「奥の細道」山中温泉
第二次英仏百年戦争が始まったとされる1689年(ルイ14世51歳)は、日本の元禄2年にあたる。この年、松尾芭蕉は『奥の細道』の旅をしている。3月27日、弟子の河合曾良とともに江戸を出発地して東北へ向かい、平泉に到着した後は日本海側を旅して、8月21日大垣に到着。全行程約600里(2400km)、150日に及ぶ旅。ちょうど今頃の季節に、二人は山中温泉に滞在している(7月27日【新暦9月10日】から8泊)。山中温泉といえば、今から1300年前に奈良時代の高僧・行基が発見したと伝えられ名湯(芭蕉も、「その効能は有馬温泉に次ぐ」と書いている)。温泉の句をあまり残さず、温泉嫌いだったという説まである芭蕉もここの温泉には魅了されたようで次の句を残している。
「山中や 菊は手(た)折らぬ 湯の匂 」
(山中温泉はいい。長寿の効用を言われる菊を折って匂いを嗅いだりしなくても湯の香りだけで十分に寿命が延びる気がする)
この地方独特の呼び名で「総湯」と呼ばれる元湯共同浴場が温泉街の中心にある。山中温泉のシンボルとなっているが、その名前は「菊の湯」。この芭蕉の句から命名された。
ところで、ここ山中温泉で芭蕉はそれまで一緒に旅を続けてきた曾良と別れる。曾良がお腹をこわしたため、知り合いのいる伊勢の国長島へ行くことになったからだ。この時、曾良が詠んだ有名な句。
「行く行きて たふれ伏すとも 萩の原」
(旅を続けた挙句に倒れ死んだとしても萩の原で死ぬのならば本望だ)
これに対して芭蕉は、「先に行くものの悲しみ、後に残されたもののつらさ、それははぐれた鴨が雲間でさ迷うようなものだ。」として次の句を詠む。
「今日よりや 書付消さん 笠の露」
(曾良と別れて今日からは一人旅になる。「同行二人」と書いた笠の書付も消してしまおう。笠に付いた露を使って)
現在、山中温泉総湯「菊の湯」の前に無料で利用できる足湯があるが、その名は「笠の露」。やはり、この芭蕉の句から命名された。
今年の夏は異常な暑さが続いたが、ようやく秋の色が濃くなってきた。なんて書きながら「秋の色」ってどんな色なんだろうと考えた。芭蕉は山中温泉に向かう途中、「那谷寺(なたでら)」(石川県小松市那谷町)に立ち寄っているが、そこでこんな句を詠んでいる。
「石山の 石より白し 秋の風」
(解釈は、「石山」を近江の「石山寺」とするか、「那谷寺」とするかで分かれる。前者だと「近江の「石山」よりも白い那谷の「石山」に、秋の風が吹き渡って、さらに冷ややかに感じる」、後者だと「那谷の「石山」に吹き付ける秋の風は、那谷の「石山」よりも白々としていて冷ややかに感じる」)
秋の色は白。「青春・朱夏・白秋・玄冬」と言う。「白秋」は転じて、生涯において人間的に落ち着き深みの出てくる年代(50代後半~60代後半のようだ)。孔子は『論語』で「六十にして耳順(したが)ひ」(六十歳で人の言うことを逆らわないで聴けるようになり)と述べている。自分も来月還暦を迎えるが、残念ながらそんな境地にはまだまだほど遠い。
(奥の細道の旅図) 元禄2年(1689)
(森川許六「奥の細道行脚之図」芭蕉(左)と曾良)
(葛飾北斎「芭蕉之像」)
(山中温泉 総湯・菊の湯)