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虚子の亡霊

2024.10.07 11:34

https://ameblo.jp/yahantei/entry-10056169487.html 【虚子の亡霊(五)】より

(平成元年~八年)その五「ホトトギスと山口誓子」

「ホトトギス 百年史」 

http://www.hototogisu.co.jp/

平成六年(1994) 三月 山口誓子没。

(メモ)いわゆる「「四S」の俳人のうち、阿波野青畝(せいほ)、水原秋桜子(しゅおうし)そして高野素十(すじゅう)の三人については、先に触れた。

阿波野青畝

http://yahantei.blogspot.com/2007/11/blog-post.html

水原秋桜子

http://yahantei.blogspot.com/2007/10/blog-post_08.html

高野素十

http://yahantei.blogspot.com/2007/10/blog-post.html

残り、もう一人の、山口誓子については、どうにも、虚子以上に、いわば、「誓子の実像と虚像」とが肥大化して、なかなか、その正体がつかめないのである。その誓子が、平成六年に、その九十三年の生涯を閉じた。そして、『よみもの ホトトギス百年史』によると、汀子が中心になって設立された、「日本伝統俳句協会」の顧問を、青畝と共に引受けて、その一翼を担っていたという。素十と青畝とは、虚子、そして、「ホトトギス」との絆は強く、素十亡きあと、青畝がその一翼を担うことはよく理解できるところであるが、「ホトトギス」と一定の距離を置いていた、新興俳句の延長線上にある「根源俳句」の牙城の「天狼」の主宰者の誓子が、汀子の「日本伝統俳句協会」の顧問要請を引受けていたということについては、誓子の不可解さを倍増するようにも思えたのである。この、昭和六十二年の、汀子の「日本伝統俳句協会」の設立については、『よみもの ホトトギス百年史』によると、実に、ドラマチックなのであるが、後で、触れることとして、誓子は、無季俳句派とは常に一線を画し、有季定型派の総帥でもあり、その一点においては、汀子、そして、その「ホトトギス」俳句とは同じ土俵上にあったということはいえるであろう。しかし、「俳句は極楽の文学(文芸)」とする「ホトトギス」俳句と「近代芸術としての俳句の確立」をめざしている「天狼」俳句とは、最も相反する位置にあり、汀子が誓子の「天狼」俳句を認めることは、「ホトトギス」俳句の土台をも揺るがし兼ねないものを含んでいるのである。ここらへんのところを、

下記の快心のレポート「誓子の使命―「天狼」創刊とそれ以降―」によって、汀子周辺も亡き誓子周辺も、じっくりと、今後の「有季定型」俳句の行方を検証して欲しいと願うのである。

http://homepage2.nifty.com/karakkaze/seishinosimei.html

誓子の使命―「天狼」創刊とそれ以降―

(「俳壇」2001年11月号・特集「生誕百年 山口誓子俳句との戦い」)

 昭和二十三年(一九四八)一月の「天狼」創刊から晩年までの大きな範囲の中で山口誓子を論じよ、というのが私に与えられた課題である。「天狼」創刊時の誓子は四十七歳、そして九十三歳の長寿を全うして世を去ったのが平成六年(一九九四)のことであるから、ほぼ半世紀にわたろうかという長い歳月が、その間に流れていることになる。句集も『青女』(昭和二十六年)、『和服』(昭和三十年)、『構橋』『方位』『青銅』(ともに昭和四十二年)、『一隅』(昭和五十一年)、『不動』(昭和五十二年)、『雪嶽』(昭和五十九年)、『紅日』(平成三年)の九冊が生前に、『大洋』(平成六年)が没後間もなく刊行されている。これだけでも膨大な句業であり、限られた紙幅では容易に論じ得ないが、少なくとも誓子の後半生における最大のピークである「天狼」創刊と「根源俳句」の展開については、できる限り述べたいと思う。

 「天狼」創刊と根源俳句、及び句集『青女』『和服』

 第一句集『凍港』(昭和七年)を皮切りに、表現領域の拡大に対する果敢な試みを立て続けに展開し、それによってまったく新しい近代的抒情を俳句にもたらした誓子であるが、それらの仕事を生涯における第一のピークとすれば、「天狼」創刊と「根源俳句」の展開は、その第二のピークと位置づけることができるであろう。

 そこで、順序としてその前後の俳壇状況をざっと見ておきたいと思うが、まずは昭和二十一年に桑原武夫が発表した「第二芸術ー現代俳句について」(「世界」十一月号)をきっかけとした、いわゆる「第二芸術」ショックを挙げておかねばならない。これに対し誓子は、翌二十二年一月六日付の「大阪毎日新聞」に「桑原武夫氏へ」と題した一文を寄せ、俳人側から最初の反論をおこなっているが、さらに同年の「現代俳句」四月号に「俳句の命脈」を執筆、全人格をかけてこれに応えるという態度をいち早く鮮明にしたのであった。

 俳句は回顧に生きるよりも近代芸術として刻々新しく生きなければならぬ。

(「桑原武夫氏へ」)

 現代俳句の詠ひ得ることはせいぜい現実の新しさによつて支へられた人間の新しさ、個性の新しさであらう。「問題」の近代ではなく、「人間」の近代であらう。しかし、「人間」の近代が詠へたとすれば立派な近代芸術ではないか。(「俳句の命脈」)

 これらの主張には、近代芸術としての俳句の確立を目指す誓子の使命感にも似た思いが感じられるが、反面、〈俳句の近代化を急ぎ過ぎている〉のではないか、という印象もなしとしない。この点については賛否の分かれるところだろうが、いずれにせよ、こうした思いがやがて「俳句を俳句たらしめる〈根源〉とは何か」という問題意識へとつながり、その実作の場としての「天狼」を生み出す要因となったであろうことは想像に難くない。

 私は現下の俳句雑誌に、「酷烈なる俳句精神」乏しく、「鬱然たる俳壇的権威」なきを嘆ずるが故に、それ等欠くるところを「天狼」に備へしめようと思ふ。そは先ず、同人の作品を以て実現せられねばならない。詩友の多くは、人生に労苦し齢を重ぬるとともに、俳句のきびしさ、俳句の深まりが、何を根源とし、如何にして現るゝかを体得した。(「出発の言葉」)

 あまりにも名高い「天狼」創刊の辞であるが、これを契機にして、以後六年ほどの間に、「根源俳句」をめぐり様々な形での批判と共感が展開されたのであった。しかしながら、実際には根源俳句に対する考え方は「天狼」内部においてさえまちまちであり、その結果、それが俳句理念として一つにまとめ上げられるということにはならなかった。だいいち、当の誓子の発言自体が「酷烈なる俳句精神」の昂揚を第一義としたものであり、〈根源〉については何ら具体的な言及がなされていないのである。ここでいささか想像をたくましくすれば、創刊号の冒頭から誓子に「詩友の多くは、人生に労苦し齢を重ぬるとともに、俳句のきびしさ、俳句の深まりが、何を根源とし、如何にして現るゝかを体得した」と断定された以上、「天狼」の作家達は皆、嫌でも「俳句のきびしさ、俳句の深まり」をもたらす〈根源〉について考えをめぐらし、さらに実作においてそれを示すことが緊急の課題となったことであろう。そして、西東三鬼にしろ平畑静塔にしろ永田耕衣にしろ、それぞれがそれぞれの方法で、誓子から突き付けられたこの要求に応えたのであった…と言うより、応えざるを得なかったのである。つまり、〈根源〉とはそもそも理念としての統一を目指すものではなく、むしろ個々の作家の俳句認識や方法意識の覚醒をうながす方向で機能するであろうことを見越して誓子が仕掛けた、一種の〈挑発〉であったのではないか。抜群の知性をもって知られる誓子だが、俳句革新においてここぞと言うときに見せる強力なリーダーシップは、むしろ豪腕と言うべきものである。そして、おそらくそうした一気呵成のやり方が、ときに〈急ぎ過ぎ〉という印象をも与えるのであろう。が、急がなければ俳句の近代化は到底なし得なかったであろうし、また実際、誓子は確かに俳句の近代化を成し遂げたのである。

 私(誓子)の方でいふ根源―正体の判らないものですが―その根源と結びついたとき、はじめて季題といふものが、本当の機能を発揮する。だから季題はその根源へ通ずる門として意味がある。

 私は季題にもたれるのぢやないので、根源と結びつけて、季題をもう一度締めてかからうといふんです。

 これらは、根源俳句についての諸説があらかた出揃った昭和二十九年の「俳句」二月号に掲載された座談会「苦楽園に集ひて」の中で、誓子が発言したもの。〈根源〉へと到る門として季題・季語が有する機能を、もう一度洗い直そうということであるが、しからばその先にある〈根源〉とは何かを、誓子自身はどう考えていたか。先述のごとく、〈根源〉がはじめから理念としての統一を目指すものではなかったとしても、「正体の判らないもの」という解答では余りにも不十分である。誓子は、のちに「すべての物がすつと入つてくるやうに開かれた無我、無心の状態が、根源の状態」(「飛躍法」昭和四十五年)と述べており、これは物の本質、あるいは物の存在そのものをじかにとらえるということになろうかと思うが、取り敢えず、ここら辺に誓子の根源観の一端はうかがえよう。そして、こうした根源観に基づいて生み出された作品を、我々は句集『青女』(昭和二十六年)、『和服』(昭和三十年)によって読むことができる。

 氷結の上上雪の降り積もる    『青女』

 悲しさの極みに誰か枯木折る   『同』

 蟷螂の眼の中までも枯れ尽くす  『和服』

 頭なき鰤が路上に血を流す     『同』

 掲出句のみならず、下五を動詞の終止形として鮮烈なイメージを喚起するのは、初期作品から一貫する誓子の最も特徴的な方法の一つである。非情とも思える犀利な眼をもって、対象の極限的な姿にまで迫ろうとする姿勢はここでも堅持され、その限りにおいては、確かに〈季題にもたれ〉てはいないと見なすこともできるだろう。また、〈根源〉とは何かという問題提起が、季題・季語とのせめぎ合いをもたらしたという意味で、誓子自身にとっても有益なものであったと言えるであろう。いずれにせよ、以上の点から『青女』『和服』の二句集は、近代俳句のパイオニアとしての誓子の、後半生における最大のモニュメントであったと思われる。

 『構橋』から『大洋』まで

 『和服』刊行後しばらくの間、誓子は句集をまとめることをしなかった。その理由は詳らかにしないが、あるいは『青女』『和服』によってもたらされたピークを超克するための、葛藤と模索の期間であったかもしれない。しかし、その一方で作品そのものは自己模倣が目立ちはじめ、急速に光彩を失っていったという見方をする評者が多くなってゆくのも、また事実である。例えば、飯島晴子は「俳壇」平成七年四月号の「山口誓子没後一年特集」で、次のように述べている。「私も『凍港』に始まって、『黄旗』『炎昼』『七曜』『激浪』『遠星』『晩刻』『青女』『和服』それからせいぜい昭和三十五年の〈永き日を千の手載せる握る垂らす〉(『青銅』)までぐらいで、以後はついてゆけないシンパの一人である」「山口誓子は晩年の三十年ほどを差し引いても、充分すぎるくらい大きい足跡を近代俳句に残している」(「山口誓子の遺業」)一流一派に偏しないすぐれた評論の書き手であった飯島でさえ、誓子晩年の三十年はほとんど評価対象外といった趣である。ともあれ、当代随一の大家として周囲から手厚く遇され、俳句革新を急ぐ必要がなくなったとき、近代俳句のパイオニアとしての誓子の役割は確かに終わったのであり、それに対するある種の失望感が、おそらく晩年の誓子作品に向けた飯島のような否定的見解を生む一因となっているのだろう。

 沖までの途中に春の月懸る       『構橋』

 冬河に新聞全紙浸り浮く        『方位』

 熊の子が飼はれて鉄の鎖舐む      『一隅』

 長袋先の反りたるスキー容れ      『不動』

 峯雲の贅肉ロダンなら削る        『雪嶽』

 霧に透き依然高城姫路城        『紅日』

 大枯野日本の夜は真暗闇        『大洋』

 だがしかし、こうした一連の作品を見るとき、誓子の知性的構成力そのものはいっこうに衰えていないという思いが強い。どうやら誓子は、必ずしも飯島の言う「労(ねぎら)いの晩年」を過ごしていたわけではなかったようだ。それどころか、俳句革新の機があれば進んで身を投じたかもしれないとさえ思えるのだが、残念なことに泰平の惰眠に慣れきった俳句界からは、もはや革新への機運など生ずるべくもなかったのである。

* 『山口誓子全集』(明治書院)をテキストとした。

https://ameblo.jp/yahantei/entry-10079221734.html 【虚子の亡霊(五十)】より

虚子の亡霊(五十) 道灌山事件(その二)

 子規と虚子との「道灌山事件」というのは、明治二十八年と、もはや遠い歴史の中に埋没したかに思えたのだが、この平成十六年に、『夕顔の花——虚子の連句論——』(村松友次著)が刊行され、全く新しい視点での「道灌山事件」の背景を論述されたのであった。この「全く新しい視点」ということは、その「あとがき」の言葉でするならば、「子規の連句否定論」と「虚子の連句肯定論」との対立が、「道灌山事件」の背景とするところの、とにもかくにも大胆な推理と仮説とに基づくものを指していることに他ならない。 

この「子規の連句否定論」と「虚子の連句肯定論」との対立の推理と仮説は、さらに、例えば、子規の『俳諧大要』の最終尾の「連句」の項の、「ある部分は、子規の依頼の下でゴーストライターとして虚子が書いているのではなかろうか」(同書所収「『俳諧大要』(子規)最終尾の不審」)と、さらに大胆な推理と仮説を提示することとなる。

 この著者は、古典(芭蕉・蕪村・一茶など)もの、現代(素十など)もの、連句(芭蕉連句鑑賞など)ものと、こと、「古典・連句・俳句・ホトトギス」全般にわたって論述することに、その最右翼に位置することは、まずは多くの人が肯定するところであろう。そして、通説的な見解よりも、独創的な異説などもしばしば見られ、例えば、その著の『蕪村の手紙』所収の、「『北寿老仙をいたむ』の製作時期」・「『北寿老仙をいたむ』の解釈の流れ」などの論稿は、今や、通説的にもなりつつ状況にあるといっても過言ではなかろう。

 虚子・素十に師事し、俳誌 「雪」を主宰し、「ホトトギス」同人でもあり、東洋大学の学長も歴任した、この著者が、最新刊のものとして、この『夕顔の花——虚子の連句論——』を世に問うたということは、今後、この著を巡って、どのように、例えば、子規と虚子との「道灌山事件」などの真相があばかれていくのか、大変に興味のそそられるところである。

 ここで、ネット記事で、東大総長・文部大臣も歴任した現代俳人の一躍を担う有馬朗人の上記の村松友次のものと交差する「読売新聞」での記事のものを、次のアドレスのものにより紹介をしておきたい。

http://art-random.main.jp/samescale/085-1.html

☆正岡子規は俳諧連句の発句を独立させて俳句とした。と同時に多数の人で作る連句は、西欧の個人主義的芸術論に合わないと考え切り捨てたのである。一方子規の第一の後継者である虚子は連句を大切にしていた。---子規が虚子に後継者になってくれと懇願するが、虚子が断ったという有名な道灌山事件のことである。その結果、子規は虚子を破門したと思われるにもかかわらず、一生両者の親密な関係は代わらなかった。

「読売新聞」2004.08.08朝刊 有馬朗人「本よみうり堂」より抜粋。 

https://ameblo.jp/yahantei/entry-10082418403.html 【虚子の亡霊(五十一)】より

虚子の亡霊(五十一) 道灌山事件(その三)

この「道灌山事件」とは別項で、「虚子・年尾の連句論」に触れる予定なので、ここでは、『夕顔の花——虚子の連句論——』(村松友次著)の詳細については後述といたしたい。そして、ここでは、明治二十八年の「道灌山事件」の頃の子規の句について、

次のアドレス(『春星』連載中の中川みえ氏の稿)のものを紹介しておきたい。

http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Kouen/9280/shikiku/shikiku5.htm#shikiku52

☆ 語りけり大つごもりの来ぬところ  子規

    漱石虚子来る

漱石が来て虚子が来て大三十日   同上

    漱石来るべき約あり

梅活けて君待つ庵の大三十日    同上

足柄はさぞ寒かったでこざんしよう 同上

 明治二十八年作。

 漱石はこの年五月、神戸病院に入院中の子規に、病気見舞かたがた「小子近頃俳文に入らんと存候。御閑暇の節は御高示を仰ぎたく候」と手紙で言って来た。第一回の句稿を九月二十三日に送って来たのを嚆矢として、三十二年十月十七日まて三十五回に渡って膨大な数の句を子規のもとに送って、批評と添削を乞うた。

粟津則雄氏は「漱石・子規往復書簡集」(和田茂樹編)の解説でこのことに触れて、

ロンドン留学の前年、明治三十二年の十月まで、これほどの数の句稿を送り続けるのは、ただ作句熱と言うだけでは片付くまい。もちろん、ひとつには、俳句が、手紙とちがって、自分の経験や印象や感慨を端的直載に示しうるからだろうが、同時にそこには、病床の子規を楽しませたいという心配りが働いていたと見るべきだろう。

と述べておられる。

 漱石は句稿に添えた手紙の中で、この年十二月に上京する旨伝えて来た。この時期漱石には縁談があって、そのことなども子規に手紙で相談していたようである。

 漱石は十二月二十七日に上京して、翌日、貴族院書記官長中根重一の長女鏡子と見合をし、婚約した。

 大みそかに訪ねて来るという漱石を、子規は梅を活けて、こたつをあたためて、楽しみに持っていたのである。

 大みそかには虚子も訪ねてきた。

 この月の幾日かに、子規は道潅山の茶店に虚子を誘い、先に須磨で言い出した後継委嘱問題を改めて切り出して、虚子の意向を問い正した。

 文学者になるためには、何よりも学問をすることだ、と説く子規に、厭てたまらない学問をしてまで文学者になろうとは思わない、と虚子は答えた。会談は決裂した。

 子規と虚子の間は少々ぎくしゃくしたが、それでも大みそかに虚子はやって来た。子規は最も信頼する友漱石と、一番好きてあった虚子の来訪を心待ちにしていたのである。

 漱石は一月七日まで東京に滞在して、子規庵初句会(一月三日)にも出席した。

 この年を振り返って、子規は次のように記している。

  明治二十八年といふ歳は日本の国が世界に紹介せられた大切な年であると同時に而かも反対に自分の一身は取っては殆ど生命を奪はれた程の不吉な大切な年である。しかし乍らそれ程一身に大切な年であるにかかはらず俳句の上には殆ど著しい影響は受けなかった様に思ふ。(略)幾多の智識と感情とは永久に余の心に印記せられたことであらうがそれは俳句の上に何等の影響をも及ぼさなかった。七月頃神戸の病院にあって病の少しく快くなった時傍に居た碧梧桐が課題の俳句百首許りを作らうと言ふのを聞て自分も一日に四十題許りを作った。其時に何だか少し進歩したかの様に思ふて自分で嬉しかつたのは嘘であらう。二ヶ月程も全く死んで居た俳句が僅かに蘇ったと云ふ迄の事て此年は病余の勢力甚だ振はなかった。尤も秋の末に二三日奈良めぐりをして矢鱈に駄句を吐いたのは自分に取っては非常に嬉しかった。

(獺祭書屋俳句帖上巻を出版するに就きて思ひつきたる所をいふ)

時に、子規、二十九歳、漱石、二十八歳、虚子は若干二十二歳であった。当時の虚子は、虚子の言葉でするならば、「放浪の一書生」(『子規居士と余』)で、今の言葉でするならば、「ニート族」(若年無業者)の代表格のようなものであろう。子規とて、書生上がりの「日本新聞」などの「フリーター」(請負文筆業)という趣で、漱石はというと、丁度、その小説の「坊っちゃん」の主人公のように、松山中学校の英語の

教師という身分であった。しかし、この三人が、いや、この三人を取り巻く、いわば、「子規塾」の面々が、日本の文化・芸術・文学の一翼を担うものに成長していくとは、

誠に、何とも痛快極まるものと思えてならない。そして、これも、虚子の言葉なのであるが、子規をして、「余はいつも其事を思ひ出す度に人の師となり親分となる上に是非欠くことの出来ぬ一要素は弟子なり子分なりに対する執着であることを考へずにはゐられぬのである」(前掲書)という、この子規の存在は極めて大きいという感慨を抱くのである。

 ここらへんのことについて、先に紹介した次のアドレスで、これまた、「読売新聞」のコラムの記事を是非紹介をしておきたい。

http://art-random.main.jp/samescale/085-1.html

☆高浜虚子には、独特なユーモアをたたえた句がある。5枚の葉をつけた、ひと枝だの笹がある。「初雪や綺麗に笹の五六枚」等々、葉の1枚ずつに俳句が書かれている。東京にいた24歳の正岡子規が郷里・松山の友、17歳の高浜虚子に贈った。「飯が食えぬから」と虚子が文学の志を捨てようとしているらしい。人づてに聞いた子規がこの笹を添えて手紙を送ったのは、1982年1月のことである。「食ヘヌニ困ルト仰セアラバ 小生衰ヘタリト雖 貴兄ニ半碗ノ飯ヲ分タン」。「目的物ヲ手ニ入レル為ニ費スベキ最後ノ租税ハ 生命ナリ」。3年前に血を吐き、四年後には病床につく人が友に寄せた言葉は、悲しいまでに温かい。この笹の枝を子規は、「心竹」と呼んでいる。ささ(笹)いな贈り物だという。心の丈でもあったのだろう。虚子の胸深くに心竹は根を張り、近代詩歌の美しい実りとなった詩業を支えたに違いない。

「読売新聞」2004.01.01朝刊「編集手帳」より抜粋。

https://ameblo.jp/yahantei/entry-10084303743.html 【虚子の亡霊(五十二) 道灌山事件(その四)】より

ネットの記事は雲隠れをするときがある。一度、雲隠れをしてしまうとなかなか出てこない。かつて、「俳句第二芸術論」について触れていたときに、桑原武夫が高浜虚子の、俳句ではなく、その小説について褒めたことがあり、その桑原の初評論ともいえるようなものが、虚子の「ホトトギス」に掲載されたことがあり、その桑原のものを、ネットの記事で見た覚えがあるのだが、どうにも、それが雲隠れして、それを探すことができなかったのである。

 それが、しばらく、この虚子のものを休んでいたら、まるでその休みを止めて、また続けるようにとの催促をするように、そのネット記事が偶然に眼前に現れてきたのである。その記事は、次のアドレスのもので、「小さな耳鼻科診療所での話です」というタイトルのブログ記事のものであったのだ。今度は、雲隠れしないように、その前後の関連するところを、ここに再掲をしておくこととしたい。

http://www.geocities.jp/kayo_clinic/geodiary.311-320.html

317.俳談(その1)

センセは、俳句をすなる。パソコンを使い始めて5年。俳句を始めて4年。ちょうど、「俳句とは」を考えたくなる時期にきたようだ。

乱雑に突っ込まれた本棚を見てみると、それなりに俳句入門の本が並んでいる。鷹羽狩行、稲畑汀子、阿部肖人、藤田湘子、我が師匠の大串章。先生方の言わんとされることが理解できれば俳句ももう少し上手くなれたのであろうか。句集もそれなりに積んである....

悪あがきついでに「俳句への道」高浜虚子(岩波文庫)を読むことにした。本の後半の研究座談会が面白そうだったので、そこから読み始めた。ところが、いきなりこんな文に出会った。

「近頃の人は、四五年俳句を作って見て、すぐ、『俳句とは』という議論をしたがる。そういう人が多い。こういう人は長続きしない。やがてその議論はかげをひそめるばかりかその人もかげをひそめる。」と、ある。ガーン!!!虚子先生は厳しい。

とはいえ、「私はしばらく俳論、俳話のやうなものは書かないでをりました。..」と、いいながら「玉藻」(主宰、星野立子)に、俳話を載せた。(昭和27年)ここでの俳論、俳話がまとめられたのが、この文庫である。「私の信じる俳句というのもは斯様なのもであるということを書き残して置くのもである。」と序にある。

なんたってセンセはミーハーである。いくら大虚子先生のお話でも、まず、愉快そうなところかに目をつける。まず、研究座談会の章から。

虚子は、子規のところに手紙を出したのも「文学の志しがあるから宜しくたのむ」と、いうことで、俳句をしたいというわけではなかったらしい。本心は小説を書きたかったらしい。虚子は俳句を軽蔑していたのに、子規が俳句を作るので自然と俳句を作るようになった。「我が輩は猫である」がホトトギスに載る。漱石が小説家としてどんどん有名になっていく。

「漱石のその後の小説を先生はどういう風に感じられますか」と、弟子の深見けん二。虚子のこの質問に対する答えは、愉快である。「漱石の作品は高いのもがあります。だが、写生文という見地からは同調しかねるものもあります。」さーすが、客観写生の虚子先生である。そして、虚子は小説を書いたのである。けん二は、虚子の小説を「写生文」と、言い切っていろいろ質問しているが、虚子は「小説というより写生文という方がいいかもしれません」と答えているが小説の中ではという意味で言っているのである。「写生文は事実を曲げてはいけない。事実に重きをおかなければならない。その上に、心の深みがあらわれるように来るようにならなければならない。私は写生文からはいって行く小説というものを考えています」と、フィクションを否定している。花鳥諷詠の説明を聞いてるようだ。

「ただ、今のところ文壇からみれば傍流であって、この流れは、現在では、まだ大きな流れではありませんが、しかし、将来は本流と合体するかも知れないし...」ごにょごにょ....。あは。虚子先生、負けん気が強いですね。そして、小説への憧れがいじらしい。

「お父さん、最近『虹』とか、『椿物語』とか、いろいろの範囲の女性を書かれるようですが、お父さんの女性観といったのもをひとつ」と、秦に聞かれた。

「さあ、私は女の人と深くつきあっていませんからね。..小説家といっても、そんなに、女の人と深くつきあうことは出来んでしょう。大抵は、小説家が、自分で作ってしまうのでしょう。」

「里見さんなんかは、そうでもないらしいんですが」と、今井千鶴子。

「少しはつき合わないと書けないのでしょうか」と、なんとカワユイきょしせんせい。

虚子先生は、やはり小説より俳句ですよね。きっぱり。

というわけで、俳談はつづく.....

☆ここのところでは、「虚子は、子規のところに手紙を出したのも『文学の志しがあるから宜しくたのむ』と、いうことで、俳句をしたいというわけではなかったらしい。本心は小説を書きたかったらしい。虚子は俳句を軽蔑していたのに、子規が俳句を作るので自然と俳句を作るようになった」というところは、いわゆる、子規と虚子との「道灌山事件」の背景を知る上で、非常に重要なものと思われる。すなわち、子規の在世中には、虚子は、「俳句を軽蔑していて、文学=小説」という考えを持っていて、「小説家」になろうとする道を選んでいた。そして、子規も当初は小説家を夢見ていたのであるが、幸田露伴に草稿などを見て頂いて、余り色よい返事が貰えず、当初の小説家の夢を断念して、俳句分類などの「古俳諧」探求への俳句の道へと方向転換をしたのであった。そういうことが背景にあって、虚子は、「文学者になるためには、何よりも学問をすることだ」と説く子規に、「厭でたまらない学問をしてまで文学者になろうとは思わない」と、いわゆる、子規の「後継委嘱」を断るという、これが、「道灌山事件」の真相だということなのであろう。そして、子規没後、子規の「俳句革新」の承継は、碧梧桐がして、虚子は小説家の道を歩むこととなる。しかし、虚子の小説家の道は、なかなか思うようにはことが進まなかった。そんなこともあって、たまたま、当時の碧梧桐の第一芸術的「新傾向俳句」を佳しとはせず、ここは、第二芸術的な「伝統俳句」に立ち戻るべしとして、再び、俳句の方に軸足を移して、何時の間にやら、「虚子の俳句」、イコール、「俳句」というようになっていったということが、大雑把な見方であるが、その後の虚子の生き様と日本俳壇の流れだったといえるのではなかろうか。そして、上記のネット記事の紹介にもあるとおり、虚子は、その当初の、第一芸術の、「文学」=「小説」、その小説家の道は断念せず、その創作活動を終始続けていたというのが、俳壇の大御所・虚子の、もう一つの素顔であったということは特記しておく必要があろう。

https://ameblo.jp/yahantei/entry-10084965552.html 【虚子の亡霊(五十三)】より

虚子の亡霊(五十三) 道灌山事件(その五)

 前回に続いて、下記のアドレスの、「小さな耳鼻科診療所での話です」の、その続きである。ここに、桑原武夫の「俳句第二芸術論」ではなく、「虚子の散文」と題する一文が紹介されていたのである。

「小さな耳鼻科診療所での話です」(続き)

http://www.geocities.jp/kayo_clinic/geodiary.311-320.html

初心者が考える俳句とは、について書いてみようと思ったのだが、虚子先生の小説に話が流れたので、続けてみよう。(昨日、早速ありがたい読者から、「虚子は食えない男だと思う。まさに自分でも詠んでいるように『悪人』だね。」という忠告あり。いいえ、恋人にするつもりないから.......御安心を!)

「ただ、今のところ文壇からみれば傍流であって、..」と、自分の小説を虚子先生らしからぬ弱きでつぶやいているのだが、なんと、虚子の小説に大賛辞を送っている人がいたんですね。(百鳥2001 10月号『虚子と戦争』渡辺伸一郎著参考)

誰だと思いますか?桑原武夫。わかりますね、あの俳句第二芸術論を発表した(「世界」昭和22年)桑原武夫です。曰く、現代俳句は、その感覚や用語がせまい俳壇の中でしか通用しないきわめて特殊なものである。普遍的な享受を前提とする「第一芸術」でなく、「第二芸術」とされるものであると、主張しました。これに対して当時、俳壇は憤然としたそうです。

読者の指摘どうり「食えない男」の虚子先生は「いいんじゃあないの。自分達が俳句を始めたころは、せいぜい第二十芸術ぐらいだったから、それを十八級特進させてくれたんだから結構なことじゃあないか」と、涼しい顔をしていたとか。でも、これって大人の余裕というより本音かもしれませんね。俳句を軽蔑していたと、御本人が言っているくらいですから。第一、ウイットで返すという御性格でもなさそうだしィ。

その、俳壇にとって憎き相手の桑原博士が、虚子の小説を誉めたのです。(「虚子の散文」と題して東京帝国大学新聞に掲載された。1934年1月)

「私はいまフランスものを訳しているが、その分析的な文章に慣れた眼でみると、日本文は解体するか、いきづまるものが多いのだが、この文章(ホトトギスに掲載された『釧路港』1933年)ばかりは強靱で、それを支える思想がよほどしっかりしている。その点はモーパッサンに匹敵し、フランス写実派の正統はわが国ではそれを受け継いだはずの自然主義作家よりも、むしろ当時その反対の立場にあった人によって示されたくらいだ。....著者は句と文とによって、はっきり態度を違えて立ち向かっている。.....これは、珍しい例ではないかと思う。詩人の文章はどうしても詠嘆的になりがちで、文章をささえる思想が感情になりやすい。......観察写実から出発した作家は完成に近づくと、無私の眼をもって見た澄明な景色のうちに何か不気味なものを感じさせるものである。そして、人間の感情にしてもむしろ冷淡な意地悪なものがよけいに沁み出る傾向がある。....」と、エールを送っている。もちろん、この文章は、ホトトギスに転載された。虚子先生の「最後には勝つ」という人生観に、更に自信をもたれたでしょうね。そうだ、桑原武夫も同じく、虚子先生はイジワルと決めつけている..な。

ここで、不思議なのは、桑原武夫が書いている「著者は句と文とによって、はっきり態度を違えて立ち向かっている。.....これは、珍しい例ではないかと思う。」という下りである。

虚子は「写生文は事実を偽って書くのは卑怯ですよ。写生文がそういう根底に立ってそれが積み重なって、自然に小説としての構成を成してくるのは差し支えないでしょう。....面白くするために容易に事実を曲げるということはしない。」と言っている小説観と、口すっぱく主張している「客観写生」は、意味するところが共通しており「態度を違えて」ないのではなかろうか。

「客観写生ということに努めていると、その客観描写を透して主観が浸透して出てくる。作者の主観は隠すことが出来ないのであって客観写生の技量が進むにつれて主観が擡げてくる。」この虚子の主張と矛盾しないように思うし、あまりにも虚子らしい文章観であり散文であると思ったのであるが、いかがであろう。そして、あっぱれな頑固者だなとも思ったのだが.....。

☆これまでに数多くの「虚子論」というものを目にすることができるが、それらの多くは、どう足掻いても、田辺聖子の言葉でするならば、「虚子韜晦」と、その全貌を垣間見ることすらも困難のような、その「実像と虚像」との狭間に翻弄されている思いを深くさせられるものが多いのである。それらに比すると、上記の「小さな耳鼻科診療所での話です」と題するものの、この随想風のネット記事のものは、「高浜虚子」の一番中核に位置するものを見事に見据えているという思いを深くするのである。それと同時に、このネット記事で紹介されている、いわゆる「俳句第二芸術論」の著者の桑原武夫という評論家も、正しく、虚子その人を見据えていたという思いを深くする。桑原が、上記の「虚子の散文」という一文は、戦前も戦前の昭和九年に書かれたもので、桑原が「俳句第二芸術論」を草したのは、戦後のどさくさの、昭和二十一年のことであり、桑原は、終始一貫して、「俳人・小説家」としての「高浜虚子」という人を見据え続けてきたといっても差し支えなかろう。

その「小説家」(散文)の「虚子」の特徴として、「この文章(ホトトギスに掲載された『釧路港』1933年)ばかりは強靱で、それを支える思想がよほどしっかりしている。その点はモーパッサンに匹敵」するというのである。この虚子の文章(そしてその思想)の「強靱さ」(ネット記事の耳鼻咽喉科医の言葉でするならば「頑固者」)というのは、例えば、子規の「後継委嘱」を断り、子規をして絶望の局地に追いやったところの、いわゆる「道灌山事件」の背後にある最も根っ子の部分にあたるところのものであろう。この虚子の「強靱さ」(「頑固者」)というものをキィーワードとすると、虚子に係わる様々な「謎」が解明されてくるような思いがする。すなわち、子規と虚子との「道灌山事件」の謎は勿論、碧梧桐との「新傾向俳句」を巡る対立の謎も、秋桜子の「ホトトギス脱会」の背景の謎も、さらにまた、杉田久女らの「ホトトギス除名」の真相を巡る謎も、全ては、虚子の頑なまでの、その「強靱さ」(「頑固者」)に起因があると言って決して過言ではなかろう。

さらに、桑原の、「詩人の文章はどうしても詠嘆的になりがちで、文章をささえる思想が感情になりやすい。......観察写実から出発した作家は完成に近づくと、無私の眼をもって見た澄明な景色のうちに何か不気味なものを感じさせるものである。そして、人間の感情にしてもむしろ冷淡な意地悪なものがよけいに沁み出る傾向がある」という指摘は、これは、実に、「虚子」その人と、その「創作活動」(小説と俳句)の中心を、見事に射抜いている、けだし、達眼という思いを深くするのである。このことは、上記のネット記事の基になっている、虚子の『俳句への道』の「研究座談会」のものですると、すなわち、虚子の句に対しての平畑静塔の言葉ですると、「痴呆的」という言葉と一致するものであろう。この、桑原の言葉でするならば、「無私の眼をもって見た澄明な景色のうちに何か不気味なものを感じさせるものである。そして、人間の感情にしてもむしろ冷淡な意地悪なものがよけいに沁み出る傾向がある」という指摘は、これこそ、「虚子の実像」という思いを深くするのである。これこそ、虚子と秋桜子とを巡る虚子の小説の「厭な顔」、そして、虚子と久女を巡る「久女伝説」を誕生させたところの虚子の小説の「国子の手紙」の根底に流れているものであろう。