11月5日 主日礼拝(オンライン礼拝)
11月5日
主日礼拝(オンライン礼拝)
礼拝説教
伊藤大輔牧師
マタイによる福音書26章69〜75節
主イエスの十字架が、私たちに教えてくれたこと。
ペトロの物語を通して明らかになったこと。
人は何もわかっていない。
あなたは地の塩、世の光。
主イエスはこれを山上において人々に語った。
その中にはペトロもいた。
彼も自らの地の塩、世の光を求めた。
自分は何者なのか。
何が神から与えられた使命なのか。
ペトロも求めた。
そして、見出したもの。
自分はイエス様の弟子である。
イエス様の言葉を大切に守り、イエス様にどこまでも着いていく。
それが自分にとっての何よりの喜びを見出した。
あなたは鶏が鳴く前に三度、私を知らないという。
そのイエスの言葉に憤慨もし、否定をした。
何を言うんですか、イエス様。
私は何があろうと、どこまでもイエス様に着いていきます。
たとえ一緒に死ななければならない時が来たら、私は喜んで死にます。
それが私
ペトロはなんの疑いもなしに、これを信じて疑わなかった。
鶏が鳴く前に三度イエス様を知らないと言う。
そんなことがあるはずがない。
私のことをイエス様は何も知らない。
私はどこまでもイエス様に従うもの。
実際に、イエスは捕らえられる。
連行され裁判にかけられる。
イエスに有罪の判決が下される。
イエスは悪いもの
死罪にあたる罪人。
イエスの評価が決定した。
もはやイエスの仲間だと言うことになんのメリットもない。
むしろ我が身の危険ですらある。
ペトロは自らを守るため、イエスとの関係を否定した。
三度否定した時、鶏が鳴く。
鶏が鳴く前に三度、私のことを知らないと言う。
そんなことはないと思っていたペトロ。
イエス様は私のことをわかっていない、と思っていた。
鶏が鳴いた時、ペトロのことを本当にわかっていたのは自分ではなかった。
イエスこそがペトロのことを本当に分かっていた。
自分は自分のことを何も知らない。
この物語はペトロ個人の話ではない。
私たち、人類の物語。
私は何も分かっていない。
私は自分のことも分かっていない。
ペトロは自分のことを正しく語っているのはイエスだと知った。
イエスの言葉は真実であると知った。
天地創造の物語。
神が言葉を持って世界を造っていく。
言葉がその通りになる。
言葉が真実になっていく。
世界はそのように造られた。
世界とは言葉が真実になることろ
その世界観が聖書にはある。
あなたは地の塩、世の光。
私たちはこれを見つけることができるでしょう。
おおよそ、これが私の賜物だと、見当をつけることもできるでしょう。
ですが、この物語を思い出してください。
ペトロも自分の地の塩、世の光を見つけていました。
確信し、疑いもしませんでした。
ところが、それは本当の自分ではありませんでした。
ペトロはイエス様の言葉
鶏が鳴く前に三度私のことを知らないと言う。
それが本当の自分だと知らされました。
自分で思っていた地の塩、世の光はものの見事に消し飛びました。
真実を語っていたのはイエスだった。
イエスの言葉は真実になる。
天地創造の時から変わらないこの世界の秩序。
ならば
あなたは地の塩、世の光も変わらない。
私が見つけたものが間違っている。
私が思っているものと私は違っている。
それで良いんです。
私が思っているものより、私の塩、私の光はもっと大きいのです。
分からなくて良いんです。
ペトロはイエス様の十字架を通して、それを知りました。
私は自分のことを何も分かっていない。
彼が恐らく忘れられなかったことでしょう。
私は何も分かっていない。
されど、私は地の塩、世の光。
これを背負ってペトロはその後、イエスを告げ知らせる仕事に従事していきます。
ペトロの生涯の終わりはローマで殉教をしたと伝えられています。
ペトロはローマで葬られます。
それから300年後
ローマ皇帝コンスタンティヌス1世はそのペテロの墓の上に教会を建てるように命じます。
サン・ピエトロ大聖堂。
その教会は今もなおローマ・カトリック教会の総本山です。
あなたは地の塩、世の光
私はまだ自分の塩、光に気がついていない。