『人生という砥石』
「たったひとりしかない自分を、たった一度しかない
一生を、ほんとうに生かさなかったら、人間は
生まれてきたかいがないじゃないか」
(山本有三「路傍の石」)
路傍の石とは、道端にころがっている石のように、
名も無くありきたりな存在という意味。
作者である山本有三は、栃木県下都賀郡栃木町に
呉服商の子として生まれました。
生家は貧しく、栃木高等小学校を8年間首席で
卒業しますが、15歳で東京浅草の呉服商へ
奉公に出されます。
しかし、辛さのあまり翌年生家に逃げ帰ったと
いいます。
家業を手伝いながらも学問への願いを断ち難く、
明治38年に上京し、苦学しながら19歳で東京
中学に編入しました。
翌年、第六高等学校に合格して、父親と喜んだ
のも束の間、その二ケ月後に父が亡くなります。
そのため入学を断念し、実家の呉服業をしながら
勉学を続けたといいます。
そして、第一高等学校、東京帝国大学独文科へ入学。
卒業後は劇作家として出発し、大正15年武蔵野市
吉祥寺に移転したころから小説も手がけ始め、
「生きとし生けるもの」、「波」で名声を得、その後も
「真実一路」などの名作を生み出します。
その作品には、「路傍の石」、「新編路傍の石」や
戯曲「米百俵」などがあり、逆境に耐えて光明を
求め成長する人間をよく描きました。
「路傍の石」に描かれた主人公の吾一少年は、志を
持って生きていった有三の少年時代が映し出されて
いるといわれています。
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<あらすじ>
愛川吾一は高等小学校で級長を勤めるほどの秀才で、
中学進学を強く望んでいた。
しかし、士族出の父親はプライドが高く、働きもしなければ
家族を顧みることもない、ならず者だった。
そのため家は貧しく、吾一が進学できる余裕はなかった。
そんな吾一に力を貸してくれたのが、教師の次野立夫
だった。
次野は慶応義塾出の書店の主人、黒川安吉に吾一のこと
を相談する。すると、黒川は匿名で学費を支払うことを
決心するのだ。
吾一は1番で中学へ入学すると大喜びする。
しかし、父親は、他人の施しで進学するなと吾一を
怒鳴りつける。仕方なく進学を断念し、呉服屋に奉公に
出る吾一。
仕事先での辛い日々に、さらに追い打ちをかけたのは、
母親の急死だった。
吾一は東京にいる父親に電報を打つが、彼は葬式にも
姿を見せない。
吾一は父親を訪ねてみようとある日、呉服屋から使い
に出たまま、東京行きの汽車に飛び乗った。
東京に着き、さっそく父親を尋ねたが、そこに父親の姿
はない。行く当てを失った吾一はやがて、印刷工場に
住み込み働くことになった。
半年後、吾一は偶然に工場へ来た次野と再会する。
次野は教師を辞め文学を志し、東京に住んでいたのだ。
その夜、吾一は意外な事実を知ることになる。
次野は吾一の学費にと黒川から渡された金を使い込んで
しまったというのだ。
号泣しながら詫びる次野に吾一は、金のことはもういい
と言い、次野が行かせてくれるという夜学に、再び
学問への夢を託すのだった。
「人間はな。人生という砥石で、ごしごしこすられなくちゃ、
光るようにならないんだ」(山本有三)