Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

”人と自然を調和しながら『持続可能な未来』を共創する”

『西洋は論理、日本は道理』

2018.11.03 03:40

「江戸期まで日本には、個人という概念がなかった」と論じる、

橋本治さんの「浄瑠璃を読もう」が大変興味深い内容。


”つまり江戸時代では「独自」ということが許されなかったので、

何か新しいことを主張しようと思ったら、それが既定の考えに一致している

ことをことをしめさなければいけなかった。

それが「道理」にかなっているということなのである。”

(義経千本桜)

橋本さんによれば、日本人はいまだに「論理的に正しいか?」よりも、

「道理にかなっているか?」ということを重視する傾向がある。

江戸時代、武家階級は謡曲を、町人階級は浄瑠璃を素養として嗜んだといいます。
単なる娯楽とか教養ということではなく、生活のための必須事項であったのだそう。

 「浄瑠璃」というのはもともと仏教由来の言葉であり、人形と結びつく以前の

語りがあれば、そこにリズムが生じ、あるいは歌が生まれて

くる。

もしそこにメロディーが生まれてくれば、まず音楽は語りの側にあって

「道理にかなっているか?」ということにとらわれている


浄瑠璃はまず語るものでした。

伴奏のほうにはないことに。語る人間の声が最大の楽器となる。 

「語る」がどのようにして「音楽」になりうるのか? それは「祈りの声」

としてであるといいます。 

お経はメロディラインをもっていますね。そこから説教節も生まれます。
しかし、説教の繰り返しは人々からは飽きられるもの。

そこで「悲惨に見舞われる主人公のドラマ」「その主人公は実は神や仏の

別のかたちなのである」とする「本地」の形式をとる工夫された表現が生み

出されてきたそうです。

なるほど同じことを言うのでも、「何を言うのか」という論理より、

「誰が言うのか」という人物を優先して物事を聞く風潮が、日本人の多くに

あることの歴史的背景が何やらわかってきたような。


浄瑠璃
に限らず、歌舞伎文楽、雅楽、声明、など数多くある

日本の古典芸能から、様々に学べることが多くあるものと

深く興味を持ちました。