『やり方の土台となるあり方』
「身についた能の、高い低いはしようがねえ、けれども、低かろうと、高かろうと、精いっぱい力いっぱい、ごまかしのない、嘘いつわりのない仕事をする、おらあ、それだけを守り本尊にしてやって来た」
何を行うにしても、大切なのは「やり方」の土台となる「あり方」ですね。
「あり方」とは、「どんな心構えで」「どんな思いで」 「何のために」というような心の状態。 「あり方」を忘れ「やり方」だけを求めるのは、その場しのぎに過ぎず、長い目で見れば上手くいかないもの。
「オテル・ドユ・ミクニ」の三國清三さん。フランス料理の第一人者で 「世界に知られる日本人シェフ」。三國さんは家庭の事情で高校に行けず、札幌で住み込みの丁稚生活をしていた頃、ハンバークにであいます。そして、札幌一のハンバーグを作りたいと、奇襲作戦で札幌グランドホテルに採用されます。
志高く料理の頂点を目指して、東京の帝国ホテルに志願。当時の総料理長は、村上信夫氏。
「ムッシュ村上」と呼ばれ、フランス料理界で日本一といわれた人物。神様・村上信夫氏を頼って、帝国ホテルにパートで勤めることに。
最初の日、村上総料理長から「皿でも洗ってもらおう」といわれます。三國さんにしてみれば、「俺は札幌グランドホテルで人気シェフだった」というプライドがありました。「その俺に鍋洗いをさせるとは、どういうことだ」とムカッとなったそうです。
しかし、「それなら三國の鍋洗いを見せてやろう」と思い直し、徹夜で鍋の取っ手のネジまではずし、キレイに磨き上げました。そして、翌朝その鍋を調理台の上に、並べておきました。
村上総料理長はそれを見て、三國さんに「きれいに洗えたね」といいますが、「今日は何をさせてもらいますか」 と聞く三國さんに、「そうだなあ、鍋でも洗ってもらおうか」と言います。
三國さんは、来る日も来る日も、各部署にある汚れた鍋を一つ一つ懸命に磨き上げました。
なんと、このあと2年もの間鍋洗いをし続けたそうです。もちろん心の中では悔しかったはずです。
しかし三國さんの偉いところは、そのとき「鍋洗いなんて」と手を抜くようなことはしなかったこと。「そんなこと言うのなら俺の鍋洗いを見せてやる」と、来る日も来る日も鍋をピカピカに磨き続けました。
ところがその頃、パートから社員への登用制度が廃止されてしまい、 夢も希望も失いどん底で、故郷に戻ることまで考えます。村上総料理長のところに行き、辞めさせてくださいと言おうかと思っていたある時、料理長から突然呼び出されます。
「来月から、スイスの日本大使館公邸の料理長をやってもらう」大変な抜擢でした。鍋洗いばかりしていた三國さんは帝国ホテルに来てからの2年間は、料理などそんなにやらされていません。しかも当時、まだ20歳。スイスの日本大使公邸の料理長といえば、各国の王室関係者、 首相、外務大臣などが訪れます。
そんなVIPたちの夕食会や、公式行事でどんな料理でもてなすかということは、本当に大事なこと。周囲の人は、猛反対します。「鍋洗いしかしていない三國をなんでそんなところ
に行かせるのか。他にもっと優秀な料理人がたくさんいるじゃないですか」
当時、帝国ホテルには優秀な料理人が600人以上いました。
技術は人格の上に成り立つものだから、あいつだったら間違いない」三國さんは日頃から、信念をもっていました。「料理道具がきれいでなければ、気持ちよく料理は作れない。 もちろんいい料理なんて作れないはず」
こうして、20歳のパートだった三國さんは、村上総料理長の推薦でスイスの日本大使館付き料理長となります。村上総料理長は、自身が小学五年生の時に両親が他界。苦労して18歳で憧れの帝国ホテルにたどり着き、そこで下積み生活を送ります。
「道が開けるきっかけは、鍋磨きだった・・・私は、休憩時間に磨き始めた。ほとんどが
「あか鍋」と呼ぶ、重い銅鍋だ。ブラシで一生懸命こすってもなかなか落ちないから、かなりの重労働になる。午後の休憩時間に休みたいのを我慢して、二カ月ほどかけて、各部署にある二百ぐらいの鍋をきれいにした」著書「帝国ホテル厨房物語」に書いています。
そんな自らの体験から、三國さんが与えられた仕事に全力で取り組む姿勢を、じっと見つめていたのです。「・・・私の修業時代を思い返してもそうだが、目の色を変え、汗だくで奮闘する若者には、目をかけてくれる人が必ずいる」
「人間の真価は棺を覆うた時、彼が何をなしたかではなくて、何をなそうとしたかで決まるのだ」山本周五郎の言葉を想い出します。心にしっかと留めながら、励んでいきたいものです。
「身についた能の、高い低いはしようがねえ、けれども、低かろうと、高かろうと、精いっぱい力いっぱい、ごまかしのない、嘘いつわりのない仕事をする、おらあ、それだけを守り本尊にしてやって来た」 (山本周五郎「ちゃん」)