『朝夕の草花に露がつく季節』
「白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける」
(文屋朝康)
二十四節気の「白露」、「小倉百人一首」収録のこの歌を想い出しました。
(葉の上に降りた美しい白露に、しきりと風が吹きすさぶ秋の野。
風で散ってゆく白露はまるで一本の糸で貫き止まっていない玉を、
この秋の野に散りばめたようだなあ)
朝夕の草花に露がつき、草に降りた露が白く光って見える様に、秋の到来を感じられる頃。
”古来日本は、季節の微かな移ろいを敏感に拾い上げて、その予感を
歌に詠む「迎へ詠み」を風流としてきました。
現代に至っても人々は日常的に気候の挨拶を交わします。諸外国にも鮮やかな四季の変化はありますが、日本人は農耕民族ならでは
の文化的アイデンティティとして四季を強く意識しています。
冬と夏というそれぞれ過酷な両極の気候からの解放を肌で感じ取る
喜びゆえか、和歌や俳句に詠まれる季節としては、春と秋が圧倒的に多い。特に秋は、夏の高温多湿から解放され、豊かな実りや音楽、衣替えなど、
最も五感を使う感覚的な季節。
命が燃える炎のような夏のあとに、次第に枯れ衰え、眠りにつく季節たる
秋が来る。
儚さを意識するから、人恋しさも募ります。それで秋には手紙を書きたくなったり、旧知の友人に会って食事をしたり、行楽や旅を堪能したりする
のかもしれません。”
”飯田蛇笏の代表句。「くろがねの秋の風鈴鳴りにけり」(昭和八年作)。
釣り忘れた鉄器の風鈴は重厚な音色を奏で、あたりに残響をたなびかせている。
堂々と「鳴りにけり」、というからには遠慮もいらない。
夏の季語「風鈴」と「秋」がぶつかる中七(なかしち)で一句が勢いづき、
存在を刻む一種の確信へと向かうようである。
読むことの力 (講談社選書メチエ) [単行本(ソフトカバー)]
講談社2004-03-11
バブルの頃、わたくしの近所に一軒だけ地上げ屋の甘言に耳を貸さず
「空気を読まない」ことで有名になった喫茶店があった。
蛇笏の「くろがねの」句を読むと、店主の一徹な表情が浮かび上がってくる。蛇笏は男っぽい感触で、消えそうで消えない小さな命の強(したた)かさ
を謳い上げた名句を他にもたくさん残している。
「高浪にかくるる秋のつばめかな」(昭和一七年作)。
海辺からの眺望だろうか、寄せる大波の上をすれすれに飛ぶ
一羽の燕がいる。
うねりに呑み込まれたか、と心配そうに見ていると波乗りのようにひょこっと現れ、また消えていく。
見る人間の一瞬の印象、あるいは錯覚であり、秋の燕はただ自然の
リズムに従って獲物を一心に求めているに過ぎない。
「かくるる」意志は燕にはない。
蛇笏が編み出した写生句には潔い意外性がある。
「白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」
(明治四一年発表)ーと比べると、蛇笏の燕は喜怒哀楽がなく、
無心であることが分かる。
動物と風物に心を投影しない代わりに、人間の感覚器官に
「見える」ことと「聞こえる」ことが直接伝わり、不思議な
喜びやざわめき、命の実感を味わわせてくれるのが蛇笏句の
醍醐味だとわたくしは思う。」
キャンベル氏。アイルランド系米国人とのことで、アイルランド
の血を継ぎ明治初期の日本をこよなく愛した小泉八雲とのつながり
を想います。
『自分の幸せを祈るかのように、誰もが微笑みかけてくれる国』
ラフカディオ・ハーン KADOKAWA/角川書店 2000-09-18
小泉 八雲 講談社 1990-08-06