『空には仕切りがない』
今晩は満月。
下界に住む私たち人間の営みを、いつも優しく
見守っているお月様。
多少の雑多な煩いの気持ちなど大したことはない
と、生きる勇気を与え励ましてくれる、
月読命神のありがたく優しい透明な光
に感謝します。
3.11以降、愛する人々が健康で笑顔を見せて
くれるということがいかに幸せであるか、
いかに大事であるかを多くの人が感じている
ように思います。
震災のあの日、私は当時勤めていた会社の
ビル(銀座)の中にいました。
”未だ体験したことのない大きな揺れが何度
も続いていた。
窓の外を見ると、周囲のビルが揺れており、
お台場の方では黒い煙が大きく上がっていた。
普通ではない恐怖を誰もが感じていた。
会社は緊急連絡をアナウンスした。
スピーカーから聞こえてきたのは、「東北を
震源地とする大地震が起きたこと、このビルは
耐震構造が強いこと、しばらく状況を見るように」。
その情報が繰り返された。
どうすればいいのか誰も判断がつかない中、
ほとんどの社員はネットで、この尋常ではない
地震の情報をひたすら検索していた。
誰もがパソコンの画面をただ見ているしかなかった。
東京のビルの中にいた人は、おそらく皆同じ状況
であっただろう。
千葉県にある我が家は、震度5強に遭っていた。
すぐにつながったメールで、幸い妻と息子は
安全であることが確認できた。
しかし家の中は揺れの衝撃でひどい状況に
なっているという。妻の父母妹、埼玉の実父母
も無事であることがわかり、少し安心した。
夕方定時を迎える頃、社内のアナウンスがあった。
「首都圏の交通機関は全て停止している、
ビルの中に留まることも可能」とのことで、
結局個人判断にまかせるということであった。
私はビルを出て、約40キロ離れた柏市を目指す
ことにした。
外に出ると、あらゆる道を大勢の人の波。その波は
ひたすら前進するという異様な光景。
途中、コンビニやスーパーに寄ると、すぐに
食べられそうな物は全て棚から消えていた。
何台もの自衛隊の車が東へ向かうのを見た。
それ以外東へ向かう車はいない。
反対に西へ向う道は少しでもこの状況を離れようと
する車で大渋滞。
自衛隊が惨状にある土地へと向かうことに、
ふだん意識していなかった彼らの役目の有り難さに
胸が熱くなる。
途中から両足が痛むが我慢して歩き、ようやく
8時間かけて家に着いた。深夜2時半を過ぎていた。
家の中は照明がついており、繰り返す大きな揺れ
の中で憔悴した妻が出迎えてくれた。
息子は避難をいつでも出来るよう服を着たまま、
眠りについていた。
後になり、あの状況を歩いて戻ったことに対して
危険だと何人かに言われた。しかし、かつて
体験したことがない不安定な状況の中、とにかく
自分の「心の拠りどころ」である家族
の元にいたかった。
点けっぱなしのテレビの画面からは、緊急放送
のブザーを度々鳴らし、信じ難い津波と惨劇の
映像を繰り返し流していた。”
月の話題に話を戻しましょう。
以前読んだ城山三郎氏の随筆に「月見て歩け」
という名文がありました。
『所用のため、大阪へ日帰りした。
早朝、家を出て駅に向かうと、ほの白く透き通った
月が、歩いていく先の西空にかかっていた。
帰りは、逆に、東の空に、血の色を帯びた月が
待っていた。
満月がやや欠けたばかりのまるい月である。
早朝の月も、夜の月も、それぞれ美しく、それぞれ
何か語りかけてくる。
わたしは月を仰ぎ、月から目を離さず歩いた。
いい気分であった。
いろいろ考えねばならぬことや迷っていることも
あるのだが、すべてが消えてしまって、
生まれたばかりの心に戻る気がする。
月に励まされ、昨日よりも、今日よりも、
明日を思う気持ちにさせてくれる珠玉の言葉。
数々の名作を送り出された氏の言葉は、
味わい深い。
人には言えぬ様々な心の葛藤があり、それを
乗り越えてきたからこそではないかと思うのです。
『悠久の大自然の営みを前に人生など、
波しぶきのひとしずくにも過ぎまい。
そのひとしずくではあっても、いや、
ひとしずくであるがゆえに、
ひとは、短いおのが人生をわがものとして大切に過ごすほかはない』
(城山三郎)