「宇田川源流」 中国の前国務院総理李克強の死とそれのもたらすもの
「宇田川源流」 中国の前国務院総理李克強の死とそれのもたらすもの
中国の李克強国務院前首相が亡くなった。68歳であった。李克強の死因は上海のホテルのプールで遊泳中に心臓発作が起きたというように報道されている。しかし、その辺の情報に関してはどうであろうか。李克強は、在職期間の間からガンを患っているという情報があった。本年の春に全人代において特に何も言わずに李克強は特に抵抗することもなく首相の座から降りたのは、そのガンの話からではないかというように言われていたのである。胡錦涛が表に出てきて様々なことが言われたが、基本的に、それらはすべて「習近平派」と「共産党青年団派」というように分かれていた。それまでは「太子党」というような派閥に事がいわれていたが、江沢民などの引退や孫政才などの失脚で太子党はあまり聞かなくなってしまった。
李克強は、優秀な経済官僚であり、なおかつ有能な首相であったが、しかし、そもそも習近平が国家主席になる時に、李克強と習近平の間で権力争いが起きた。当時、李克強をよく知る人は「共産党のことを考えれば、実務ができる人が国務院で動かさないと、国全体がおかしくなってしまうと李克強が言っていたよ」と言っていた。その結果がこの10年間の中国である。今までの江沢民や胡錦涛の時代とは全く異なる習近平の独裁的なやり方と、反腐敗という名目をつけた粛清は、様々な問題を生んだ。その問題の中にあり、そして国際的な軋轢を生みながらも、李首相は何とか共産党の政治をなるべく国際的にそして改革開放経済としての内容で、時代を逆行しないようにしていた。
鄧小平の改革開放政策は、教育に関しても「改革開放」を行った。それは、大学に入るのにそれまでは「共産党宣言」などを暗唱する「共産主義の科挙」が受験の項目であったのに対して、李克強の世代からは英語や日本語を大学で習い資本主義や至上主義経済も大学で学ぶことができたのである。
李克強の字だから教育の改革開放ということは、その年上になる習近平は改革開放教育を受けていないということになる。要するに習近平は「共産党至上主義」で「共産主義宣言」や「毛沢東語録」を記憶することが大学に入ることの条件であった。そのような人物が残り、毛沢東的な政治を行い、そして改革開放を志したナンバー2の李克強が死んでしまったということになる。この教育の改革開放に言及する李克強評を日本で目にすることはほとんどない。
李氏"習氏一強"翻弄され冷遇
【北京=比嘉清太】中国の李克強(リークォーチャン)前首相は、かつて習近平(シージンピン)国家主席と共産党最高指導者の後継を競ったエリートだった。しかし、その党キャリアの後半は、改革開放政策推進の原動力でもあった党の集団指導から習氏一強への転換に翻弄(ほんろう)され、退任からわずか7か月後に急死するという結末となった。
■中国「ブレーキ機能」失う
李氏は26日、上海のプールで遊泳中に心臓発作を起こしたとの情報が伝えられている。真偽は不明だが、引退後も周到な警護下にあるという元党指導者が病院に緊急搬送されて亡くなったとすれば極めて異例だ。
李氏の退任自体、意外感を伴っていた。昨秋の党大会後、首相退任に先立ち党指導部から引退した当時、李氏は67歳で、従来の「68歳定年」慣例に基づけば残留も可能だった。国営メディアは「一部の指導者は自発的に身を引くことを表明した」と伝えた。引退した李氏や汪洋(ワンヤン)前人民政治協商会議主席らを指すとみられる。ただ「李氏は健康上の理由で辞任したようだが、内心は嫌気が差したのだろう。習氏も強いて慰留しなかったはずだ」との見方を示す党関係者もいた。
今年8月には、李氏が観光地の甘粛省敦煌を訪れた際に観光客に笑顔で手を振っているとされる動画がSNSで広く共有された。引退した党指導者が国民の前に姿を見せるのは異例で、健在ぶりを誇示したものとみられる。
李氏は、胡錦濤(フージンタオ)前国家主席の政治基盤だった「共産主義青年団」(共青団)の押しも押されもしないエースだった。抜群の記憶力や堪能な英語力で知られ、後継者レースでは、胡氏の意中の人とみられていた。
しかし秀才肌の李氏は、党内での世渡りは不得手だったようだ。党幹部によると、次世代指導者候補に名を連ねた際、ライバルの習氏が当時の党指導者や長老へのあいさつ回りに余念がなかったのに対し、李氏は「腰が重かった」。これが、江沢民(ジアンズォーミン)元国家主席ら長老らの不興を買い、習氏との評価が逆転したという。
李氏は、常に習氏の「警戒対象だった」(党関係者)とされる。習氏は2012年からの1期目で、経済政策などを李氏が率いる国務院(中央政府)の頭越しに決める党の作業グループを次々と設立。集団指導体制の下、首相が総書記に劣らぬ存在感だった過去の政権と様変わりし、習政権を「習―李体制」と評する声は早々と消えた。
経済博士号を持つ李氏は、市場主導の構造改革を主張し「リコノミクス」(李克強経済学)と呼ばれたが、民営企業への統制を強めた習氏主導の政策にかき消された。20年5月の全国人民代表大会(全人代=国会)での首相内外記者会見では、習氏が貧困対策の成果をアピールする中、「月収1000元(約2万円)の人が6億人いる」という実態をあえて明らかにした。
だが、それもせめてもの自己主張にすぎなかったのだろう。毎年の全人代で、汗だくになって政府活動報告を読み上げる姿は、習氏の威風の下で事務方を務める印象を増幅させた。
党内では、党指導者は引退後も現役政権へのご意見番を務めるのが慣例となってきた。李氏の急死は、政権内にわずかに残っていた「ブレーキ機能」がほぼ失われたことを象徴する。
李氏と同世代の旧友は「本来はかなり開明的な考えの持ち主だが、習氏に抑えつけられ、何もできなかった」と嘆き、こう言い切った。「我々は改革開放の受益者だが、もはやその時代は終わった」
2023年10月28日 10時27分読売新聞
https://news.nifty.com/article/world/worldall/12213-2629311/
教育の改革開放で、経済を学んだ李克強の行った経済政策に関しては「リコノミクス」という様々な意味で市場経済の構造改革を行い、なおかつ市場的な価値が上がった。しかし、習近平による企業の締め付けと、反腐敗による恣意的な政治、そして先の見えない政策を考えれば、やはりなかなかうまくゆくような状況ではなくなってきていた。李克強の経済のままであれば中国は発展していたが、習近平が力をつけ、独裁的な判断を行い、そして李克強がガンにかかって徐々に行動を自粛せざるを得なくなってきたのちには、中国の経済は陰りができてきている。まさに、現在の中国の経済の悪化は、そのまま李克強の死と関連付けられることになるのではないかと思う。
それだけではなく「教育の改革開放」ということは、「国際協調」ということができていた。もちろんアメリカや日本の国際協調に比べれば、全く異なる内容であったと思うが、しかし、少なくとも社会主義の政治である中国の中においては、かなり先進的な改革開放的な外交政策を行っていたのではないか。
しかし、中国の為政者は伝統的に「自分より仕事のできる部下」を嫌う。その意味では、李克強も例外ではなかったと考える。その内容こそが、まさに今回の内容になったのではないか。
そのような意味で、私は今回の死が「暗殺」ではないことはよく理解する。習近平もそこまでのバカではない。つまり、「待てば死ぬ」李克強を待てないはずがないのである。そのように考えれば、わざわざ暗殺する必要性などはない。暗殺をするのもコストがかかるのであるから、そのような無駄な子をとするのであれば、他の人を暗殺するであろう。しかし、「暗殺をしていないのに、暗殺をしたと思われてしまう」ということが、習近平の不断の行いが見えてきてしまうということになる。まさに、その対立やその内容を知っている人などは、暗殺したに違いないといってしまうことになる。
同時に「暗殺されたのではないか」というような疑念は、様々な「疑心暗鬼」を生む。例えば、葬儀などが公に行われないという事がある。俗にいう六四天安門事件における学生の集会も改革派の胡耀邦の死と名誉回復を求めるでもっが初めである。当然に習近平政権は、死んだ李克強をおそれなければならない。まさに「死せる孔明生ける仲達を走らす」という状態になるのではないか。
今後、習近平を止める勢力がなくなった。逆に言えば「習近平が生きている間は、今の中国の拡大政略はなくならない」ということになる。同時に中国の経済は悪化するであろう。そのために何が起きるのか。日本人はそれに備えなければならない。