新しい出発
2018年9月23日
伊藤大輔牧師
創世記29章1-14節
族長物語はイスラエルの祖先の話。
それは表面上のこと。
その内容は一民族の話ではない。
いつでも、どこでも成り立つ普遍的物語。
物語は私と結びついている。
私とはなにか。
人とは何か。
人はどのような道を歩むのか。
族長物語はアブラハム、イサク、ヤコブ、三代の物語。
この三代には共通しているものがある。
神様から祝福を受けたもの。
祝福を受けているのだから、さぞかし素晴らしく、幸福な人生を歩んだことと想像する。
祝福されたものは幸せが保障されている。
それは私たちにも通じる。
神様を信じていれば幸せになれる。
祝福された者たちはどのような人生を歩んだのか。
アブラハムは生まれ故郷を離れて異国の地に居住させられる。
歳をとってからやっと与えられた子供のイサクは神のために捧げろと命じられる。
イサクもまた歳をとってから産まれた双子のエサウとヤコブが争い家族がバラバラになる。
バラバラの原因となったヤコブも元々は母親の提案に従っただけ。
皆、どうしてこんな目にあうのか釈然としない人生を歩んでいる。
兄の憎しみを買いやっとの思いで母親の実家にたどり着くヤコブ。
井戸で従姉妹のラケルと出会う。
かつて母のリベカが、父イサクと結ばれるきっかけになった井戸。
同じような出会いをする。
新しい道が開けそうな予感が漂う場面。
しかし、その直後には叔父によって不当な労働を強いられる。
祝福されたものなのにどうして次から次に苦難を経験するのか。
その理由は私たちの設定が間違っているから。
神は人に私たちの期待する予定調和は与えるようなこじんまりとした神ではない。
ヤコブはこの後、神と格闘して「イスラエル」との名前をいただく。
「神、戦う」との意。
神に祝福されたもの。
その者は神と戦う。
十字架上のイエスも神に問いかけ息をひきとる。
戦う姿で終えている。
人はどのような歩みをなすものか。
神と戦うことが求められている。
人の予定の中に「未来」があるのではない。
神と格闘しながら、そうしなければ見えない未来がある。
格闘した族長は世の礎となった。
格闘できること、それが祝福。
神が備えている豊かな未来。
この格闘の先にある。