『アートは創造、価値を決めるのは時間』
現代九谷焼の彩りに新しい感覚を吹き込んだ「耀彩」。
耀彩とは「光り輝く色という意味」。
多彩な釉薬を重ね合わせることで、段階的に色彩を
変化させ、色が作り出す模様が表現する新しい概念。
この「耀彩」を生み出したのが、三代徳田八十吉氏。
耀彩の色彩は、焼成温度によっても微妙に変化する。
ふつう上絵窯では焼成温度は700から800℃までと
いわれる中、徳田氏は1000℃を超える高温で焼くことで釉薬を溶かし、混ざり合わすことで耀彩を創り出し
ました。
古九谷は、江戸時代初に焼かれた初期九谷焼。
光り輝く透き通った色調は、計算しつくされた多彩な
彩色をした上に、千度以上の高温で焼くことにより
初めてできるもの。
加賀古九谷の中の青手古久谷は、赤を使わず
青・黄・紫・紺青の4彩を用い、特に輝くような翠が
好んで使われました。
古に埋もれていたこの技法は、九谷焼を志す者の
多くがその色を再現しようと長年努力してきたのです
が、難しいものでした。
(写真:石川県九谷焼美術館)
明治時代、初代八十吉は、誰も再現することの
できなかった古九谷の五彩を再現することに成功。
優れた九谷焼の技術が認められて、無形文化財に
指定されます。
釉薬の調合は秘伝。天秤秤で1/100gの誤差も
ないように計り、調合。顔料の組み合わせや、調合
の量により、様々な緑色の釉薬を作る。
そして初代は、秘伝の色を全て伝えぬまま他界。
初代が口癖のように言った、「色のことは誰にも
言うめえぞ」という言葉。色の調合の秘伝こそが、
九谷焼の全て。
昭和31年初代が亡くなる半年前、三代は病床の
初代から色の秘伝を教わります。当時三代は
若干22歳。
半年という期間は、あまりにも短く12通りの調合を
学ぶだけに終わりました。
九谷焼にはもっと多く色がある。しかし、それを学び
きる前に初代を亡くし、三代は途方に暮れます。
ある日仏壇の前で、お経をあげていた時に目に入った
「帰命尽十方無碍光如来」。
「どこかで聞いたことがある」と三代は思います。
そして初代が残した数冊の手帳の中に、暗号のよう
に残された文字に思い当たりました。
誰にもわからないように、10文字ある経のそれぞれ
の字の1部を使って、1~10の文字を表していたの
です。教わった12色の色を数字に当てはめていき、
ついには100色以上あった初代の色を全て解き
明かすことに成功。
その時から三代は、九谷焼製作を運命として受け
入れ、製作に命をかけるようになったといいます。
しかし、三代八十吉は、九谷焼の技術で最高の
ものをもつ祖父、初代八十吉との比較対象に
苦しみました。
九谷をやっている限り祖父の知識、技術と比較
され続けます。ある時、祖父の親しい友人で
あった、洋画家中村研一氏からこう言われました。
「九谷のど真ん中にいて、毎日のように九谷を
見ている。
それでいて九谷を作りたくないというのは、九谷を
作っていく素質をもっている。
だから自分の作りたい九谷を作ってみればいい。」
三代目八十吉として、自分の九谷を作る決心を
固めた時だといいます。
(写真:サントリー美術館)
そして、辿り着いた伝統の概念は、これまでの
九谷の精神を受け継ぎながら、自分らしい新しい
ものを作っていくというものでした。
そして宝石の澄んだ色と輝きに魅せられ、古九谷
の色を使って宝石を表現したいと考えるように
なります。
成分を微調整した数十種類もの色釉を用い、
グラデーションを創造。乱反射を防ぐ磨きの工程を
丁寧に行い、輝くような光彩を生み出しました。
しかし、発表当時は作品を否定する声も聞かれた
といいます。
「こんなものは九谷焼じゃないといわれましたよ。
しかし、色絵に秀でた窯に生まれたからには、
形ではなく、色彩の新しい表現を追求したかった。
30歳を過ぎた頃から、まわりの反応は変化して
きました。」
耀彩は九谷焼の新しい技法として認められ、高い
評価を受けるようになります。
「新しいことをやれとはいわない。好きなことをやれば
いい。アートは創造、その価値を決めるのは時間だ。」
三代八十吉は2009年に亡くなりましたが、この言葉は
モノづくりに携わる人々に大きな勇気を与えています。
(参考:九谷焼をめぐるとっておきの旅)