沐浴、溺水、シュトーレン
「せ…執事長、今良いですか?」
「何ですかな、ルイス坊ちゃん」
思わず「先生」と呼びかけそうになったルイスは呼吸を整え、日常に紛れるそれを使ってジャックを呼んだ。
生活の基盤が整うまで、モリアーティ家の三兄弟はロックウェル家に身を寄せている。
少なくともルイスが知る限りでは、身分の割には希少なほどに人柄の良い人間ばかりが集まっているこの屋敷において、執事長をしているジャックだけは異端だった。
彼の過去、及び冷酷な判断力と戦闘スキルは確かなものがある。
ゆえに暗殺術を学ぶため、三兄弟は彼と師弟関係を結んでいるのだが、それはあくまでも生活における裏側の話だ。
表向きは居候の貴族家の子どもと一執事。
ルイスが養子という立場であることを踏まえた上で、ジャックはこの子どものことを敬称をつけて呼んでいた。
「料理長に食材の発注書を渡されたのですが、数が少しおかしいと思うんです。でも料理長はもう夕食の準備に入ってしまっていて…」
「確認できないと」
「はい。でも、絶対におかしいと思うんです」
「ほう、どれどれ」
モリアーティ家の実子ということになっているウィリアムとアルバートは勉強の最中だが、養子のルイスは本人の希望もあって屋敷の執務を手伝っている。
合間にジャックとの訓練をこなしつつ、主に掃除や買い出しなどを担当していた。
まだ小さな手には見慣れた発注書が握られており、ジャックは渡されるままに受け取っては目を通す。
ルイス含め、モリアーティ家の三兄弟がこの屋敷に来て半年程度。
孤児とは思えないほど地頭の良いルイスがおかしいというのならば、それは絶対におかしいのだろう。
さて何がおかしいんだか、とジャックが発注書を上から順に確認したところ、いつもと違ってはいるけれどその理由がはっきりしているために、違和感を覚えることすら出来なかった。
「ふぅむ…?特段、おかしいところは無さそうですが」
「えっ。だ、だってバターと砂糖の量おかしいですよね?僕、いつもはこんなにたくさん買い出ししていませんよ」
「バターと砂糖?あぁ、そうか」
「それに、ドライフルーツとナッツ類もまだストックがあるのに」
ジャックから同意が返ってこなかったことを不満に思ったルイスは、ここがおかしい、と彼が持つ発注書を指差して指摘した。
いつもはバターを五つ買うよう指示されるのに、今日はその倍どころか五倍もの量を買ってくるようにと書かれている。
砂糖もキロ単位で買わなければならないようだし、ドライフルーツもナッツもこんなにたくさんの量を買ったとしても日常で頻繁に消費されているわけでもないから、結局駄目になってしまうかもしれない。
「これは間違いではありませんよ、坊ちゃん」
「でも」
「だだ、坊ちゃん一人で買い出しに行くには重たくて大変でしょう。どれ、私も一緒に参りますか」
「……」
納得していない顔を続けていても、丁寧に折り畳まれた発注書を返されてしまえばどうにも出来ない。
やっぱり料理長に確認しに行った方が良いのでは、とルイスが思い悩んでいることに気付きながら、ジャックは小さなその背中を押して玄関まで連れて行った。
コートを羽織り、丁度馬車が空いているからという理由でジャックは馬に跨り、ルイスは籠の中に追いやられる。
見慣れた街並みを眺めながら考えたところで、預かっている発注書の文字は変わらなかった。
「せ、先生、そんなにたくさんのバターをどうするのですか?」
「買うに決まっとるじゃろ。馬車で来たことだしな、荷物が多くなったところで問題はなし」
「え、えぇ〜…」
屋敷を離れてしまえば養子と執事という関係よりも師弟関係の方こそが先に立つ。
気兼ねない会話内容は見た目と相まって祖父と孫のようだった。
そうしてジャックは馴染みの店の馴染みの店主から、料理長に指示された量よりもさらに倍のバターを買い付ける。
それはつまり、ルイスが普段買い出しに行っているバターの十倍もの量だ。
バターは冷やして保管しなければならないし、長く日持ちするわけでもない。
そもそも濃厚な風味が特徴の食材は、ルイスの価値観からすれば驚くほどに高いのだ。
バター一つでルイスならば三日は食いつなげるほどの値段がする、いわゆる高級食材だというのに。
「(バターを使った料理は美味しいけど、たくさん使えば良いというものでもないのでは…)」
以前アルバートにもらった焼き菓子は香ばしくて濃厚な風味がしていて、聞けばたっぷりのバターと砂糖が使われているという。
高い分だけ美味しいのだと知ったけれど、生まれ落ちた環境がルイスに贅沢を許してくれない。
バターとは高価で貴重で、大切に食べるべきものなのだ。
今目の前に置かれているバターの山を前に、ルイスは何故か不安になった。
「今年も美味しいのが出来ると良いですね」
「えぇ、気合いを入れて作りますぞ」
「…?」
ルイスは両手にバターの入った紙袋を持ち、ジャックが去り際に店主からかけられた言葉に疑問を抱く。
バターは食べ物なのだから、美味しいものを作るための材料であることは明白だ。
だが店主はジャックが、いやロックウェル伯爵家の料理長が何を作るのかわかっているようだった。
何故だろうかと首を傾げそうになったけれど、疑問以前に持ったバターが重たくて自ずと体が傾いてしまった。
「ルイス、体幹が鍛えられていない証拠だぞ。体の軸はブレないように鍛えねばならん」
「はい、分かりました…!」
重たいけれどジャックの言葉に反発するように、ルイスは真っ直ぐ背筋を伸ばす。
そうして馬車籠に荷物を置いて、他の食材を買うべく別の店に足を運んだ。
「先生、こんなにたくさんの砂糖とドライフルーツとナッツ、何に使うんですか?」
「シュトーレンを作るのに使う」
「しゅとーれん?」
バターと同様に大量の砂糖、ドライフルーツ、ナッツ、それに加えて料理長からの指示にはなかったはずのいくつかのスパイスを買い付けて、ようやくルイスとジャックは馬車に乗る。
聞き慣れない単語、おそらくは食べ物の名前を明かしたジャックはそのまま馬に乗ってしまったため、ルイスはこれ以上の詮索が出来なかった。
「…先生、おかしくなったのかな」
もう年だし、もしかしたら料理長の書いた文字が上手く読めなかったのかもしれない。
そうでなければ、こんなにもたくさんの食材を一度に買う理由が思い浮かばないのだ。
ただでさえ料理長の書いた発注書の食材の量は多かったのに、ジャックはその量さえも無視して倍以上を買い付けている。
年を取ると判断力が鈍るというし、耄碌しているのだろうか。
せっかくウィリアムの目に叶った優秀な人間だというのになんと勿体無い。
せめて自分がきちんと強くなるまではまともでいてくれないだろうか。
ルイスはそんなことを願いながら、ジャックが運転する馬車籠の中で屋敷までの光景を目で追いかけていた。
「ルイス、お前さっき何か失礼なことを考えてやせんかったか?」
「?何のことでしょう?」
「気のせいなら良いが…」
屋敷に着いてすぐ、二人は大量の荷物を運び出しながら邸宅の中へと歩き出す。
その最中に渋い顔をしたジャックが何かを尋ねてきたが、ルイスには失礼なことに値する考え事などしていた覚えはない。
素直な気持ちで疑問を返したところ、ジャックもそれ以上は言及しなかった。
籠の中でルイスが考えていたことは十分失礼なことに値するのだが、ルイスにその自覚はないのである。
けれど、勘の鋭いジャックは何となしに嫌な気持ちになったらしい。
様子のおかしい彼を見たルイスは改めて、やっぱり彼は耄碌しているのかもしれない、という考えを強めてしまった。
「お帰り、ルイス。お帰りなさい、執事長」
「ただいま帰りました、ウィリアム兄さん」
「お疲れ様です、ウィリアム坊ちゃん」
「おや、随分たくさんの荷物だね?」
「アルバート兄様も」
邸宅の中に入ったところでウィリアムとアルバートが二人を出迎えた。
おそらくはルイスが買い出しに出ていることを知り、勉強を終えてから今までの時間、ルイスの帰りを待っていたのだろう。
仲睦まじい限りだとジャックが微笑ましく思っていると、自然な動作でウィリアムがルイスの持っていた荷物を一つ取り上げる。
思っていたよりも重たかったようで、アルバートも一緒になって袋の中身を覗いていた。
「これは…バター?それもかなりたくさんあるね」
「あぁ、なるほど」
「なるほど、とは?」
「アルバート兄様、何か分かったのですか?」
ずっしり重たいバターを一つ手に取り、ウィリアムは首を傾げる。
その様子がルイスと全く同じなのだから面白い。
ジャックはそう感じながら、一人正解を理解しているアルバートの言葉を遮らないよう口を閉ざしてその場に佇んだ。
「おそらくこれはシュトーレンの材料だろう。ルイス、他にもナッツやドライフルーツもたくさん買ったんじゃないかい?」
「に、兄様の言う通りです。こんなにたくさん買いました」
「わぁ、これは凄いね。こんなにたくさんのナッツ、初めて見たよ」
「もうそんな時期なんだな。あっという間のような、長くかかったような、何とも不思議な感覚だね」
シュトーレンという単語。
ルイスは先ほどジャックから聞いたばかりで、ウィリアムは知識として知ってはいたから、二人揃って聞き覚えがあった。
けれど実物を見たことはないし、その材料にこんなにもたくさんのバターやナッツが必要だということも知らない。
「シュトーレン…確か、クリスマス前のアドベント期間に食べるお菓子、だったでしょうか」
「そうだよ、ウィリアム。さすが詳しいね」
「いえ、実物を見たことはないんです。だからまさか、そんなにたくさんのシュトーレンを作るとは知りませんでしたね」
「たくさん?いや…執事長、この材料で出来るシュトーレンは幾つを想定しているので?」
「味の調整分を抜いたとしても…そうですね、五つか六つでしょうか」
「えっ?こんなにたくさんのバターとドライフルーツとナッツがあるのに、五つしか作らないんですか?」
「シュトーレンは一つ作るだけでも大量のバターを使いますので」
「…そんな…」
驚きの事実を知ったルイスは手元の紙袋を見やる。
どう見ても大量の食材があるのに、完成品は五つやそこらだという。
きっと一つがとても大きいのだろうけれど、それにしたって一体どういうものなんだろうか。
頭上ではジャックとアルバート、ウィリアムがシュトーレンについて何やら語らっているが、ルイスの耳には入っていかなかった。
「それで、いつ作るんですか?」
「せっかくなので明日、ルイス坊ちゃんと一緒に作ろうかと。料理長が作る物より、坊ちゃんが作る物の方がお二人も嬉しいでしょう」
「そうですね、ありがとうございます。ルイス、頑張ってね」
「え?あ、はい。頑張ります」
いつの間にか進んでいた話に気づかず、ルイスはひとまず話を合わせるべくウィリアムの言葉を肯定した。
荷物を保管庫に置くまでの間、ウィリアムとアルバートも共に来てくれたため、そこでシュトーレンという菓子について知識を深める。
どうやらシュトーレンとはクリスマスまでの期間を楽しみに過ごすべく、一日に一切れずつ食べ進めていくもののようだ。
日毎に変わっていく味の違いも楽しいらしい。
「毎年この時期に仕込みが始まるんだ。僕は実際に作ったことはないけど、作るときは朝から夕方まで時間がかかっていたはずだよ」
「大変なんですね、シュトーレンを作るのは」
「大量のバターを溶かして、それに生地を浸しているのは中々面白い光景だったよ」
「へぇ?」
「なるほど?」
ウィリアムとルイスは刷毛か何かで菓子の表面にバターを塗る構図を思い浮かべ、そんなに面白いだろうかと考える。
だがアルバートが面白いというのならば面白い光景なのだろうと無理矢理に納得して、クリスマスを祝う習慣もなければそこに至る期間を楽しむ習慣もない自分達の境遇を思う。
劣等感があるわけでも自分という存在を卑下する訳でもないが、ふとした瞬間に、アルバートとの格差を感じるのにはどうしようもなく心がざわめく。
だがアルバートは決してウィリアムとルイスを見下すことはしないし、自分の立場をひけらかすこともしない。
ただ純粋に、自分の中にある知識を弟達と共有しているだけだ。
彼が持つ知識を知れるのはただ純粋に知識欲が満たされていく。
そして何より、知らなかったことをアルバートに教わるというのは、彼の弟という立場として嬉しくも思えてしまうのだ。
「シュトーレンは美味しいお菓子なんですか?」
「そうだね。時間をかけて味が熟成されていくようで、日々新しい味に触れる新鮮さもあるよ」
「そうなんですか…では、明日のシュトーレン作り、お二人のために頑張ってきます」
「僕も様子を見に行くからね、ルイス」
「期待しているよ」
「美味しく出来たら、クリスマスまで毎日一緒にお茶会しましょうね」
控えめに、それでいて間違いなく笑ったルイスの顔を見て、ウィリアムは同じように笑みを返し、アルバートは驚いたように呆けてしまった。
徐々に心を開いてくれている末の弟の笑顔は、アルバートにとって貴重そのものだ。
見れて嬉しいと思うよりも、そもそもどのタイミングで笑ってくれるのか分からないために見たときの驚きの方が先に来る。
気付いたときにはスンと表情を無くしてしまったルイスの背を見送り、アルバートはウィリアムとともに部屋に帰って行った。
「せ、先生!バターが、バターが…!」
「坊ちゃん」
「あ、えと…執事長」
「はい、何でしょうか」
「バターが溶けてます!」
翌日、朝食後。
ジャックは料理長に事情を話し、普段は使われていない第二調理室を開けてもらった。
そこでルイスとともにシュトーレンを作っていたのだが、焼き上がった生地を冷ましている最中に他の作業をしたところでルイスが叫び出す。
衝撃のあまり呼び方が違っていることを指摘すれば、落ち着いたと思いきやまたも大きな声が出る。
「溶かしているんですよ」
「でも、こんなにたくさん溶かす必要はないんじゃないですか?」
「これでも足りないくらいです。今日は調整用のシュトーレンだけなので、また来週にでも粉とスパイスの配合を変えたシュトーレンを作りますよ。そのときは残ったバターを全て使います」
「し、執事長…こんな、大きなボウル一杯にバターを溶かして…本当に良いんですか?」
「良いんです」
「えぇ…」
沸かしたお湯に熱伝導の良い素材で作られた大きなボウルを乗せ、そこにバターの塊をゴロゴロと投入する。
そのまま火を付けて湯の温度が冷めないようにしていれば、みるみるうちにバターが溶け出していく。
透明感のある黄色い液体がボウル一杯になったところで更にバターを追加しだしたジャックを見上げ、ルイスは訝しげな表情を浮かべた。
「(やっぱりこの人、ボケているのでは…)」
「坊ちゃん、今何をお考えですか?」
「…いえ、何も」
「ならば良し」
ジロリと睨まれ、ルイスは咄嗟に口を噤んで彼からバターに視線を移す。
目の前には初めて見る黄色い海が広がっていた。
「…勿体無い」
「ん?何かおっしゃいましたか?」
「な、何でもないです」
思わず本音がこぼれてしまったが、今のルイスは紛い物とはいえ貴族という立場である。
貴族は勿体無いなどと口には出さないし、いくら高価な物であろうと躊躇なく懐に入れる存在なのだ。
忌み嫌っていた存在に成り替わるのは抵抗があるけれど、そういう生き方を選んだのだから、今のルイスは大量のバターを見たところで「勿体無い」と思ってはいけないのである。
ジャックも深く追求する気はないようで、その視線はバターをかき混ぜている手元に向かっていた。
「そろそろ良いでしょう」
「何がですか?」
「バターの用意がです。坊ちゃん、これを」
「手袋?はぁ…」
湯煎で溶かしたバターのボウルを取り出し、渡されたゴムの手袋をはめる。
ルイスのように小さな手に合うサイズはなかったようで、指先は余っているし全体的に緩くてブカブカだ。
しかしそれに文句を言うことはせず、同じように手袋をはめたジャックを見ていると、調理室にウィリアムとアルバートがやってきた。
「ルイス、執事長、お疲れ様です」
「やぁ、良いところに来たみたいだね」
「ウィリアム兄さん、アルバート兄様。来てくださったんですか」
「勿論だよ、ルイス」
「もう昼食の時間を過ぎているのに、よほど集中して作っていたんだね」
「そうですね。キリの良いところまで済ませてしまおうと思いまして。これが終わったら坊ちゃんには軽く何か食べてもらいましょう」
「僕、あまりお腹空いていないので大丈夫です」
見れば昼食の時間はとうに過ぎていたらしい。
だが甘い香りが漂っている空間ではお腹が空いた感覚もなく、食べたいと思うこともない。
兄達の手前、食事を抜くことは許されないが、心配はしないでほしいと伝えておいた。
ウィリアムは良い顔をしなかったけれど、アルバートは苦笑した様子で受け入れてくれる。
「作るのももう終盤でしょう。終わったら料理長にサンドイッチでも作ってもらおうか」
「お願いします、兄さん。ルイス、分かったね?」
「はい」
「話がまとまったところで、始めるとしましょうか」
「お風呂ですね」
「「お風呂?」」
ジャックが提案し、アルバートが続けて声を出す。
けれどウィリアムもルイスもその単語の意味が分からず、声を揃えて反芻する。
幼い二人を差し置いてジャックは頷いており、手袋をした手でシュトーレンの生地を取り、そうしてバターの海に生地を丸ごと投入した。
「えっ!?」
浮かんでくる生地を沈めてはバターが浸透するのを待つ。
それどころか、手でバターを掛けながら中心まで染み込ませようとしているのが見て分かる。
衝撃的な光景にルイスは思わず肩を跳ね上がらせてその場で固まった。
「…なるほど、お風呂。シュトーレンのお風呂、ということですか」
「そうだよ。まるでシュトーレンの赤ちゃんをお風呂に入れているみたいで面白いだろう?」
「兄さんが言っていた面白いとはこのことだったんですね。確かにこれは…衝撃も合わさって中々面白い」
「兄さんも兄様もそんなに冷静に受け入れないでください!し、執事長、一体何をしているんですか!?やっぱりお年のせいでおかしくなっているのでは…!」
「ルイス、やっぱりとはどういう意味だ?」
「え、耄碌しているのでは…」
「誰が耄碌しているか!」
バターの海にシュトーレンを溺れさせているジャックの奇行。
ルイスは思わず手を伸ばして止めようとしたが、不要だと言わんばかりに睨まれてしまった。
耄碌しているには鋭い眼力なので、もしかしなくても耄碌していないらしい。
ひとまずそれは理解したが、だからといってジャックの行動は理解出来なかった。
「安心しなさい、ルイス。シュトーレンはこうして作る物なんだよ」
「え?バターで溺れるのが?」
「溺れているかはどうかは知らないけど、生地の中にしっかりとバターを染み込ませるのがドイツ伝統のシュトーレンの作り方なんだ」
「このバター全てをさっき焼いた生地に染み込ませ、乾燥させたらようやく完成するのです」
「凄い作り方なんですね。本で読みましたが、こんなに大胆な作り方だとは知りませんでした。ルイス、驚いたね」
「は、はい…まさか溺れさせるなんて」
会話の最中にもジャックの手はシュトーレンの生地にバターを染み込ませている。
それはまるでシュトーレンの入浴のようなのだが、ルイスにはシュトーレンを溺水させているように見えるらしい。
だがルイスの見た目を合わせると溺水というのはいささか物騒なので、アルバートの表現を採用するべきだ。
ウィリアムは咄嗟にそう判断したらしく、戸惑うルイスに焼き上がったシュトーレンの中で小さなものを手渡した。
「ルイスもやってみてよ。シュトーレンの赤ちゃんのお風呂」
「お風呂…はい、やってみます」
手袋越しにシュトーレンを取り、ジャックの見様見真似でバターの海に投入する。
小さな手でバターを掬い、シュトーレンに掛けてあげる様子はまさしくお風呂、沐浴だ。
なるべく優しくバターを掛けていき、体表全面をムラなくしっかり濡らしていく。
真剣な様子で沐浴する姿はとても可愛らしく、特にアルバートは初めて見る表情豊かなルイスに驚きと新鮮さを感じざるを得ない。
そして何より、シュトーレン作りというのは秋から冬における季節の風物詩のようなものだ。
ウィリアムとアルバートがルイスを見ることでクリスマスを感じているのとは対照的に、ルイスはひたすらにシュトーレンの溺水について考えていた。
「(こんなにドロッとしたバターを掛けられて、きっと息苦しいでしょう。シュトーレンって可哀想な食べ物なんですね…)」
見ている分には赤ちゃんの沐浴のようで微笑ましいが、実践する側は複雑な心境を抱えているらしい。
立場上はルイスと同じくシュトーレンを作る役割にいるジャックはそのようなことを考えたことはない。
育ちゆえなのかもしくは元々の性質なのかは不明だが、今日この日にジャックは最も幼い子どものことを、実に難儀な性格だと理解した。
(執事長、このドライフルーツとナッツは全部入れるのですか?)
(いや、すきなものだけで構いませんよ。好みのフルーツはありますか?)
(ウィリアム兄さんはりんごがお好きなんです。あと、アルバート兄様はレーズンをよく食べていました)
(ではその二つは入れましょう。ルイス坊ちゃんは何がお好きで?)
(僕ですか?僕は別に…ないです)
(何でも良いのですよ?遠慮せずに)
(…では、くるみを入れたいです)
(くるみですね、たくさん入れましょうか)