティについて話題にしていなくてもなんとなく「それは罪」という暗黙の雰囲気があるため、万一断罪されたら居場所がなくなるという恐怖から、一般社会以上に、教会でのカミングアウトは困難です。

性別を移行している途中のトランスジェンダーや、フェミニンなゲイ、ボーイッシュなレズビアンなど、外見からセクシャルマイノリティであると判断されやすい人の場合は、そもそも教会に行きづらいという声もあります。


B.本心をさらけ出しての交わりができない

カミングアウトができないとどうなるでしょうか?

・恋愛やパートナーシップのこと、性別移行についての悩み、それらに伴った家族関係の悩みなど、一番誰かに聞いてほしい・祈って欲しいことを教会で話せない。

・同性愛・両性愛者の場合、異性愛者のフリをするため小さなウソを付き続けなくてはいけないことが多いです。本当は同性の恋人はいるけど、教会に連れてこれない、相手が同性だとバレたらどうなるか怖いので、恋人はいないことにしているなど。嘘をついている罪悪感、自分の大切な人の存在を否定しているようで苦しい、などの葛藤が続きます。

・性別移行前のトランスジェンダーでカミングアウトしていない人だと、不本意に性自認と違う性別で扱われることが続き、大きなストレスとなります。性別移行済みの場合は、過去に別の性別として生きていたことを隠し通すという苦労も生じます。

これらの悩みは一般社会においても同じように生じますが、最も自分らしく安心して過ごせるはずの教会でそれができないのは、輪をかけてつらいことなのです。

さらには、一般社会以上に、結婚することが期待される強制異性愛主義な空気が出来上がっており、同性愛者だけでなく、誰にも恋愛感情が向かないアセクシャル、誰にも性的に惹かれないノンセクシャルの人たちも居心地が悪いです。


C.思い切ってカミングアウトしたけれど

このように、カミングアウトせずクローゼットで居続けることによって生じる様々な困難のゆえ、またセクシャリティに起因して社会で感じる生きづらさを相談したいために、また純粋に自分自身について本当のことを知って欲しいという思いから、ほかの教会メンバーや牧師にカミングアウトする人もいますが、その反応によって傷つくケースが多々あります。

・「悔い改めるべき罪」だと諭される。
・病気だと見なされ、「癒されるように」と勝手に祈られる。
・いい人さえいれば“治る”かもと、不本意に異性を紹介される。
・希望しない性別での扱いを続けたり、強化される。
・奉仕から外される。牧師や伝道師になることを反対される。
・ほかの教派・教会に行くように言われる。
・パートナーと別れるように言われる…etc

このような否定的な反応によってとても傷つき、落胆します。愛する教会のメンバーや敬愛している牧師に、なんとか理解して受け入れてもらいたくて、対話を重ねようと努力する人もいますが、はじめから否定されたことで非常なショックを受け、教会を去ってしまうことも珍しくありません。

また、誰か一人に打ち明けたのに、そのことがあっというまに教会中に広まってしまい居場所を失ったということもあります。本人が公にしていないセクシャリティを、当人の許可を得ずに第三者に伝える行為はアウティングと呼ばれる、大変危険な行為です。


2.クリスチャンに願うこと

A.聖書を「解釈」していることを自覚する

聖書は、私たちとは全然異なる時代の、まったく違う文化背景で書かれたものです。表面的な文言だけ読んでいても、当時の直接的に語りかけられていた対象の人たちに当たり前に共有されていた前提事項はわかりません。一見すれば同性愛を罪に定めていると思われる箇所であっても、その文章がどのような状況で、何を目的として書かれていたか簡単に知ることはできない以上、簡単に現代に当てはめて、すべての同性間の性的な関係を禁じたりする根拠に使うことはできないのです。

当時の時代背景などはリベラルサイドからの研究の方がその点進んでいることが多いのですが、福音派の教会にいるとそれらに触れる機会も乏しくなりがちです。「聖書は文字通り受け止めるべきであって、信仰を持って読めば聖書が何を言っているかちゃんと理解できる」という主張を見かけますが非常に危険だと思います。

そもそも、聖書解釈は時代によって大きく変わってきました。昔は罪だったけど今はそうじゃないことやその逆がたくさんあります。果たして人間に、罪を明確に定義することは可能でしょうか?

同性愛やトランスジェンダーを否定する上で、「聖書にそう書かれているから」と主張する人たちがたくさんいますが、それは理由になりません。なぜなら、書かれているけど無視している箇所がたくさんあるからです。聖書に書かれているから罪というのであれば、違う素材のミックスで作った服を着ていても、もみあげを剃っていても、銀行にお金を預けていても、下着を2枚以上持っていても、全部罪です。ひとつでも当てはまるなら、同性愛だけを罪と指摘することはできません。

「それらは現在は罪ではないけど同性愛は現在も間違いなく罪です」という人は、自分の解釈を聖書の上に置いていることになります。「LGBT擁護のために聖書を勝手に解釈するな」という主張は、「自分は聖書を正しく解釈できている、いや自分は私的な解釈などほどこさず、書き手の意図のままに読めているのだ」というおごりの上に成り立っていると思います。あるいは、生理的に受け付けないという個人的な感覚を、肯定してくれる聖書箇所を都合よく持ち出しているということもあるでしょう。もしくは、多くの牧師がそう言っているからそうに違いないという思考停止に陥っていて、「あなたがたは、何が正しいか、どうして自分で判断しないのですか」(ルカ12:57)というみことばを実践できていません。

それでもどうしても「罪」という認識が消せなかったら、次のような観点でこのことに向き合って欲しいと思うのです。


B.他人の「罪(だと思うこと)」にどう関わるべきか?

自分がその行為をする・しないの基準として「罪かどうか」と考えることと、他人にその基準を当てはめ守らせようとすることには明確な違いがあります。時代・文化・共同体のみならず各個人ごとに、何が罪であるかは違っています。互いに裁き合わないことが大切だとイエス・キリストも、パウロも(ローマ14章など)教えています。

クリスチャンのLGBT当事者が、その自分のあり方を罪だと思って、やめられるように、変われるように祈って欲しい、と願っているのなら、そのように一緒に祈るのも良いと思います。

しかし、信仰によって自分のセクシャリティを感謝して受け止め、どのような性別で生きるかを決心したり、パートナーを「神様から与えられた人だ」と確信して愛している人に、それを否定する権利がはたしてあるのでしょうか?

どうしても、その人がセクシャリティのことで罪を犯しているという前提で祈りたいのであれば、本人の前ではなく、影で一人で祈って欲しいと思います。それが御心に一致しているならば、あるいは叶えられるかもしれません。しかし、本人の前で、祈りを使って否定したり罪に定めることは、霊的・心理的にとても暴力的な行為だと思いす。

自分が罪だと思っているのに、本心を曲げてまで「それは罪じゃないよ」と言うべき、というわけではありません。信頼関係が十分築けているなら、「私は、罪だ『と思う』けど」と正直に伝えることも、時にはOKだと思うのです。でも、その上で、相手の信仰による選択に対して否定せず尊重することもセットにしていただければと思います。「それは罪だ」という言い方は、「あなたよりも私のほうが、神のみこころを正しく知っているのです、クリスチャンとして上です」と言っているように聞こえてしまいます。


C.「罪か罪じゃないか」とは違う視点で:「実」を見てください

そして、「罪か罪じゃないか」論争で見落とされがちな視点だと思うのですが、私たちが問いたいのは、「あなたにとって他者であるセクシャルマイノリティ当事者」がどうすべきかではなく、「クリスチャンであるあなた」の態度です。皆さんがクリスチャンとして、目の前のひとりに何をどのように伝えるのかが、相手の人生に大きく影響します。

「その木が良い樹かどうかは、実を見ればわかる」とイエス・キリストは教えました。二本の木は、ここでは二通りの教え、態度です。一方は、「それは罪だ」と伝えてやめさせようとする教えです。もう一方は、こちらの価値基準で裁かずに、相手の信仰による選択を尊重するという道です。

・「それは罪だ」と伝え、やめるように言い続けた場合、どのようなことが起こるでしょうか?

そうかもしれないと思って従おうとしても、そうそうセクシャリティは変わりません。「祈っても変われない自分は不信仰なんだ」「神に見放されているのかもしれない」「異性愛者になれない限り自分は一生伴侶を持つことができないのだ」と絶望します。自己肯定感は下がり、神様を信頼できなくなり、悲観的・消極的に表面的な教会生活を送ることになってしまうかもしれません。自分が抑圧的に生きているので、他者に対しても寛容になれないということもあります。

海外では、クリスチャンである親から聖書を盾にセクシャリティを否定され続け、自殺してしまった子供もいます。周囲のプレッシャーに負けて、もしくは異性と結婚することだけがみこころなんだと思ってそうしたけれどうまくいかず、やはり同性が好きになり離婚に至ってしまうケースも少なくありません。

自分自身の確信としてそのセクシャリティは神様から与えられたものだと肯定的に思っている人の場合でも、罪だと見てくる人のいるその教会に通い続けることは難しくなるかもしれません。白い目で見られながらパートナーと礼拝出席したり、自認する性に合わせた格好で通うことは辛すぎます。神様への信仰は失わなかったとしても、そのような教会生活に疲れ果てて教会を離れ、信徒同士の交わりが失われてしまうことになります。

特定のセクシャリティにならない限り、真に受け入れられていると感じられないような共同体に居続けるのは、とても苦しいのです。そのような教会を通して、「神様に愛されている」と知り、感じることは難しいのではないでしょうか。

・逆に、裁かないでその人の信仰による選択を尊重するならどうなるでしょうか?

たくさんの良い「実」を見ることができます。教会で自分らしくいられるなら、神様に愛されていることをわかりやすく実感できます(もちろん、迫害や困難の中に神様の慰めを体験することもたくさんありますが)。与えられた賜物を様々に生かして奉仕ができます。自分を造られた神様に感謝し、その愛をほかの人に喜びをもって伝えることができます。他者にも寛容になれます。

具体的な例:

代表ルカ(トランスジェンダー)の体験より:
ルカ姉妹と呼ばれていた頃は、祈ってくれても自分のことと思えなかった。寺田兄弟、ルカくん、彼と呼んで祈ってくれたとき、本当に祈ってもらえている感じがした。女性の枠に入れられていた頃はどうしても抵抗があって女性のグループで心を割れなかったが、カミングアウトして男性として受け入れてもらえるようになってからは男性グループで深い交わりができるようになり、女性とも、少なくとも女性同士ではない体で接してくれている人との方が話しやすくなった。CSスタッフとしても、男子との方が圧倒的にやりやすい。

あるゲイ男性の体験より:
異性愛者は結婚して異性のパートナーに仕える賜物があるけど、ゲイは男性に、レズビアンは女性に仕える賜物があると思う。好きな人の異変にはいち早く気づくことができるから、今の同性パートナーにはきめ細かくケアできているけど、無理に好きでもない異性と結婚していたら、同じようにはできないと思う。パートナーと暮らす中で自分の足りなさを示されて悔い改めたり、一緒に神様を仰いで成長し合える関係は、異性カップルと何も変わらない。


D.終わりに

クリスチャンから言われて嬉しかったこと、こう言われたら嬉しいと思うことば

・どう接して欲しい? どういうふうに祈って欲しい?
・神様があなたたちを出会わせてくれたんだね。私も二人の関係を祝福して応援したい。
・あなたはそういう風に神様に造られたんだね!
・わからないから失礼なこと聞いちゃうかもしれないけど、あなたのことをもっと深く知りたいから、教えて欲しい。

教会の対応で嬉しかったこと、願うこと

・兄弟/姉妹呼びを、本人の願う性別にする。もしくはそういう呼び分けをやめる。
・男女で分けがちなところをもっと柔軟に変える。
・宿泊行事のとき、部屋分けや入浴のタイミングなど、希望を聞いて、どうすればいいか一緒に考えてくれる。
・同性同士の結婚式もさせてくれる。どうしてもその教会では無理だという場合でも、できる教会を一緒に探してくれる。