枯れない木
2018年9月16日
森下滋伝道師
詩篇1編1-6節
神に逆らう者の道は滅びに至る。
この言葉は私達の信仰の中心であるが、
日常的に罪の中にいる私達には恐怖の言葉でもある。
旧約聖書が語る神は私達を祝福するが罪を裁く神である。
詩編全体の構成は1編1節の「いかに幸いな事か」という祝福から始まり、
150編6節の「ハレルヤ」という神賛美で閉じられる。
祝福された者はいかなる歩みの中でも神賛美に至るという事が詩編全体の主題である。
この構造は1編にも反映されている。
祝福された者は自らの意思をもって悪に加わらなかった。
この意志は神が与えて下さった。
そして彼は主の教えを愛し、
獅子が喉をグルグル鳴らすように、いつもそれを口ずさむ。
これもまた主が与えて下さった自由な意思である。
3節で彼は一本の木として描かれている。
この木はわざわざ誰かにより水路のほとりに移植されたのである。
良い水を得て時が来ると実を結び決して枯れない木。
誰が何のためにこの木を移植したのか。
神が神の息を送ると神に逆らう者は籾殻のように無力にされる。
神に反逆しようにも神の前に立つ力が取り去られてしまう。
そして裁きに耐えられない。
神に従う者の集いにも耐えられない。
しかし神を知る者の道は神が守られる。
誰がこの木を移植したのか。以前はどこにあったのか。
それは神に逆らう者の集いの中に生えていた。
罪ある者の道の真ん中に、傲慢な者と共に座る座に生えていた。
主イエスは十字架で自らの血を流しそして復活して私達の罪をすべて赦して下さった。
彼が自分の命と引き換えに私達を悪のただ中から根こそぎ引っこ抜いて下さった。
それ故に私達はもはや罪の只中に戻る事はない。
しかし、「十字架の言葉は滅んでゆく者には愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(ガラ1:18)とあるように、
自分を神より高ぶらせる者にはこの十字架の言葉は理解出来ないのである。
死から生へ、
祝福から神賛美へと至る神の働きはこの世の原理とは真反対に作用する。
これを信じる事が全ての出発点である。
主の教えを愛し口ずさむ者はいつまでも枯れない木とされるのである。