ZIPANG-2 TOKIO 2020 2018年10月射水~新湊曳山祭~「浜の男達の祭が始まる!曳山囃子の音色が響き勇壮な13基の曳山が躍る‼(第二話)」
このたびの平成30年 7月豪雨、9月台風21号並びに北海道大地震により、亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。
新湊曳山祭の真骨頂~昼は『花山』夜は『提灯山』~
毎年10月1日に開催される曳山まつりは、放生津八幡宮の例大祭で、曳山囃子の音色が響き渡る中、勇壮な13本の曳山が『イヤサー・イヤサー』のかけ声を響かせ、昼は『花山』夜は『提灯山』に装いを変え、町中を練り廻ります。
この13本の曳山が順列を連ね、狭い街角を急曲がりするときの勇壮さは絶好のみどころです。また、夜の提灯山が内川の水面に映り、幻想的な姿も見せてくれます。
新湊曳山祭とは
放生津八幡宮の秋季例大祭は、宵祭に海上より「御祖神、代々之祖達神」の御魂を迎え、次いでこの神霊を築山に降臨を仰いで祭事を行う。この築山が、車輪を付けて移動する曳山へと発展したと考えられており、 創始の年代は、いい伝えによれば、慶安3年(1650)の古新町曳山車といわれています。また、延宝4年(1676)8月15日の放生津八幡宮例祭に曼陀羅寺から「法楽の引山」が曳かれており、300年前ごろにはいくつかの曳山車が曳かれていたと考えられます。元禄から享保のころ(1688~)には半数以上の曳山車ができ、文久2年(1862)には13本の曳山車が揃うことになりました。この放生津の曳山車は13本で県内では最も多く、絢爛豪華そのものであります。
みどころ
朝、放生津八幡宮前でお祓いを受けた曳山が、古新町の曳山を先頭に順番に出発します。
また、内川にかかる湊橋を渡るところも見所です。湊橋へとつながる道は直角のカーブを2回続けて曲がらなければならないため、引き手の腕の見せどころであり、曳山の曳き回しの中で最も迫力があります。
標識(だし)
曳山の尖端に飾る各町のシンボル。 昔は「出シ」と呼ばれていた。明治 後期以降、電線が架設され、引っ掛 けないよう、低くした町もあった。
古新町
2000年に350周年を迎えた、放生津でもっとも古い歴史をもつ曳山。古新町は「鬮除け一番山」なので、クジを引きません。ほかの12町は順番が変わりますが、古新町は常に曳山巡行の先導を務めます。誇らしき一番山であるからこそ、ルート取りや曳き方など、他町の模範としての意識や責任感は並々ならぬものがあります。安全でスムーズな巡行のため、細かな役割分担や確認・練習などの影の努力があります。
標識(だし)~独鈷の鈴~
鈷鈴(これい)とは、密教法具の一種で煩悩を打ち払う意味がある。一番山として、曳行の障害の除去と古新町の「古」の形、鈴を「振る」をかけている。昔の標識は、高岡の名工辻丹甫の作。提灯山に付け替えてもしっかりと見えるよう、近年、標識の位置を高くした。
13 本の先頭を飾る「元祖の山」。 誇らしくゆるぎない、一番山
奈呉町
1692 年に創建された2 番目に古い曳山。古くから漁業で生計を立てる人々の多かった町だったので、海に因んだモチーフが満載です。上山が大きく重く、下山がキュッと小さい構造で、花山を正面から見るといかにもかっこよい「舟山」ですが、曳き子が入るスペースが極端に狭く、他町に比べて少人数で曳かねばなりません。いまは昔ですが、他町との騒動など血の気の多い威勢のいいエピソードを持つ町でもあります。
標識(だし)~錫杖~
「神徒の鈴」で修験者の杖。諸厄悪災を払う道具。もともとの標識は細長い形状だったが、奈呉町の「奈」の形をかたどり、下部を大きくし、大漁の縁起かつぎでタコの足のように見せています。足は全部で 8本。3m以上ある巨大な標識です。
放生津の宮大工・高瀬輔太郎の作。
明治28年(1895)2月に新調。
漁師町らしい大舟底山は くびれがあってスタイル抜群!
中町
1692 年創建の、奈呉町と並ぶ歴史を持つ曳山。漁師をはじめ海の生業を持つ人々の多かった中町。放生津町年寄(今の市長にあたる)松屋武兵衛が主導し、1796年に再建された特徴的な廻転山です。ほかの町の曳山と違って標識はなく、上山~下山で天上界から地上界までを表現した見事な世界観を持つ曳山です。廻転ばかりに目が行きがちですが、名人・辻丹甫晩年の大傑作と言われており、細部に至るまで見どころの多い曳山です。
標識(だし)~オカグラ式廻転山~
京都祇園祭の山笠にあった林和靖山(りんなせいやま)を起源とする形が残されていることが近年判明しました。
祇園祭の山笠「月次祭礼図屏風模本」部分
(東京国立博物館所蔵 , Image:TNM Image Archives)
遠くからでも、初めてでもすぐ分かる!
世にも珍しい「廻りズッコ(老人)の山」(失礼!)
新町
1715 年に創建後、1774年に新山再建。昨年は記念すべき300周年でした。曳山は始め、白木のままでしたが、徐々に彫刻、漆工、金工を施し、「千両山」と言われる豪華なものになりました。商家の多い新町の曳山は、向上進取の精神にあふれた町民たちに支えられてきたためか、ゴージャスでアグレッシブ。見応えのある豪華さの分、維持・管理には大変なご苦労をされているようです。
標識(だし)~法螺貝~
軍陣の指揮に用いた貝。王様の神功皇后に因んで武勇を表す。曲がり角や難所の前にはこの標識に合わせて法螺貝を吹く音も鳴らされる。もとの標識は名工・辻丹甫の手によるもので、竹篭を藻で固めて金箔を置いた漆芸美術の名品。
もとは天明8年(1788)、寛政10年(1798)
再出来、享和2年(1802)新調。辻 丹甫作。
昭和32年・高岡の彼谷芳水が旧形を再現。
ゴージャスで勢いのある「千両山」
キラキラの車輪で曲がるのは常に見どころ
東町
1717年に創建。放生津八幡宮は東町にあり、一番の門前町でもあります。年間を通じて八幡宮とのつながりが強く、秋季例大祭の一部、神事としての曳山の存在を強く意識している町です。もとの曳山は高さが 10m もある三重山でしたが、電線にひっかからないよう現在の 8.8m にまで切り下げ、軽量化もされてきました。しかし、依然として13 本の中でもっとも大きく重い曳山です。
標識(だし)~諫鼓(かんこ)の鳥~
「諫鼓」とは、中国の政治に関して、人民らが指摘や提言をする際、打ち鳴らすための太鼓。あまりに善政で誰も太鼓をたたかず、最後は鶏の巣になったという故事に基づく。平和の象徴。東にあるので一番鳥の意味も。もともとの標識は錨だったが明治期に変更された。
明治10年(1877)、「四ツ爪錨」から「諫鼓の鳥」に新調。
八幡宮の門前としての誇りと落ち着き13本中、
一番大きくて重い「でか山」
四十物町(あいものちょう)
1718 年に創建。再来年が300周年となります。町の規模は小さいながらも、限られた人員と予算の中で様々に工夫して曳山を維持してきました。2016年 1月に公開された内川が舞台の映画『人生の約束』では、四十物町の名前が全国に露出しました。中間を意味する四十物。穏やかに語る担い手たちからは、伝統や誇りを重んじつつも、現実に即した合理的な方法を常に探る柔軟な姿勢を感じることができます。
標識(だし)~打出の小槌
毎日千人に財宝を与えたという大黒様が持つ宝の槌。勤労と財宝を表している。もともとの標識は王様の菊慈童に因んで、不老長寿の水がめだったが、「かめ」の音を嫌って、明治中期に現在の打出の小槌に改められた。
明治の中頃に新調。金箔仕上げ。
クールかつマイペースな穏便派。
曳山のことは一通りできるオトナが多い
三日曽根
1721年創建。この年の祭礼は、浪害で大破した放生津八幡宮の再建を慶び祝うもので、8本の曳山が出揃い、一層賑々しいものとなりました。もとは放生津町と三日曽根村の間にできた出町でしたが、だんだんと住民が増え町の勢いが出てきた頃に曳山が作られました。明治時代の火事で再建することとなり、当初は白木のシンプルなものでしたが、長い時間をかけて少しずつ装飾を加え現在の姿に進化しました。
標識(だし)~和同開珎~
「和同開珎」は、わが国で鋳造された最古の流通貨幣で、貯蓄財宝による町の発展を表す。「珎」は「寳(宝の旧字)」の略字。
標識解説
通称(特になし)作者:矢野 茂 塗り:沢 米峯
町民の思いが結実した、 カラフルで軽やかな雰囲気の山
立町
1721年に創建。できたのは8番目ですが、火災や浪害などを受けずに現在に至っているため、13本中最古の曳山です。日吉社の氏子町であるため、神の使者・猿が前人形になっています。他町の世話役たちは60代前後が中心ですが、世帯数の少ない立町では、若い世代が世話役の中心になっています。大きな宝物を次世代につないでいくために、守るものと変えるものがあることに気づかされます。
標識(だし)~壽~
「寿」の旧字。めでたい、祝い、喜び、長寿などを表す吉祥の文字は、町の発展を祈念するもの。2メートルにもなる大きな文字は5つのパーツに分かれており、組み立て式となっている。
塗り:室谷繁安
とにかく目立つ赤と金。 若い担い手たちがつながり、守る山
荒屋町
1770 年創建。もともと漁業が盛だった荒屋村は、徐々に農耕を主とする村へと変わりました。標識や王様などに五穀豊穣を祈るモチーフが多用され、「米俵山」と呼ばれたのもそれが所以かもしれません。2 度の火災で焼失・再建しており、作られた年代としてはもっとも新しい曳山。中国の故事などの絵柄を装飾・彩色したものが多いなか、越中国守・大伴家持と越中万葉を鏡板にした白木の山に、ひと味違うセンスを感じます。
標識(だし)~千枚分銅~
「分銅」は、金銀をはかりのおもりに鋳造し、いざという時のために供えた財宝のこと。「千枚」は数の多いことを表す。創建当初、燦然と輝く標識は、各村々や沖の舟からも望めたそうで、荒屋山の誇りだった。
もとは明治末期に海商の南島間作が寄付した真鍮張りのもの。昭和27年に新調。
木工:武野芳雄、金箔:仏師木元
キラリと光るセンスと迫力。 総ケヤキの材を活かした白木のままの山
長徳寺
1773 年頃に創建。漁業や海運業に携わる人の多かった長徳寺。曳き出しの際には、まず漁民義人塚に参拝し、お神楽をあげ、義人の霊を慰めるのが慣例となっています。1807年の大火で町が全焼して以来、曳山の再建が開始されたのは 1872年、その 8 年後に待望の曳山が完成しました。先人たちの悲願が結実し、再びもたらされた宝物は、老若男女が大切にメンテナンス重ね、愛着を深め、今に伝えられているのです。
標識(だし)~蝶~
蝶はアゲハチョウ。長徳寺の「長」を象徴している。蝶が野に舞う様子は平和、安穏、のどかさの表現でもある。材料はイチョウの木を使い金箔貼りに仕上げたもの。「チョウ」が幾重にもかかり、超シャレの効いた標識である。
もとは明治35年(1902)棚田徳三郎作。
昭和30年(1955)に現在のものに新調。
作:利波 定次郎、荒谷 外次郎
塗り:室谷 繁安、中山 友次郎
先人たちの悲願は世代を越えて
「さんがのやま」と呼ばれ親しまれる
法土寺町
創建年の詳細は不明ですが、明和年間(1764~1771)には既に曳かれていたそうです。1810年の大火で町が全焼し曳山も焼失しましたが、15年後には再び新造。小さな町ではありましたが、大工や建具屋、塗師などの専門技術を持つ人が住んでおり、限られた戸数で様々な工夫をしながら、美しい仏壇山を維持してきました。過去から現在、そして未来へと、町内外の人たちの力を結集して曳き続けてほしいものです。
標識(だし)~軍配団扇~
「軍配」は、天下泰平・四海安泰を祈る平和のシンボル。武将が戦場での陣頭指揮をするためや、相撲の行司が勝敗の決定を示すために使うもの。竜と虎の浮き彫りに金箔塗りで仕上げてある。
もとは高瀬竹次郎作。
昭和48 年(1973)に現在のものに新調。
木型:加門 甚一 塗り:桧物 弘
町内の職人たちの手で守られてきた
彩色彫刻の美しい仏壇のような山
紺屋町
1721年に創建。裕福な旦那衆がいたので、小さい町ながら曳山を持てました。狭い路地の多いエリアだったため、最初の曳山はかなり小さなもの。そこで明治期に入ってから、町内の名匠・高瀬竹之助一門が、山体や彫刻などの一切を手がけて再建しました。世帯数19の少数精鋭の町民たちが、町外の人々の協力を得ながら全力で引き継いで来た金ピカの曳山は、「川の駅新湊」内の山蔵に常設展示されています。
標識(だし)~振鼓~
文字通り、振って鳴らす鼓。刀剣が貫通しているため「剣太鼓」、2つ重なっているため「重ね太鼓」とも言われた。鼓には、こぞって(全員で)楽しむという意味がある。剣は悪魔を鎮めるという意味がある。
嘉永7年(1854)、一回り大きく作り替え。
昭和54年(1979)、旧標識を受け継いだ海老江・中町山とともに称号を「振鼓」に統一。
少数精鋭と強力助っ人による「紺屋町組」が
旦那衆の心意気を引き継ぐ
南立町
1862年創建。13 番目にできた、もっとも歴史の浅い曳山です。町ができてから、曳山を持つのが夢だった町民たちは、お金を出し合い、ときには町の老女らが麻糸を紡ぐ内職をしてまで、建造費を貯めました。町民たちの執念でできた曳山は「シンミチの山」と呼ばれるようになります。各家からさらに募金を集めて積み立て、その度に修理や改善を重ねて、美
しく豪華な曳山へと進化してきました。
標識(だし)~五三の桐~
もとの王様が豊臣秀吉だったため、豊臣家の家紋「五三の桐」を標識にしている。葉の上の花の数により、「五三の桐」「五七の桐」と呼び名が変わる。桐は昔から神聖なものの象徴であり、日本政府の紋章や500円硬貨にも使われている。
昭和49年(1978)に新調。同じ形の標識を持つ高岡・二番町の山車を参考にした。
細工:加門甚一、塗り:室谷繁安
積年の思いとたゆまぬ努力で
今も進化し続ける、シンミチの山
曳山
新湊の曳山はとても個性的、その秘密を少しだけご紹介。
市内の曳山の祖型は、京都祇園社の鉾山であり、その形式は高岡御車山を代表とする「花山形」に属するといわれています。
曳山は各山車ごとにそれぞれ異なります。ここではそれぞれの曳山の特徴をご覧ください。
新湊の曳山
市内の曳山の中では最も歴史が古く、一番山の古新町は慶応3年(1650)の創始と伝えられています。
曳山は、放生津の宮大工連が中心に“山体”が作られ、彫刻・塗箔・彫金にも当地の飾師や桧物師が精魂を傾けて作られました。後には高岡・井波・城端の技工をも導入し年次を重ねて研美を競い完工した、郷土文化の総合作品としての風格と伝統を守りながら大切に維持継承されてきたものです。
地域の歴史・文化の中核的存在
放生津八幡宮
746年、奈呉の浦(現在の富山湾)の情景を愛した大伴家持が、豊前国宇佐八幡神を勧請して奈呉八幡宮と称したのが起こり。地域の歴史・文化の中核を担っており、「何を置いてもまずは八幡はん」と、地元民から広く信仰を集めています。
「板子一枚下は地獄」
嵐の海も平気で潜り抜けてきた海の男たちも、さすがに神様の前では神妙ですね~
放生津八幡宮にて新湊曳山祭各町代表の皆さん
放生津八幡宮
祭神:誉田別命※1、大鷦鷯命※2
祭典:春祭 5月15日/秋祭 9月30日~10月3日
※1:ほんだわけのみこと/応神天皇 ※2:おおさざきのみこと/仁徳天皇
新湊曳山祭マップ
次号の第三話は「大門曳山まつり」です。
相変わらず日を跨ぐかもしれませんが、遅くとも明後日の朝にはご覧いただけます。
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」の明和町観光大使
協力(順不同・敬称略)
放生津八幡宮 〒934-0025 射水市八幡町2-2-27 電話 0766-84-3449
射水市観光協会 〒934-0049 富山県射水市鏡宮296番地 TEL.0766-84-4649
射水市港湾・観光課〒934-8555 富山県射水市本町2-10-30 TEL.0766-82-1958
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