『熊野と名取の深い縁』
熊野と名取の深い縁。
東日本大震災で大きな被害が出た宮城県名取市。
この地にゆかりの深い能の演目「名取ノ老女」が、
国立能楽堂で上演され、復興への祈りを込めた能
が披露されたそうです。
「...この公演を復興の支援に繋げたいという気持ち
はありますが、自分は無力です。能で、被災した皆様
の生活が元に戻る訳でもなく、起きた悲しみが完全に
癒せる訳でもありません。
ただ、観る方々の心の中に、この公演を通じて深く
3.11ヘの思いが刻まれるということが、この作品
の果たす役割であるように思います。
現地を訪れた経験はもちろん影響しますが、その時の
自分の感情を人に押し付けないということを心掛け、
能楽というもののスタイルで、広く、お客様ひとりひとりに
感想をお持ち帰りいただければと思います」
(宝生和英「出演者のことば」公演パンフレット)
能「名取ノ老女」(別名「護法(ごおう)」「名取嫗(なとり
おうな)」)は、能楽を大成した世阿弥の甥の音阿弥が
、寛正5年(1464年)に上演した記録のある古い能。
東北地方に広く分布した熊野信仰を背景に、熊野権現
の神詠譚と名取の地に熊野三山を勧請した名取老女
の説話を基に作られているもの。
東北地方には熊野信仰が広く伝わっており、全国の熊野
神社の4分の1にあたる736社がこの地方にあるそうです。
熊野信仰とは、紀伊半島にある熊野三山(熊野本宮
大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)を中心とする
信仰のこと。
その起源は、熊野三山各社に根差したルーツの異なる
自然神信仰であったとされ、縄文人に信仰された自然神
の信仰を基調とする原始神道が始まりだとされています。
熊野本宮大社は樹木崇拝、熊野速玉大社は巨石崇拝
、熊野那智大社は滝崇拝。
弥生人が信仰する先祖神信仰が流入すると、日本神話
の神々が熊野三山のそれぞれに割り当てられました。
その後、自然神信仰と密教の習合である修験道が熊野
に入り、熊野信仰となります。
私は今から30年ほど前に熊野三山を旅しましたが、その時
に感じた、異界の中にある原始の色濃い自然の様は、
現在でも身体感覚に残っているほどです。
原生林の中にそびえ立つ樹齢数百年以上の巨木群、
目が眩む高さより地を震わす轟音と共に落下する巨滝、
天高くある巨岩。古代の人々が、さぞかし畏怖の感情を
抱いてこれを敬したであろうことがよくわかりました。
”熊野は黄泉の国の入口。他界の聖地。神武東征で
熊野を迂回したのは、弱体化した魂を更新する鎮魂祭
の由来を語るにふさわしい地であった。
神武は常世への通い路である熊野の海辺で仮死状態
から神霊と交感し、神剣の呪力で再生するという入信
儀礼、復活儀礼を経て、建国者として太陽を背に大和
国に来臨した。熊野はその聖者の再生の場にふさわしい
環境信仰があった。 ”
(「熊野・八咫烏」山本殖生著)
さて、東北の熊野信仰の中心的存在、名取熊野三社
(新宮、本宮、那智)の勧請について、「名取老女」の
物語は、昔から地元に伝承されてきたといいます。
伝承によれば、”鳥羽院のころ、名取老女とよばれ紀伊の
熊野権現をあつく信仰している老女がいた。
熊野三山の山伏が陸奥行脚の暇乞いのため熊野本宮
に通夜したところ、名取の里に住む老巫女に神託を届ける
よう霊夢を蒙ります。
陸奥国の名取の地に一人の巫女がおり、深く熊野権現を
信仰し、毎年紀州熊野に参詣していたが、年老い、参詣
できなくなったので付近に小さな熊野三社を建ててお参り
していた。
紀州熊野権現のお告げにより、この山伏は一葉の梛の葉
を携え老女を訪れます。
葉には虫が喰ったような跡があり、それをたどると
「道遠し年もいつしか老いにけり 思いおこせよ我も忘れじ」
という和歌が書いてありました。
その和歌を旅の山伏が老女に見せたところ、感激して涙を
流します。これまでの老女の信心深い行いからその徳が
広がり、保安年間に今の熊野堂と吉田に熊野三社を勧請
したといいます。”
(名取市教育委員会「名取の文化財ハンドブック」)
国立能楽堂の舞台では、老女役を能の主役に当たる
シテ方で人間国宝の梅若玄祥さんが務め、ひたすらに
神に祈りをささげる老女の姿をゆったりとした舞いなどで
演じたといいます。
また、今回は本来の台本にはない老女に寄り添う孫娘の
役で子どもが舞台に上がる演出がされていて、神の祝福が
、世代を超えて受け継がれてほしいという願いが込められて
いるということです。
前職時代、お世話になった名取に住む方の健勝を祈りながら
いつかこの能を見てみたいと思いました。