「1683年 ウィーンとオスマン・トルコ」①
「ペスト、狼、オスマン・トルコ」。いつ頃からか、これがヨーロッパ人の恐怖の三点セットとなった。このうちトルコの恐ろしさがはっきりした形をとったのは1453年のオスマン・トルコによる「コンスタンティノープルの陥落」(東ローマ帝国滅亡)から。ヨーロッパはこの驚愕のニュースにキリスト教世界の没落という古くからの幻影に改めて怯えることになる。これに危機感を抱いたイタリアの五大国(ヴェネツィア共和国、ミラノ公国、フィレンツェ共和国、ローマ教皇領、ナポリ王国)は、それまで続けてきた戦乱を止め、「ローディの和」を結び、その後40年間に及ぶ「イタリアの平和」をもたらすことになった。
しかしその後もトルコによる東ヨーロッパ浸食は続く。スレイマーン大帝(在位:1520年~66年)の時代、それは極限に達する。1529年9月、ウィーンを包囲(第一次ウィーン包囲。皇帝軍と市民の必死の防衛と例年より早い冬の到来で、トルコ軍は10月には撤退)。1538年には、無敵オスマン海軍が「プレヴェーサの海戦」でキリスト教連合艦隊をいともたやすく打ち破り地中海の制海権を握る。確かに1571年、スペイン王フェリペ2世が主導したキリスト教連合艦隊が「レパントの海戦」でオスマン海軍に一矢報いるが、ハンガリーからウィーン包囲を狙うトルコの威勢は留まるところを知らなかった。
まさしくウィーンはトルコの脅威からキリスト教世界を守る陸の防波堤だった。ここが決壊すればヨーロッパはイスラムの濁流にのみ込まれてしまう。かくしてウィーン市を取り巻く市壁は強固な堡塁となり、軍の終結のために壁から600歩は建物の建造が禁止され、その周囲には敵の大砲の砲弾距離を考慮した広大な斜堤が巡らされた。しかしそれでもトルコはやってきた。
1683年7月、大宰相カラ・ムスタファ率いる30万のトルコ軍がウィーンに迫る。事前に情勢を察知した皇帝レオポルト1世は、ウィーン防衛をロレーヌ公カールに委ねて自らはドナウ川上流のパッサウに逃れる。ウィーン防衛軍は、残されたわずかな皇帝軍と5千人余りの市民軍の総勢1万5千。防衛軍は20倍の敵に勇猛に戦い続けるが、8月も末になるとウィーン市内には食糧も弾薬もつきてくる。白旗を掲げるのも2,3日のうちとなったとき、ようやく彼らを救出するキリスト教徒の連合軍が勢ぞろい。ウィーンを逃れてからレオポルト1世は、精力的に救援軍の要請、組織に動いていたのだ。ただカトリックとプロテスタントが戦った三十年戦争(1618年~48年)のしこりが軍勢を整えるのを困難にさせていた。それでも「ヨーロッパ防衛」の共通認識、ローマ教皇の積極的支持もあって、バイエルンとザクセンのドイツ勢とポーランド勢の合同軍が、ポーランド国王ソビエスキの指揮下にウィーンへ向かった。
そして9月12日、援軍はウィーンの北側のカーレンベルクの丘からトルコ軍の背後を襲い、壊滅的な打撃を与えた。しばしば「世界史上の戦い」のひとつに数えられるこの日の戦闘で、その後のヨーロッパの歴史は決まったと言われる。キリスト教的ヨーロッパは救われ、逆に世界制覇に乗り出していくことになる。
ところで、ローマのヴァチカン美術館に「ソビエスキの間」がある。ヴァチカンを訪れたときは、「システィーナ礼拝堂」、「ラファエロの間」だけでなく、是非この「ソビエスキの間」も訪れるといい。そこには、一枚の巨大な絵が掲げられている。第二次ウィーン包囲戦でオスマン・トルコに勝利したポーランド王ソビエスキが勝利の知らせをローマ教皇の使者に手渡している場面が描かれている。キリスト教世界にとってこの勝利がいかに大きなものだったかをがよくわかる。
(1683年ウィーン鳥瞰図)
(ジャン=ジョゼフ・ベンジャミン・コンスタン「メフメット2世のコンスタンティノープル入城」トゥールーズ オーギュスタン美術館) 1453年コンスタンティノープル陥落
(「スレイマーン大帝」ウィーン美術史美術館)
(オスマン・トルコ大宰相カラ・ムスタファ)
(フラン・ゲッフェルス「ウィーン包囲」ウィーン・ミュージアム・カールスプラッツ)
(ベンジャミン・フォン・ブロック「レオポルト1世」ウィーン美術史美術館)
(ヤン・マティコ「教皇の使者に勝利の知らせを渡すソビエスキ」ヴァチカン美術館ソビエスキの間)
(イェジー・シェミギノフスキ=エレウテル「キリスト教擁護者としてのソビエスキ」ワルシャワ国立美術館)