「宇田川源流」 ドラマや映画の濡れ場を必要ないと思うZ世代のメディア観
「宇田川源流」 ドラマや映画の濡れ場を必要ないと思うZ世代のメディア観
先週は、というか最近といったほうが良いかもしれないが、実に興味深いニュースがなくなった気がする。実際にテレビを見てもどのテレビも同じ内容で、なおかつその内容に関してほとんど度の報道機関も同じ内容しか言わない。これであれば、民法などはいらないのではないか。何も新聞社もテレビ局もこれだけ種類を必要としないのではないか。
先週の内容ということになれば、基本的には中東のハマスとイスラエルの話、そしてウクライナの話くらい。火曜日に川口の蕨郵便局に86歳の老人が拳銃をもって立てこもった事件が発生したくらいで、それ以外は「何もなかったかのような」一週間であった。そのようになると、テレビや映画を見る場面が多くなるものである。
さて、そのような中で玉に目にするのが「映画などの濡れ場」である。
私のように文筆業を行っているものに関して言えば、「濡れ場」というのは最も表現が難しい場所であるといえる。正直なところ官能小説以外で「濡れ場」を書くのはなかなかないといっても過言ではないのではないか。濡れ場というのは、その表現が難しいだけでなく、その濡れ場一つで様々な感情表現が出てくる。そのうえ、その場面はほかの人の内容を見ることはほとんどない(アダルトビデオなどは作り物なので)ということから、なかなか表現をしていると自分の手の内を見られるような感じもするので難しいというところがある。
単純に「濡れ場」を書くからといって、必ずしも愛情表現ではない。もちろんレイプなどの内容を書くものばかりではないのであるが、しかし「売春」など生活のために仕方がなくということもあるし、また、別れを決意して最後というのもある。行きずりの恋でさみしさを紛らわすというような表現もあれば、男性と女性の立場がその場面から逆転してしまう場合もあるのだ。そのように「感情の起伏が大きく、そのことをこの行為で分岐する」という場面が濡れ場であり、単純に有名女優の裸を見ることができるというような話ではなく、かなり深いものがあるということになる。それをうまく表現できる作品というのは、やはり名作の中の一つになるのではないか。ましてや、濡れ場というのは「服やアクセサリーでごまかすことができない」という場面である。はっきり言ってしまうと裸というのは、よほど入れ墨でもない限り基本的には誰も同じである。その中で、最も重要な心理の変化を書くということになるのであるから、それはかなり難しいということになるのではないか。
私はある意味で「濡れ場の意味を解る」ということが映画を味わう時の、一つの力ではないかという気がするのである。もう一度言うが「アダルトビデオを除く」である。
映画&ドラマの濡れ場シーン、Z世代の約半数が「必要ない」 - 米調査
アメリカのZ世代の多くが、映画やドラマに登場する濡れ場のシーンについて「必要ない」と考えていることが、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の調査で明らかになった。
UCLAは今年8月、10歳から24歳の若者1,500名を対象に「Teens and Screens(ティーンとスクリーン)」と題して調査を実施(10歳~12歳には性やロマンスについて質問せず)。そのうち、47.5%が「だいたいの映画やドラマシリーズのプロットにおいて濡れ場は必要ない」、44.3%が「メディアにおけるロマンスは乱用されている」と回答。約半数が濡れ場シーンについて、否定的な考えを抱いていることが判明している。
最近ではドラマ「ユーフォリア/EUPHORIA」「THE IDOL/ジ・アイドル」など、ティーンエイジャーに焦点を当てた作品で、度々濡れ場のシーンが登場している。調査では、肉体関係を持つ人物より、アロマンティック(他人に恋愛感情を感じない、恋愛指向が他人に向かない人)もしくはアセクシュアル(他者に対して性的魅力を感じない)なキャラクターをもっと登場させてほしいという声が、全体の39%にのぼった。
「Teens and Screens」共同著者のヤルダ・T・ウルス助教授は、「思春期の若者は映画やテレビにおいて露骨な濡れ場が必要ないと思っていることは事実。この調査が示すのは、彼らが日常的に使うメディアを反映したさまざま形の関係を求めていることです」と報告している。(藤田良太)
2023年10月26日 21時3分 シネマトゥデイ
https://news.livedoor.com/article/detail/25241640/
最近のZ世代の約半数は「濡れ場」が必要ないと思っているという。
さて、我々が子供のころに、映画などを見ていて濡れ場が出てきた時にどのように思うのかということがある。実際には、濡れ場の意味があまりよくわかっていない状態でありまた、何か反応すれば、親や兄弟にどのように見られているかわからないということから、実際には、固まってしまうというようなことになる。単純にどのように反応してよいかわからないと思っているということになる。
しかし、同時にそのような「濡れ場」に対する表現の理解があるないということではなく、一つには感情の表現やコミュニケーションがうまくできていないということ一つの表れではないかという気がする。単純に「ストーリーの中の濡れ場をうまく理解できるだけの人間経験がない」ということなのかもしれない。そのように考えると、「ネットやSNSという機械を媒体にしたコミュニケーションばかりで、リアルな人間の肌の触れ合いがZ世代には足りていない」ということが見えてくる。まさに、そのような現象がこのような芸術面にも表れて来ているということになるのではないか。
さて、このような現象があるということは現実の問題である。このことを肯定するのか、または否定するのかということが大きな問題ではないか。じっさいに個人的には「きれいな人のヌードが見たい」というの欲望があることは全く否定はしないが、それ以上に、作品の中で「感情をどのように表現してゆくのか」という事が大きな問題になってくるし、その内容を今の若者は何を考えるのかということになるのではないか。そのようなコミュニケーションの不足というか、ある意味では「変化」というようなことがあることを肯定的に受け止めるのかどうかまた、この先はどのように変わってゆくのかということが大きな問題になってくる。そしてコミュニケーションが変わるということは、人と人の距離感覚が異なるのであり、そのことから様々な交渉事や相手に関する理解が変わってくるのである。
単純に「もしも上記にあるように「リアルな人の肌の感覚がたりていない」ということは、ある意味で感情などが全く伝わらないということになってしまうのではないか。もっと言えば、理解するということが中心になって感じるということが中心にはならないということになってしまうということになってゆくのである。そのような変化が見えてくるのかどうか。その変化に我々はどのように対応しなければならないのか。そのように考えるものである。