『善をなす泉は心のうちにある』
「内面を掘り下げよ。泉は心のうちにある。
おまえがたえず掘り下げるなら、つねに
ほとばしる力を持ち、しかも善をなす泉が。」
マルクス・アウレリウス・アントニヌス(古代
ローマの皇帝で、哲人皇帝と呼ばれた)の
言葉です。
軍事よりも学問を好んだアウレリウスは、
ストア哲学などの学識に長け、良く国を治めた
事からネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、
アントニヌスに並ぶ皇帝(五賢帝)と評され
ました。
対外政策ではパルティアとの戦争に勝利を
収めましたが、蛮族への予防戦争として始めた
マルコマンニ人、クアディ人、サルマティア人など
への遠征(マルコマンニ戦争)は長期戦となり
、国力を疲弊させて自らも陣中で没しています。
ストア哲学は、ヘレニズム時代の前3世紀に
アテネで活動した哲学者ゼノンに始まる学派。
ゼノンはアテネのアゴラに面するストア(列柱)
の下において哲学を講じたので、ストア派の名称
が起こりました。
ゼノンは、理性(ロゴス)によって感情(パトス)
を制して、不動心(アパティア)に達することを
理想とし、確固たる自己の確立をめざしたと
いいます。
そのことから、ストア派は禁欲主義と言われ、英語
で禁欲的というのを stoic というのは、このストア派
からきているもの。
ストア学派の教説では、「自然と合致して生きる」と
いうことが標語として言われ、「不動心」がその骨幹
とされています。
小澤克彦氏(岐阜大学・名誉教授)によれば、
ストア学派での「自然」とは以下のようなものです。
”ここでの「自然」とは人間も含めあらゆる天地・自然
を支配している「宇宙的摂理」と理解しておいて良い
でしょう。そして、これは人間においては「理性」に
おいて見られ、あるいは人生に現れた時には「運命」
と理解しておいていいです。
ですから、「人間は理性において生き、あらゆる運命
を宇宙的に定められているもの、永遠に自分に定め
られているもの」として受け止めて生きていくべき、と
なります。
「不動心」というのは、「自然に反する形で感情や欲
望、幻想や不安、等々」が起きるのが人間ではある
けれど、それに「惑わされない心のあり方」を意味し、
また、何が起ころうとそれは「自分に定められている
もの」なのだからとして「何事もそのものとして受け止
める心のあり方」となります。”
そして、この精神をより明確にしたのがゼノンを継いだ
弟子たちであり、その系統の中にアウレリウスがいました。
アウレリウスの主著 「自省録」は、陣中にあって書き
付けていた彼の「心の日記」と言えるもので、ギリシャ
語原語では『自分自身に向けて』という直訳です。
その心中で繰り返していたこと、それは”「人生は一瞬」
に過ぎない。人のありようは「流れ行き」、その「感覚は
鈍く」、その「肉体は腐りやすく」、「人の心(魂)は
渦を巻き」、その「運命は分からず」、「すべては夢・幻」
のごときである。
人生とは「戦い」であり、あるいは「(永遠に続く)旅
の一時の宿り」でしかない。死後の名声など「忘却」に
過ぎない。そんな我々を導くことができるのは何か。
それはただ一つ「哲学(人としての優れを追い求めて
生きること)」だけである、ということになります。”
(小澤克彦氏)
そしてアウレリウスは、次の言葉も遺しています。
「宇宙はただ一つの物質と、ただ一つの魂を有する
一つの生きものとしてつねに考えよ」
”宇宙は一つの生きもので、一つの物質と魂を備えた
ものである、ということに絶えず思いをひそめよ。
またいかにすべてが宇宙のただ一つの感性に帰するか、
いかに宇宙がすべてをただ一つの衝動から行うか、
いかにすべてがすべて生起することの共通の原因と
なるか、またいかにすべてのものが共に組み合わされ、
織り合わされているか、こういうことを常に思い浮かべよ。”
人間はその中に「強さ」と「弱さ」を共存させており、人間
としての徳を追い求める先に、「宇宙的な摂理」の中にある
ことを自覚し、人間的感情や欲望を克服して、「何者にも
動じない不動心」への到達を目指していくのがよいとした
アウレリウスの生き方に深い関心を持ちます。