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『妙見信仰の歴史に触れる社』

2015.11.03 11:45

自転車で足を伸ばしての神社参拝。

今回は「柴崎神社」「天之御中主神」がご祭神。


私が日ごろお参りしている地元神「北星神社」

兄弟の間柄と言われており、一度お参りしたい

と思っていました。















こちらは我孫子市HPによると、かつては「妙見社」、

「北星社」とよばれていたのが、1880(明治13)年に

「柴崎神社」となったそうです。


「北星神社」と「柴崎神社」は同じように狛犬が亀に

なっている大変珍しい社。


妙見社系は道教と関係があり、千葉県には50社

ほどの妙見社があると聞きます。


古代中国の思想では、北極星(北辰)は天帝(天皇

大帝)と見なしていました。仏教思想との混交により

菩薩の名が加わり、「妙見菩薩」と称されました。

「妙見」とは「優れた視力」の意で、善悪や真理を

よく見通す者


七仏八菩薩所説大陀羅尼神呪経には「我れ、

北辰菩薩にして名づけて妙見という。今、神呪を

説きて諸の国土を擁護せんと欲す」とあります。

 















北斗七星や北極星
という自然が神の姿になった

妙見菩薩は、亀に乗って空を飛びまわり、 平良文

の子孫である千葉氏、相馬氏の一族が、守護神と

して祀ったそう。


妙見菩薩の乗り物が亀であったため、北星神社

狛犬だけではなく亀も一緒に神社を守っているそう

です。


境内の石彫の亀は、高松塚古墳壁画に見られた

北斗を示す玄武(蛇と亀を表す)の亀と同じときき

ます。


日本武尊や平将門が、この社で武運を祈願したと

いう伝承がありました。また「我孫子市総鎮守」とも

されています。 


平将門公は在京中、妙見菩薩に危難を救われた

ことから、御尊像を奉受し守り本尊として持ち帰った

と伝えられています。
















室町時代に書かれた「俵藤太物語」では、将門公

には影武者が六人おり、自身と合わせて七人で

あったといいます。


七という数字は、妙見信仰(北斗七星や北極星を

神仏とみなした妙見菩薩を祀る信仰)が本になって

いるそうです。


伝説によれば妙見菩薩は、公が武勇に長けていた

ため加護を与えていましたが、公が新皇を名乗る

ようになると神を恐れなくなったとして彼のもとを離れ

、公の養子になった良文(千葉氏の祖)を守るよう

になったとのこと。


中世の時代、「千葉氏」「相馬氏」や陸奥国の

「九戸氏」は、「妙見菩薩」を一族の守り神としました。















「九戸氏」の始まり
について、九戸神社伝「小笠原

系図」によれば、結城親朝の配下の総大将小笠原

政康の5代の孫小笠原右近将監政実が、九戸氏

始祖とあります。


天正19年(1591年)九戸政実が当主の代に、三戸

城での南部氏の正月参賀を拒絶し、5千人の兵力を

もって挙兵します。


精強な九戸軍と南部家中の日和見により九戸側が

当初は優位でしたが、南部信直の豊臣氏への働き

かけにより、九戸側を奥州仕置に反する行動と

みなした豊臣秀吉による10万の鎮圧軍が派遣されて

敗北、九戸氏は滅びました。















「千葉氏」
は、桓武天皇の孫にあたる平高望の五男

平良文の子孫。その孫・平忠常は房総半島を中心

とした一大反乱「長元の乱」を起こしたことで有名な

人物。


その子どもたちは罪を許されてのち、父が荒らした

房総半島を開墾し、武士団を形成していきます。

つまり「千葉氏」は、両総に栄えた両総平氏の一流。


下総に残って千葉介(千葉宗家)に従った一族、

下総を離れて別天地で栄えた一族、宗家と敵対した

一族など、様々な経緯をたどって時代を乗り越えて

いきます。

 

下総の千葉介は天正18(1590)年の小田原合戦で

滅亡し、奥州の相馬氏と美濃の東氏(遠藤氏)は

江戸時代になり、大名家に取り立てられました。


尚、著書「武士道」が有名な明治に現れた国際人、

新渡戸稲造


新渡戸家の家紋は、真向かい月に星という紋

千葉家の惣家家紋を遵守したもので、妙見信仰の

千年に至る積み重ねを思わされます。