9月21日 石巻市→多賀城市(東北歴史博物館・多賀城址)→仙台市(64km)
昨晩は少し雨が降ったようだが、朝には止んで、どんよりとした曇り空が広がっている。
今日は、野良猫もくつろぐ道の駅「上品の郷」をあとにし、仙台方面に移動する。
まずは、高速道路で多賀城市に入り、「東北歴史博物館」を見学。
小学生の社会科見学バスツアーがやって来ていて、子供達に囲まれながら一緒に見学という格好となる。
近頃の博物館では、クイズ形式で問題を出していき、館内展示などから答えを導き出す形式をとっているところが多い。
いきおい子供達もクイズに熱中。競って解答を導き出そうとするが……。
歴史はただの暗記ものではない。A=Bの答えなど求めても意味がない。
どうしてそうなったのか、何がそうさせたのかを、じっくりと考える時間が必要なはず。
「歴史を鑑に」とは、よく言われる事だが、未来を担う子ども達には、どうか日を改め、たっぷり時間をとって、じっくりと考える時間を持って欲しいと切に願う。
さて、ここは歴史博物館ということで、宮城県を中心とした東北地方の歴史を、文物を通して古代から現代までを辿る展示となっている。
普段なら、土器や石器といった古代の展示は適当に流してしまうのだが、ここには随分と珍しい形の土偶や岩偶、埴輪があって興味深い。
例えば、北秋田市で出土した岩偶だが、これは「笑う岩偶」とも言われ、ユーモラスな表情が一度見たら本当に忘れられない。ここにあるのは複製だが、本物はフランスなどにも出展されたことがあるらしい。
埴輪「盾を持つ人」はデモ隊に対峙する機動隊のようだが、実は困ったような表情をしている。
仮面につけたと思われる耳や鼻、口の形をした装飾品は、今でも土産物になりそうだ。
「鼻曲がり仮面」などは、どのような美意識と意図で作られたのか気になる。これらの文物は多くが複製なのだが、どれも東北地方で出土されたもので、興味深い形体のものが揃っているので見応えがある。
この博物館で最も力を入れているのは、やはり「多賀城」に関する展示だろう。歴史の教科書にも必ず載っている多賀城は、8世紀から10世紀の約200年間、当時の中央政府が東北地方を支配するために建設した砦であり、行政と軍事の中心であった。
東北地方には、多賀城以外に城や柵と呼ばれた防衛拠点が10ヶ所以上あり、それらを統括したのが多賀城だった。
多賀城の行政システムについては、ある程度具体的なことが分かっている。行政官・武官は20名程度で結構少なかったとか、警護にあたる武士は500人ほどで、主に現在の福島県から調達されたが、旅費は自分もちだったので家族にとって大きな負担だったらしい。
中央政府から派遣された国司ら文官と武官は、ここを拠点にして東北の蝦夷(エミシ)を時に懐柔し、時に武力で鎮圧した。支配が強まる毎に大小の反乱を招き、最終的には有名な坂上田村麻呂による武力制圧ということになる。
この博物館では、「なぜ時の政府が東北支配に固執したのか」という点は見えてこない。ネットで調べてみると、749年に金鉱脈が東北で見つかり、以降近隣で発見が相次いだということが、大きな要因としてあげられている。次に、あげられるのが、時の治世者・桓武天皇の支配地域拡大という政治方針。これにより、大和朝廷による東北支配は強化されていったのであった。
残念ながらこの構図、いつの時代も変わらない。「歴史を鑑に」ではなく、「歴史は繰り返される」か。
また、神仏を一文字で表す「梵字」が彫られた板碑と呼ばれる石碑の複製も展示されている。
そのうちの一つは名取熊野三山にある板碑だが、東北地方では「熊野信仰」が昔から盛んであり、全国に3000以上ある熊野神社のうち、約4分の1は東北地方にあるという。
その他、祭祀や稲作などに用いられた藁人形の展示も見応えがあった。
東北地方の歴史と民俗を文物で楽しめる博物館になっていた。
雨がぱらついていたが、博物館からほど近い「多賀城址」を見に行く。
約1km四方の範囲に、政庁跡や掘立式の建物跡、
門や石敷道路の跡などが残っており、
草地の丘からは多賀城市街が遠く望めた。
そうこうしているうちに雨足も強くなり、陽も陰ってきたので、暗くならないうちに仙台市に移動する。
市内には道の駅が無いので、「竜泉寺の湯」仙台泉店で入浴し、夜が明けるまで駐車場で時間を潰す。