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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

十字軍後6-ハプスブルク家オーストリアへ

2018.09.21 02:08

一方、混乱の極みの神聖ローマ帝国にも、ニューウェーブが出現していた。1273年にハプスブルク家のルドルフが、ドイツ王に推薦されて王位につく。しかしこの頃の領土は、スイス北東部にすぎない。実はその頃はボヘミアのオットカル2世の勢力が強く、その力を抑えるために、無難で敬虔というので起用されたのだ。

ルドルフは、アーヘンの恒例で恒例の戴冠。ところが嫌がらせか、王杓が見当たらない、そのとき、咄嗟に祭壇の磔刑像を手にとって、これ以上ふさわしいものはない、と悠々と式をすすめた。おっこれはタダものではない、と気づくべきなのだ。

そのルドルフ王は、ボヘミアのオットガルに、自分のもとに来て臣従の儀式をしなさい、と連絡した。しゃらくせえや!しかし古今東西、こんなことやった者に碌な運命が待っていない。ルドルフは王命違反として軍をあげ、オットガルの勢力を削りたい諸侯が従った。1278年、マルヒフェルトの戦いで、ルドルフ軍はボヘミア軍に激戦の後に勝利した。

その代償として、ルドルフは、オットガルの所領であったオーストリアを得たのである。そして、ルドルフの力を恐れた諸侯が、いろいろ嫌がらせをするたびに、ルドルフは、新天地のオーストリアに傾斜していった。こうしてその後名門として欧州史に名を刻むオーストリアハプスブルクが生まれたのである。

下は磔刑像で戴冠するルドルフ・フォン・ハプスブルク