「宇田川源流」 活字が読まれなくなったのではなく「つまらないもの」が読まれなくなった
「宇田川源流」 活字が読まれなくなったのではなく「つまらないもの」が読まれなくなった
いつもはニュースを取り上げているのであるが、玉にはこのような話を取り上げてもよいのかもしれない。昔は「マスコミ批判に関する一考」という連載をしていたのであるが、あまりにも書くことが同じすぎてやめてしまった感じがある。その代わりに「日本万歳!」を連載していて、それによってよいことはたくさんあるのであるが、基本的マスコミは全く変わっていない。
「言論の身勝手」「言論の無責任」を追求し、その上で「無責任に民衆を扇動する」ことを行いながらも、そのことで「責任を負う」ことは全くないという非道の限りを尽くしているのが今の日本のマスコミであり、世界的には全く通用しない。SNSの時代になって見えるのは、読者・視聴者の方が世界のことをよくわかっているという現実であろう。ネットを使ったほうが世界に窓が開かれ、またネットメディアの方が様々な「多様性」を実現した意見を見ることができるというのは、今では「当たり前」というような感覚になってしまっているのではないか。
そのような中、少し前に言われていたのは「活字が読まれなくなった」というようあ「若者文化批判」が出てきたのであるが、よくよく考えてみれば「SNSもインターネットもすべて活字で構成されている」という現実である。多くの人は、「新聞や雑誌を読まなくなった」という現実がある。しかし、それが「活字離れ」につながっているのではなく単純に「インターネットや動画配信、SNSでの情報入手よりも有用で、なおかつ興味を引くニュースや情報を得ることができない」ので雑誌や新聞を読まなくなっただけである。
その証拠に「少年ジャンプ」などの漫画雑誌は全く部数を減らしていない。もちろん、漫画であってもセリフは活字であり、なおかつ、若者たちは「感動したセリフ」を語ることができる。つまり、活字が中に入ってきているのである。
大学生の5人に1人は買ったことがない「雑誌」 購入しても「読まない」人が続出、では、なんのために?
Z世代のみなさんは「雑誌」に対してどのような意識を持っているのでしょうか。株式会社RECCOO(東京都渋?区)が運営するZ世代に特化したリサーチサービス『サークルアップ』が、「雑誌の購入動向」に関する調査をしたところ、約5人に1人が「雑誌の購入経験がない」ことが分かりました。また、4割弱の人が「インテリアとして雑誌を購入したことがある」と回答したそうです。
調査は同サービスに登録する全国の大学1年~4年生201人を対象として、2023年9月にインターネットで実施されました。
まず、「雑誌の購入経験」について調べたところ、大学生は約5人に1人が「雑誌の購入経験がない」(19.5%)と回答。一方、「毎月雑誌を購入している」(12.5%)と答えた人は約1割という結果になりました。
さらに、雑誌に関して同社所属の大学生ライターから「雑誌をインテリアとして買うことはある」との発言があったことから、その実態を調査した結果、38%の大学生が「雑誌をインテリアとして購入した経験がある」と回答。ちなみに、具体的な雑誌名としては、『NYLON』『Vogue』『POPYE』『anan』『LARME』などが挙げられています。
また、「雑誌は読むモノではなく、インテリアとして置くものに変化してきていると感じる」と答えた大学生が45%に上ることが分かったそうです。
2023年10月17日 7時20分 まいどなニュース
https://news.livedoor.com/article/detail/25180685/
では「役に立たなくなった雑誌」はどのような扱いになるのであろうか。そのことを意識調査したのが上記の記事である。
「雑誌の購入経験」について調べたところ、大学生は約5人に1人が「雑誌の購入経験がない」(19.5%)と回答。一方、「毎月雑誌を購入している」(12.5%)と答えた人は約1割<上記より抜粋>
ある意味で「惨憺たる結果」というのはこのことを言うのであろう。雑誌経験がないということは、大学生になるまで全く雑誌ということに興味を持たなかったということを意味する。それは「表紙」や「電車の中のつり広告」などの見出しに心躍らなかったということを意味している。当然に雑誌の見出しというのはその見出しを見ることで様々な情報が入っているだけではなく、読みたいという興味をそそるものでなければならないのであり、その「魅力」が待った大学生の心を打っていたにということを意味しているということに他ならない。つまり、現在使っている見出しや単語は、大学生の感性に合っていないということを意味しているのである。
これは「活字離れ」が始まっているのではなく「雑誌記者の使っている活字が受け入れられていない」「単語の選択センスが全くなっていない」ということである。あるいは「ネタ選びがおかしい」のかもしれない。大学生が興味のあるような情報が見出しからは感じられないということにほかならずそのような状況では雑誌が読まれなくなったのである。
さて、ここであえて書きたいのは「そのような自分たちの見出しの使って単語や文字が大学生に受けいられれていないにもかかわらず、それを『活字離れ』と表現してしまう雑誌記者や評論家の時代遅れと若者の動向を全くわかっていない感性」ということがより大きな問題であろう。つまり「若者に受け入れられていないことを、そのまま若者の文化や情報入手に責任転嫁をし、雑誌や新聞が自分たちが変わろうとしないエゴイズム」しかないということを意味しているのであるから、これでは全く雑誌や新聞が受け入れられない状態になってしまうということになるのである。
ではその受け入れられない雑誌はどうなるのか。
、「雑誌は読むモノではなく、インテリアとして置くものに変化してきていると感じる」と答えた大学生が45%に上る<上記より抜粋>
つまり、他のインテリアよりも安く、すぐに流行が変われば捨てることのできるものというような認識になっている。もちろん、雑誌は保存するようなものではないのかもしれないが、しかし、単に飾りではなく本来であれば中の情報が勝負のはずだ。しかし、その情報には全く価値を感じていない人が45%もいるということである。
さて、そのような状態を替えられないマスコミ業界こそが斜陽産業なのかもしれない。