『心に「永遠」の浸潤を受ける』
「一日示に云く、古人云く、霧の中を行けば
覚えざるに衣しめる。よき人に近づけば、
覚えざるによき人となるなり。
昔、倶胝和尚に使へし一人の童子のごとは、
いつ学びし、いつ修したりとも見えず、
覚えざれども、久参に近づいしに悟道す。」
”薄い霧の中を歩いていくうちに、
いつのまにか衣は水気を含んで、
気がつくとじっくりと湿っている”
永平寺二代目の孤雲懐奘禅師が、
師である道元禅師の言葉を記した『正法眼蔵
随聞記』にある言葉です。
安岡正篤師は、まさしくこの近づきたい「よき人」
であったと、神渡良平先生(作家)は『安岡正篤の
風韻――喜神を含む生き方』(同文舘出版)の出版
記にかつて書かれました。此処に引用させて頂き
ます。
”私は五月、『安岡正篤の風韻――喜神を含む
生き方』(同文舘出版)を出版した。風韻とは現代
ではもう死語になった感があるが、「枯れた人柄」
というほどの意味である。
安岡正篤が逝去したのは昭和五十八(一九八三)年
十二月十三日のことだから、もう二十七年にもなる。
それでも大手書店には安岡本のコーナーがあり、
道を問う人々が安岡の本を求め、深く得心している。
そこで私は現代においてもなお人々を惹きつけて
やまない安岡の魅力はどこにあるのかを明らかに
しようとして本書を書いた。
私はその理由の一つを「薫習」という言葉で表現した。
お香を焚くとその香りがいつの間にか衣服にしみつく
ように、優れた人の側にいると、知らず知らずのうち
に立ち居振る舞いが謙虚になり、人物ができてくる
ことをいう。
そのことを道元は霧という比喩を用いて説明している。
「霧の中を行けば、覚えざるに衣湿る。
よき人に近づけば、よき人になるなり」
側にいたいのだ。側にいるだけで心が休まり、生きる
力を得るのだ。安岡はそういう人だったから、多くの
人々は彼が主宰する会に出、著書を読みして、切磋
琢磨して人格を磨いたのだ。
照隅会(神渡先生の勉強会)をお世話させていただける
ことの有難さをつくづく噛みしめます。