命の循環
https://www.nhk.jp/p/zero/ts/XK5VKV7V98/blog/bl/pkOaDjjMay/bp/p3OmvOj1j4/ 【地球は「キノコ」に操られている!?生き物も天気も・・・衝撃の事実が分かってきた】より
「キノコ」は食材として人気があるだけでなく、小さくてかわいらしい森のマスコットとして人をひきつける不思議な魅力を持った存在です。
実は、そんなキノコがとんでもないパワーを秘めた生物であることが、さまざまな研究から明らかになってきました。周囲の生き物を巧みに操ったり、森の栄養循環を作り出したり…。小さなキノコが私たちの足元で繰り広げる壮大な生命の営みは、研究者が「地球はキノコに支えられている。“マッシュルームプラネット”といえるかもしれない」と言うほど。
さらに最新の研究で、「キノコが“雨”を降らせているかもしれない」という可能性も明らかになってきました。地球を陰から支配しているともいうべき「キノコ」の魅惑の世界を深掘りします。
キノコって何者?その正体に迫る
森の中に生えているキノコを見て、植物の仲間だと思っている人もいるかもしれません。しかしキノコは「真菌」と呼ばれるグループに属する、カビなどと同じ菌類です。進化的に見れば、むしろ動物に近い生き物と言えます。
現在世界で知られているキノコはおよそ2万種とされていますが、まだ発見されていなかったり、名前がつけられていなかったりする種も含めると、軽く10万種を超えると言われています。また地球上に存在する植物(30万種)と同じくらい多様なグループであると考える研究者もいます。
長年キノコの生息調査や種の同定を行ってきた国立科学博物館研究主幹の保坂健太郎さんが、ふだん目にすることのないキノコの“本体”を見せてくれました。森の地面を覆う落ち葉をめくってみると、マット状に広がっている白い物体、これこそがキノコの本体の“菌糸”です。
(白い物体がキノコの本体“菌糸”)
キノコは地中や倒木などに菌糸を張り巡らせて、周囲から栄養を得て成長します。では私たちがキノコだと思っている傘の形をしたアレは一体何でしょうか?
キノコの菌糸は伸びていった先で、適合する遺伝子型を持つ同じ種の菌糸と結びつきます。結びついた後に成長した菌糸が集まって作る「子実体」(しじつたい)こそが、私たちがキノコだと思っているもの。この子実体はキノコの種ともいえる「胞子」を作る、繁殖のために欠かせない器官です。
キノコの傘の裏に光を当てて見てみると、微細な胞子が大量に放出されているのが分かります。雨粒の力を利用したり、動物が触れるなどの衝撃を利用したり、胞子を飛散させる方法は種によってさまざま。こうした戦略のおかげで、キノコは地球全体へ分布を拡大しているといいます。
「落ち葉があるとか草が茂っているとか、何らかの植物があるところはどこでも間違いなく菌糸を見ることができます。一方でそういう植物さえも少ないような、砂漠とか、南極にいるキノコも知られていますから、地球上どこにでもいるというのは間違いないと思います」(保坂さん)
(キノコの傘から放出される胞子)
胞子拡散のために生き物を操る!?
キノコが胞子を拡散する方法は、“飛ばす”だけではありません。虫たちがキノコを食べ、離れた場所でフンをすることで胞子を運ばせる種もいます。こうしたキノコはただじっとそこにいるだけでなく、虫たちに食べてもらうためにあの手この手で働きかけを行っています。
30年以上にわたってキノコと生き物の関わりを研究してきた金沢大学の都野展子准教授は、キノコは生き物へアピールするために様々な化学物質を使うと考えています。その一つが“匂い”です。キノコは胞子を拡散してもらいたいタイミングで虫たちが好む匂いを発し、引き寄せるといいます。
(キノコを食べるショウジョウバエ)
例えば、強烈な腐敗臭を発することで有名なキイロスッポンタケの仲間の匂い成分を都野さんが分析したところ、果実の匂いに近い成分が含まれていることが分かりました。この匂いを使って、ふだんはキノコを食べない種類の昆虫をも引き寄せているのです。
(キイロスッポンタケに集まってきた昆虫たち)
しかし、キノコが化学物質で周りの生き物を操るのは、食べてもらいたいときばかりではありません。胞子をつくっている成長途中で食べられてしまうと子孫を残すことができないため、こうした段階のキノコは毒などの化学物質を用いて食べられないよう身を守っています。
そして胞子を散布する時期には毒を薄め、周囲の動物に対して食べていいというメッセージを発することで行動をコントロールしていると都野さんは言います。実際、毒があるベニテングタケをシカが食べている映像が捉えられたり、リスがベニテングタケを食べている様子が報告されたこともあります。
(ベニテングタケを食べるリス)
「キノコはいろんな種類の化学物質をたやすく作ってしまっている。そういうところが本当にすごい“天才化学者”だなって思っています」(都野さん)
キノコの「分解」能力が地球を変えた
キノコには生態系を支える「分解」と「共生」という2つの大きな役割があります。「分解」は、落ち葉や枯れ木などを土に返す働きのことです。特に重要なのが枯れた樹木の分解。樹木にはみずからを堅く丈夫にする「リグニン」という物質が含まれていますが、この物質を効果的に分解できるのはキノコしかいないとされています。
もしキノコが樹木のリグニンを分解しなかったらどうなるのでしょうか。そのヒントをくれるのが、およそ3億6千万年前に始まった「石炭紀」と呼ばれる時代です。この時代のキノコはまだリグニンを分解する能力がありませんでした。そのため樹木は枯れて倒れても完全には分解されません。倒木は土に返らずたまっていきました。それがこの時代の地層に多く含まれる「石炭」となったのです。
(3億6千万年前の地球のイメージ)
大きな変化が起きたのはおよそ2億9千万年前。この頃、サルノコシカケなどを代表とするリグニンを分解できる「白色腐朽菌」と呼ばれるキノコが登場しました。これによって樹木が土に返るようになったといわれています。さらに、このキノコは樹木から栄養をとって成長します。成長したキノコの菌糸をダニなどの土壌生物が食料とし、樹木の栄養分を含んだフンも土に返るようになりました。こうして枯れた樹木に含まれている栄養が循環し、また新たな樹木が育つというサイクルが出来上がったとされています。
(白色腐朽菌が樹木から栄養をとるイメージ)
現在の地球でも、もしキノコが樹木を分解できなくなってしまったとしたら、枯れた樹木が地面にたまっていき、森が森として成り立たなくなるかもしれないのです。
「共生」によって生態系と密接に関わる
生態系におけるキノコのもう一つの重要な役割が「共生」です。多くの植物はキノコを含む何らかの菌類と共生関係にあります。中でも有名なのがマツタケとアカマツの共生です。アカマツの根とマツタケの菌糸は地中で結びつき、物質のやりとりを行っています。アカマツは光合成で作った糖類などをマツタケに渡し、マツタケは植物の成長に欠かせない水分と無機塩類をアカマツに渡しています。植物はキノコとの共生関係を失ってしまうと弱ってしまうことから、豊かな森の形成にはキノコの存在が欠かせないことが分かります。
キノコと共生しているのは植物だけではありません。ヒトクチタケというキノコは、カブトゴミムシダマシという昆虫などと共生しています。このキノコは中が空洞になっていて、昆虫が卵から成虫になるまで安心して過ごせるすみかとなります。一方、キノコは、昆虫に胞子を付着させ、胞子を散布してもらうことでメリットを得ているのです。
(ヒトクチタケの中にいる昆虫)
さらに、キノコと複雑な共生関係を結んでいる生き物にシロアリがいます。日本南西部などに生息するタイワンシロアリは、巣の中でオオシロアリタケというキノコを育てています。シロアリの仲間は樹木を食料としますが、タイワンシロアリは樹木を堅く丈夫にする物質であるリグニンを分解できないため、樹木の栄養分を得ることができません。そこでこのシロアリは、食べた樹木を「偽糞」と呼ばれるフンのような形で巣の中に排出します。オオシロアリタケはこの偽糞に含まれるリグニンを分解し、糖などの栄養を取り込んで成長します。こうして分解された偽糞や偽糞に付着したキノコの菌糸を食べることで、シロアリも栄養を取ることができるのです。
(オオシロアリタケと共生するタイワンシロアリの巣)
キノコが雨を降らせる!?
多くの植物や動物と強く結びつき生態系にとってなくてはならない存在のキノコですが、その影響力は生き物だけにとどまりません。最新研究で、キノコが天気にまで影響を与えている可能性が分かってきたのです。
空に浮かぶ雲は、大気中の微細な粒子を核として、周りの水蒸気がくっついて凍った氷の粒「氷晶」によって形成されます。これまで、マイナス15℃以下の低い温度でできる雲は、鉱物など無機物が氷晶の核となっていることが分かっていました。しかしマイナス15℃以上になると無機物は氷晶を形成できないため、低い高度でどのような物質が氷晶の核となっているのかは明らかになっていませんでした。
(低い雲の氷晶は何を核にしているのか分かっていない)
しかし大気中の微生物を研究している近畿大学の牧輝弥教授が2008年に高度500mという高度の低い大気からキノコの菌糸を発見したことで、キノコの胞子が核となっている可能性が出てきました。
(上空で発見されたキノコの菌糸)
そこで牧さんはキノコの細胞が氷晶核になりやすいのかを検証する実験を行いました。キノコの仲間の細胞と鉱物粒子をそれぞれ水に浸したサンプルを用意し、人工的に温度を下げていったところ、マイナス5℃を下回ったところでキノコの細胞のサンプルは一斉に凍りだしました。一方、鉱物粒子のサンプルはこの温度ではほとんど凍りませんでした。キノコの細胞が持つたんぱく質の構造には、周りの水分を連鎖的に凍らせる性質があるため、このような実験結果になったのではないかと牧さんは考えています。
研究を重ねる中で、森林の上空で発生する雨雲はキノコやカビなどがつくったものではないかと牧さんは考えるようになったといいます。
「森林にはキノコやカビが多いので、森林の上空はそういった菌由来の雲ができて雨を降らせているんじゃないかなっていうふうに考えられます。もしかすると、キノコは雲から落ちる水滴によってどんどん生息域を広げていっているのではないかと考えられるので、今後調べていきたいと思います」(牧さん)
地中だけでなく、空にも勢力を伸ばし、自身の分布を拡大しているかもしれないキノコ。だとするとキノコに覆われたこの地球は、まさに“マッシュルームプラネット”という言葉がふさわしいのかも知れません。
※野生のキノコの中には有毒成分を含むものもあります。安易に触ったり、食べたりすることは避けてください。
Facebookヨネモト ヤスオ365日の紙ヒコウキさん投稿記事
講談社現代新書 「無の思想」森三樹三郎著からいただきました。
やがて死ぬ景色は見えず蝉の声 芭蕉
http://www.topscom.co.jp/SPECIAL/column/fugetsu1504.php 【芭蕉における運命自然 】より
十代後半に、芭蕉における運命自然について、思いを巡らしていた時に、行きついたのも、やはり、昨年の暮れ、先月とふれて参りました森三樹三郎先生の「無」の思想 老荘思想の系譜で御座いました。
私は、足掛け半世紀、荘子に深く傾倒し、熱烈なる荘子の信奉者でありますが、芭蕉が荘子に深く傾倒しながら、やがて違った方向に向いてゆく様を森三樹三郎先生は、宣長との対比で素晴らしい描写で綴っておられます。
『両者の老荘思想にたいする反応についてみると、宣長は老荘に反発を見せながらも、無意識のうちに荘子の運命自然に近づき、芭蕉は深く荘子に傾倒しながら、荘子の饒舌をななれて、言葉を惜しむ芸術の世界をひらいた。そのとりあわせには、なかなかの興味があるといえよう。』
ここでは、芭蕉の荘子への傾倒が絶頂だったころの件を少し記してみたいと思います。
季節は、この春爛漫の花、花、花の四月から半年後の秋、野ざらし紀行の中の富士川に差し掛かる場面で御座います。
『さて富士川のほとりまできた芭蕉は、三歳ばかりの捨て子を見てあわれに思い、たもとから食物を出してあたえ、そのままに通りすぎた。 「いかにぞや、汝ちゝににくまれたるか、母にうとまれたるか。父はなんぢを悪むにあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯是天にして、汝が性のつたなきをなけ。」』
この場面で、何故か、いつも横山大観の無我の絵が思い起こされます。
https://blog.ebipop.com/2015/10/summer-basyo.html 【芭蕉の無常「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」】より
芭蕉にはふたつの風景が見えている。
無数の蝉が嵐のように鳴き盛る風景と、音も無く静まり返った風景。
喧騒と静寂のふたつの風景を対比させ、そのなかで、夏の一日を鳴き暮らす命の営みを浮かび上がらせようとしている。
地上に出た蝉が、成虫として生きている期間は、現代では2週間~3週間だといわれている。
私が子どもの頃は、蝉の地上での寿命は1週間だといわれていた。
芭蕉の時代は、その寿命が、もっと儚いものだとされていたかもしれない。
やがて死ぬけしきは見えず蝉の声 松尾芭蕉
句の前書きに「無常迅速」とある。
「無常迅速」とは、現世の移り変わりがきわめて速いこと、そして、人の死が早く来ることの意であるとか。特に「無常」とは、あらゆるものは生死の繰り返しであるという考え方のこと。芭蕉は、蝉の「生」と「死」のふたつの風景を見ていたのだろう。
この句は芭蕉47歳のときの作とされている。
47歳といえば、「おくのほそ道」の旅が終わって一年後の年。亡くなる年の4年前の作である。
「無常迅速」とあるように、自身の人生もそのようなものだという思いが強くあったのかもしれない。
「野ざらしを心に風のしむ身哉」という漠然とした思いよりも鮮明にあったのかもしれない。
夏を精一杯鳴いて生きている蝉には「生」の風景しか見えていない。
芭蕉は、そういう蝉の風景を見つつ、もう一方で蝉の鳴き声の途絶えた風景をも見ている。
芭蕉の耳に届いている「蝉の声」には、「やがて死ぬ」という「けしき(予兆)」は感じられない。
だが、芭蕉の目には静寂の風景が見えている。
そして、そういう芭蕉を見ている「無常迅速」という「目」を、芭蕉は感じていた。
芭蕉が蝉を見ているように、芭蕉もまた「無常迅速」によって見おろされている存在である。
「やがて死ぬ」の「やがて」は、「すぐに」とか「ただちに」とかの意。
さらに、「そのまま」とか「引き続いて」という意味も「やがて」にはある。
「蝉は志半ばで倒れる」という思いが、芭蕉にはあったのかもしれない。
あんなに懸命に鳴いていた声が、そのまま途絶える。いつのまにか静寂になる。
「蝉の声」は芭蕉にとって、「なにかを訴えている声」であり「なにかを念じている声」であり「なにかを問いかけている声」であったのかもしれない。
その思いや考えを抱いたまま、志半ばで倒れる。
何かヒントをつかみかけたまま、「やがて死ぬ」。
何かをわかりかけたまま、「やがて死ぬ」。
それは、悔しいとか無念であるとか儚いとかいうよりも、「無常迅速」ということなのだ。
「やがて死ぬ」というドキッとするような直截的な表現には、蝉の風景とともに、自身の風景をも見ているのだという芭蕉の覚悟が含まれているように私は感じている。
https://ameblo.jp/haikunosato/entry-12486048838.html 【無常観と無常感】より
鎌倉時代の著作より
我が家の近くの満開だった桜もついに散り始め、花吹雪が舞いだした。「散る桜 残る桜も 散る桜」(良寛)ではないが、桜の花の短さを思うにつけて人の世の儚さも思わざるを得ない。と同時に、仏教の「無常」についても思いを馳せた。「さまざまの こと思ひ出す 桜かな」(芭蕉)の心境でもある。
先日、平家物語や方丈記、徒然草などを読んでいて、それらの底辺に流れる思想と言われる「無常観」について少しばかり触れてみたくなった。
「無常観」と言えば、もちろんインド仏教、仏陀の教えに由来する思想であり、「すべて存在するものは絶えず移り変わっていると観察する人生観であり世界観」とされる。別の表現をすれば、「一切は無常であるとする、ものの見方。」であり、「無常とは、この世の中の一切のものは常に生滅流転して、永遠不変のものはないということ。特に、人生のはかないこと。また、そのさま。」である。
なお、日本の鎌倉時代に著わされた「平家物語」や「方丈記」に代表される「無常観」は、この仏教の「無常観」とはややニュアンスを異にしており、「人生の短いことを儚む」と「無常を感情や情緒としてとらえる」ためにやや虚無的で否定的になり、それは「無常観」よりも「無常感」といったものになる。
日本では、平安時代末期になって天変地異や乱世のために世の中が乱れ人心が不安になり、「末法思想」が流行した。そのために、仏教の「無常観」はネガティブな観念となり「無常感」に近くなった。鎌倉時代になって、その潮流を遺憾なく表現しているのが鴨長明の「方丈記」であり、「平家物語」である。また、その思想は鎌倉後期になっても続き、吉田兼好の「徒然草」の中にもその「無常感」が表現されている。
以下では、この「無常観(無常感)」が表現されている「方丈記」「平家物語」の冒頭部分と、「徒然草」の幾つかの段を抜粋して列記する。
●「方丈記」冒頭部分
「 ゆく川の流れは絶ずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き賤しき人の住ひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。或は、去年焼けて今年作れり。或は、大家ほろびて小家となる。
住む人も、これに同じ。所も変らず、人も多かれど、いにしへ見し人は、ニ三十人が中に、わづかに一人二人なり。朝に死し、夕に生るるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。
知らず、生れ死ぬる人、いづかたより来りて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、誰がためにか心を悩まし、何によりてか、目を喜ばしむる。その主とすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。或は、露落ちて花残れり。残るといへども、朝日に枯れぬ。或は、花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども、夕を待つ事なし。」
●「平家物語」冒頭部分
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず。ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
遠くの異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱忌、唐の禄山、これらは皆、旧主先皇の政にも従はず、楽しみを極め、諫めをも思ひ入れず、天下の乱れんことを悟らずして、民間の愁ふるところを知らざつしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり。
近く本朝をうかがふに、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、これらはおごれる心もたけきことも、皆とりどりにこそありしかども、間近くは六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申しし人のありさま、伝え承るこそ、心も詞も及ばれね。」
●「徒然草」抜粋
○「あだし野の露きゆる時なく、鳥辺山の烟立ちさらでのみ住みはつるならひならば、いかにもののあはれもなからん。世はさだめなきこそいみじけれ。
命あるものを見るに、人ばかり久しきものはなし。かげろふの夕を待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年を暮らすほどだにも、こよなうのどけしや。あかず惜しと思はば、千年を過すとも一夜の夢の心地こそせめ。・・・」(第7段)
○「飛鳥川の淵瀬常ならぬ世にしあれば、時移り事去り、楽しび・悲しび行きかひて、はなやかなりしあたりも人住まぬ野らとなり、変らぬ住家は人あらたまりぬ。桃李ものと言はねば、誰とともにか昔を語らん。まして、見ぬいにしへのやんごとなかりけん跡のみぞ、いとはかなき。・・・」(第25段)
○「蟻のごとくに集まりて、東西に急ぎ南北に走る。高きあり賤しきあり。老いたるあり若きあり。行く所あり帰る家あり。夕に寝ねて朝に起く。営む所何事ぞや。生を貪り、利を求めてやむ時なし。
身を養ひて何事をか待つ。期する所、ただ老と死とにあり。その来る事速かにして、念々の間にとどまらず、是を待つ間、何の楽しびかあらん。まどへる者はこれを恐れず。名利におぼれて先途の近き事を顧みねばなり。愚かなる人は、またこれを悲しぶ。常住ならんことを思ひて、変化の理を知らねばなり。」(第74段)
http://knt73.blog.enjoy.jp/blog/2016/08/post-2f91.html 【蝉の俳句を鑑賞しよう】より
Click here to see “Haiku of Bashō” in English.
蝉の俳句と言えば、松尾芭蕉が元禄2年5月27日(1689年7月13日)に出羽国(現在の山形市)の立石寺に参詣した際に詠んだ発句「閑さや岩にしみ入る蝉の声」が有名ですが、芭蕉は「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」という俳句も作っています。
この句の「けしき」に該当する漢字は「気色」と「景色」のどちらでしょうか?
「景色」を当てはめて、「蝉の声は聞こえるが、その景色を見ることはできない。」と、病で伏してやがて死ぬ身であることを嘆いている作者の気持ちを詠んだ句であると解釈することもできないことはないでしょうが、「気色」を当てはめ、蝉の命は1~2週間(?)と短いが、やがて死ぬ様な気配もなく鳴いていることを詠んだ俳句であると解釈するのが正解でしょう。
蝉は間もなく死ぬことも知らずに鳴いている、と「命の儚さ」を詠んだ句と受け止めるか、短い命でも精一杯元気に謳歌している、と解釈するか、読者の人生観次第です。
(青色の文字をクリックすると俳句の詳細や解説がご覧になれます。)
高浜虚子は終戦の年に「秋蝉も鳴き蓑虫も泣くのみぞ」という句を作っています。
「敵といふもの今は無し秋の月」「黎明を思ひ軒端の秋簾見る」と併せて読むと、「秋蝉も蓑虫も泣くのみだ。泣きたいものは思いぞんぶん泣けばよい。だが、自分は泣かない。終戦になって、自由に句作が出来る。さあこれから本番だ。」と清々した気持ちで詠んだ句だと思われます。
「575筆まか勢」(http://fudemaka57.exblog.jp/22832882/)に「秋の蝉」の俳句が無数にあります。
正岡子規は「野分して蝉の少なきあした哉」と誰もが体験したことのあるような自然現象・季節の移ろいを句にしています。
琉球新報の記事に「『平和の願いを蝉とともに叫ぼう』仲間さん、摩文仁で詩朗読へ」という見出しで、糸満市摩文仁で行われる沖縄全戦没者追悼式で仲間里咲(りさ)さん(金武小6年)が自作の詩「平和(ふぃーわ)ぬ世界(しけー)どぅ大切(てーしち)」を朗読することが紹介されていました。
詳細はココ(http://ryukyushimpo.jp/news/entry-295999.html)をクリックしてご覧下さい。
広島や長崎の原爆忌や終戦の日は例年の如く型通りの報道がなされましたが、今年はリオ・オリンピック報道に埋もれてしまった感があります。
金メダル囃す夜明けの蝉しぐれ
蝉鳴くや「ナチの手口」に嵌るなと
空蝉うつせみやポケモンGOの空け者うつけもの
わだつみの声を聞けよと秋の蝉
平成の大御心や法師蝉
(薫風士)
インターネット歳時記(俳誌のSalon)を見ると、「蝉」は芭蕉の「撞鐘もひびくやうなり蝉の声」や一茶の「蝉鳴くや我が家も石になるやうに」など2200句ほどあり、「蝉時雨」は約800句、「空蝉」は400句余り、「蝉の殻」100句余りなど、例句が約3500句あります。
青色文字の「俳句」や「HAIKU」をタップすると、それぞれ最新の「俳句(和文)」や「英語俳句」の記事をご覧頂けます。
トップ欄か、この「俳句HAIKU」をタップすると、最新の全ての記事が掲示されます。
https://note.com/honno_hitotoki/n/nc94dd0659600?magazine_key=m3a7527ff3839 【閑さや岩にしみ入蟬の声|芭蕉の風景】より
「NHK俳句」でもおなじみの俳人・小澤實さんが、松尾芭蕉が句を詠んだ地を実際に訪れ、あるときは当時と変わらぬ大自然の中、またあるときは面影もまったくない雑踏の中、俳人と旅と俳句の関係を深くつきつめて考え続けた雑誌連載が書籍化されました。ここでは、本書『芭蕉の風景(上・下)』(ウェッジ刊)より抜粋してお届けします。
閑しずかさや岩にしみ入いる蟬せみの声 芭蕉
薬師の顔はみちのく人
元禄二(1689)年旧暦五月二十七日、新庄盆地の南部を占める尾花沢(山形県)で十日間を過ごした芭蕉は、清風ら尾花沢の連衆に勧められて、山寺(立石寺)に参拝する。掲出句はそこで詠まれた。『おくのほそ道』を代表する名句、というよりも芭蕉の生涯を代表する名句である。
紀行文『おくのほそ道』所載。句意は「何という静けさだろうか。蟬の鳴き声が岩の内部にしみ入っていく」。
仙台駅で、仙山線に乗り換え一時間ほど乗車、山寺駅下車。ゴールデンウイーク明けの晴れた日の午後である。駅のホームから、立石寺が望める。『おくのほそ道』の本文に書かれている通りの風景である。「岩に巌を重ねて山としたような地形で、松や柏も年数を重ねている」。そして、岩々には小さな仏堂が建てられている。
駅から立石寺へと向かう道にはいくつかの土産物店があり、なかには山菜を商っている店があった。店先にシドケ、イワダラ、タラノメ、ホソタケ、クワミズ、アマドコロなどが並べられている。見ていると、「食べてけ」と山独活やまうどと缶詰の鯖を煮たものを掌の上に取り分けてくれた。みちのくの初夏の山の幸の豊かさを、味わうことができた。
立石寺の根本中堂では、本尊薬師如来が開帳されていた。なんと五十年ぶりの開帳であるということだ。厨子の傍らに立つ僧の解説によれば、開祖慈覚じかく大師たいしみずからが桂の大木から刻んだ仏像とのこと。拝すると、優美というより朴訥な男っぽい風貌である。古のみちのく人にまみえた思いであった。
山門から石段を上りはじめる。看板には「石段をひとつ上ると、煩悩がひとつ消える」と書かれている。たしかに上っていくうちに、気が晴れる。高齢の方々の団体の列の中に入って、上っていく。上からは、揃いのジャージを着た中学生たちが勢いよく石段を下りてくる。全員が「こんにちは」と明るく声をかけてくれる。「遠足ですか」と聞いてみると「いいえ、研修です、宮城県から来ました」とのことだった。
静寂と向き合う
上っていくと、石段の両脇にはつぎつぎと巨岩が現れる。山全体が巨大な一つの凝灰岩ぎょうかいがんでできているのだ。「立石寺」という寺の名は、この地形にまことにふさわしいと思う。仁王門の手前にあった「弥陀洞みだどう」は、岩に阿弥陀如来のかたちが刻まれてある。それも人間が刻んだのではなく、不思議なことに雨や風が自然に削りとったのだという。芭蕉はこのような岩と向き合って、掲出句を詠んでいるのだ。
芭蕉の旅に随行した弟子曾良は、掲出句の初案を書きとめている。
山寺や石にしみつく蟬の声 「俳諧書留」
初案の「山寺や」は、訪れた地名を示しただけにすぎない。「山寺や」から「閑さや」への推敲には、この山の清らかさをことばにとどめようという意思を感じるのだ。この推敲によって、芭蕉は静寂を一句の主題としている。そして、「閑さ」に切字「や」を加えて、さらに強く静寂を打ち出している。そのことによって、聖地の空間にエネルギーが満ちていることまでが表現されていると思う。
初案中七の「石にしみつく」は「岩にしみ入る」と推敲している。初案において、蟬の声は小さな石の表面でとどまっていた。それが、大きな岩の内部深くまでしみ込んでいくものになっている。ただ一匹で鳴きはじめた蟬の澄みわたる声を、より強く感じられるようになった。
この蟬の種類について、かつてアブラゼミかニイニイゼミかという論争があったが、ニイニイゼミに決着している。時期からも澄んだ声質からもニイニイゼミがふさわしいようだ。
ひたすら静寂と向き合っている芭蕉に、ぼくはアメリカの現代音楽家ジョン・ケージのことを思う。ケージは「4分33秒」という曲を作った。その時間、演奏者は楽器とともに何もせず過ごす。聴衆は静寂の中に響く偶然の音の豊かさに驚き、自分の身体の中で打ち続ける鼓動に気付く。芭蕉とケージとは、同じ場所にいる。
実を言うと、掲出句に対するぼくの評価は、年を重ねるにしたがって変化してきている。三十代のころには、評価できなかった。主観的なことばは作句に使いがたいというタブーに縛られて、「閑さ」ということばをうすっぺらに感じ、読みが深められなかったのだ。五十を過ぎ、作句のタブーから自由になり、「閑さ」ということばが拡げる空間をようやく楽しめるようになった。一句を味わうのに、だいぶ時間がかかってしまった。
奥の院まで約千段、石段を上りきった。寺内を見下ろすと満開の桜の木が目に入ってくる。山形では初夏に桜が咲くのだ。
桂巨木に刻みし座像余花よか日和 實
千段を遠足の子ら駈けくだる
<補記>
この「蟬の声」に二十代の芭蕉が伊賀で仕えた藤堂良忠の俳号「蟬吟せんぎん」を思い出す人がいる。作家嵐山光三郎である。『芭蕉という修羅』(新潮社・平成二十九年・2017年刊)。この芭蕉の絶唱に若い頃の主君への思いを読みとるのもありえると考えるようになった。
小澤 實(おざわ・みのる)
昭和31年、長野市生まれ。昭和59年、成城大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。15年間の「鷹」編集長を経て、平成12年4月、俳句雑誌「澤」を創刊、主宰。平成10年、第二句集『立像』で第21回俳人協会新人賞受賞。平成18年、第三句集『瞬間』によって、第57回読売文学賞詩歌俳句賞受賞。平成20年、『俳句のはじまる場所』(3冊ともに角川書店刊)で第22回俳人協会評論賞受賞。鑑賞に『名句の所以』(毎日新聞出版)がある。俳人協会常務理事、讀賣新聞・東京新聞などの俳壇選者、角川俳句賞選考委員を務める。