平面と立体
私達は、平面で物事を判断し、平面で学習しようとします。
なぜそうなのか?
いつからそうなったのか?
というか平面でしから物事を理解しようとしないということがあるようです。
身体を動かしたということは、立体が動く訳ですから時間を含みます。
この時間は一つの軸ですから、立体に軸が加わって四次元になります。
これを平面で理解しようとするとそれぞれの動きの平面を切り取って説明しなければなりません。
難しい作業だと思いますが、実はそういうことでしか言語では物事を伝えられません。
立体が動くということ自体を実感すると子供でも理解できるのですが、教育された大人は、平面で理解しようとするから、平面から見た立体でしか判断しない。
そして動きそのものを理解することができません。
例えば運動でもスポーツでも良いのですが、人に教えてもらうとします。
一つ一つを分解して、教えてもらいませんか?
その方が理解できると思いませんでしょうか?
元巨人軍の長嶋さんがテレビに出ていて、あの人の指導って普通の人が聞いてたらきっとわからないと思うんですよね。
このような特長って意外に凄い特長だと思っています。
私達鍼灸師にはバイブルとなる古典という書物があります。
古典で書かれた世界は平面を文字だけであらわしたものです。
多少の図はあっても古い書物ということもあって平面から線に近い書物だと私は思います。
過去の遺物をそのまま鵜呑みにしても立体や動きにはつながりません。
つまり利用できないということです。
しかし、古典はかなり良くできていて、小説のような読み物として読んでいても面白いので、活字だけなのに平面から立体、立体から移動しているかのような錯覚に陥ったりします。
季節やその人の運気という概念を含んでいるので文字が移動しているような錯覚に陥る訳です。
このような説明の仕方こそが逆に古典理解不能にさせている大きな要因になっているのではないかと思います。
鍼灸師にとって古典は、知識としてあっても良いが、経験や実感を伴わないものは何の役にも立たない。ということが言えます。
実感があってこそ、古典の知識が役立つ訳ですが、殆どの場合、知識から実感しようとしています。
脉診などはその典型的な手法であり、原理さえわかれば初心者でも素人でも簡単に理解できるものなのに複雑化しすぎてベテランでもわからないものになってしまっています。
だから古典を議論すると重箱の隅をつつくような議論をされることが多いのです。実感を伴わず、理屈だけで議論し、わかったような気になっている人も多いようです。
実感というのは、今すぐにでも実感できます。
呼吸に意識を向けてください。
難しいことを考えなくても呼吸が身体の及ぼす影響ってわかります。
1週間ぐらい断食してみれば、断食終了後、食べたものが血となり肉となっていく姿が体験できます。
そこで食物が人体に与える影響を本当の意味で知ることができる訳です。しかも実感として理解するわけです。別に断食しなくても、よく観察していけば実感することは可能です。
実感することを第一に考え、その実感から古典を読み解いていくことが正しい読み方だと私は思っています。
世の中にはこれと全く同じことが沢山あります。実際には頭も感覚も同時に使いながら生活している訳です。だからどちらも大事なのですが、そのどちらかに偏ってしまうことが多いのではないかと思います。
だから、見たもの感じたものを人に伝えようと思った場合、最終的には平面から線にして人に伝えなければなりません。
書物を読んだ人は、文章という線から平面にし、それを立体にし時間を与え、そこに創造力を注入し、実感と理論をつなげるということで学問は成り立っていなければなりません。
直感と創造力のない読み手は、線を線と捉え、面を面として捉えます。それでは生きた身体を操作することなんて不可能です。