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一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

vol.15「綱吉」について(後編)

2023.11.20 03:18


ググッていると「綱吉パイセンは悪い将軍なんかじゃないっす!むしろ偉大だったっす!」の論調がチラホラ見受けられる。ので、も少し深く調べてみることに。


すると、〜なんと言うことでしょう。閉鎖的で独裁的な印象だったお部屋が、ガラガラと音を立てて崩れ去り、すっきり美しいオープンスペースに。じめじめしていた「柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)」も見違えるほど好印象に。〜 てな感じで目から鱗が30枚くらい落ちた。こんなに誤解されてる人も珍しいのではなかろうか。あまりに可哀想なので、以下にまとめてあげましょう。



● まず、家綱時代からの大老「酒井忠清(さかい ただきよ)」が「保科正之」の死後に権力が集中し、むっちゃ偉そうになる。賄賂の量で裁判の判決を左右させたり、下馬将軍とよばれたり、とにかく調子に乗りまくり。しかも、家綱が危篤の際に「綱吉は将軍の器じゃねー」と言い切り、次の将軍を朝廷から立てる案で自分の権力を維持しようと試みるが、新人老中「堀田正義(ほった まさよし)」が綱吉推しを家綱の了承取り付けるファインプレーで、これを阻止する。


● 5代目将軍になった綱吉は、とりあえず酒井忠清を解任し、堀田正義に領地の現状をしっかり調査させたところ、案の定こんな有様 ↓(以下『最悪の将軍』より抜粋)


〜百姓の困窮、衰微は推量を遥かに超えていた。  己が丹精した米の一粒も口に入れることかなわず、子は老いた親を野に捨て、娘を売り、母は産んだばかりの赤子を土中に埋めている。田畑で悠々と働いていた牛馬らはとうに姿を消し、犬も喰い尽くされていた。寛文以降、江戸の町人の力は増している。今では絹を身につける者も少なくない。にもかかわらず親は子を捨て、乞食となって江戸を流浪している〜


〜代官の中にはその権益のみを享受し、百姓に暴政を揮う者がいた。飢えや寒さで苦しむ百姓を一顧だにせず、己が屋敷の普請や衣食に奢る。何の咎もない民を野遊びで斬り捨て、娘を気の向くままに凌辱する。百姓同士の水争いや揉め事においても正しい裁きを下さず、賂を取って裁決を左右し、しかも年貢徴収に不正の疑があった。ようやく戦のない世が到来したと民は安堵したであろうに、かような悪政に苦しめられていたのだ。民百姓の嘆きが書面から湧いてくるようで、綱吉は拳を握り締めた。ただでは置かぬ



● そして山積した課題に取り組みはじめる。


① 悪代官らが民を苦しませてるの許せないんですけど!と「信賞必罰」を掲げ、誉めるべき人には褒美を、悪い奴には罰を、の精神で、大名だろうが身内だろうが罰してゆく


② 鷹狩やら何やら武芸の誇示みたいなん経費のムダだし、民の負担だから廃止!武芸ダサい!


③ 儒学を学んで家族や命を大切にする精神を学びなさい!捨子とか捨親とかダメ!道徳心だいじ!


④ あと、牢人が徒党を組んで「かぶき者」とか「奴(やっこ)」とか呼ばれて悪ぶってるけど切捨御免とか、犬で刀の試し切りとか、おまえら頭おかしいんか!そんでもって咎められたらすぐ自害とか切腹して美化すんのもやめんかいっ!


⑤ それらひっくるめて「生類憐みの令」を出す。犬だけ贔屓したわけじゃなく、命を粗末にする倫理観そのものを矯正させるため。儒教では死は穢れであり「武士とは死ぬことが美徳なり」みたいな考えを捨てさせるため。これからは、NO MORE KILL(切る)よ。分かる? 分からない奴は島流し!



けれど、やり方が強引すぎた感も否めない。ちょっといきなり理想が高すぎたのかも。結局、締め付けが強すぎて庶民にも嫌われちゃう。NO MORE KILLとか言っといて従わなかったら切るとか、意味分かんねーし、人より犬が偉いのかよ、この犬公方!と。まあ、そうなるのも仕方がない。


そしてもうひとつ、実はかなりの偉業だったのに、悪政とレッテルを貼られてしまう要素があって、それは経済の立て直し方。これについてはyahoo知恵袋のやりとりで凄まじく秀逸な回答をあげている方がいたので、そこから拝借させていただきます↓



江戸時代を通じて最も有能だった官僚は、柳沢吉保です。次が田沼意次でしょう。田沼の政治は最終的に「失敗」の烙印を押されて葬り去られましたが、柳沢は綱吉の治世いっぱいで充分な成果を挙げ「失脚」というより「勇退」という形で任期を締めくくることができたのですから。


幕府の基本理念は「農業は正義、商業は悪徳」というものです。商業が発展して物価が慢性的に上がれば、非生産者である武士はどんどん苦しくなります。このことを直感的に知っていた幕府は、農業以外の産業が発展する芽をできるだけ摘もうとします。「幕府」という仕組みを維持するためには「農業だけが正義」という思想を貫かなければなりません。だから「士農工商」なんです。日本じゅうが農業のみで生きるスローライフ社会が、幕府の理想だったのです。


この思想に忠実だった政治は称賛され、この思想に逆らった政治は「悪」とされます。そして、元禄文化の時代というのは、この幕府の大方針から外れた鬼っ子として、旧来の価値観からの非難の槍玉に真っ先にあがる政治が行われた時代です。その経済政策の総責任者が、柳沢吉保です。

幕府の政治は「老中」が合議制で運営し、結果を将軍は承認するだけ、という「バカでも子供でも将軍が務まるシクミ」になってます(これを作った家康はやはり偉い)。ただし、これでは「昔からの方針どおり、無難に手堅く政治をする」ことしかできません。そこで、将軍が政治に直接口出しできるように編み出したのが「側用人」です。


将軍は有能な側用人を登用して活用することで、老中のじいさんたちを飛ばして直接政治をすることができたのです。しかし、有能な者を抜擢する、というのは「昔からの身分制度にしがみついて生きている連中」にとっては、自分たちの存在を脅かす許しがたい暴挙なのです。だから「あんなやつ、おべっか使って将軍に取り入った悪人に決まってる、なんか自分の妻を差し出したらしいぞ、とんでもないやつだ、あいつのやってることは幕府の基本方針に反するトンデモナイことばかりじゃないか」ということで、綱吉は暴君、柳沢は極悪人、ということにされます。歴史上の人物の評価ってのは、案外そういうふうに「同時代人の嫉妬と怨念」によるデマによって出来上がっているものです


綱吉と柳沢がやった政策は、まとめて言うと「世の中を平和にして、経済を発展させる」ということです。綱吉が「儒教、儒教、暴力禁止」とうるさく言ったのは「戦争で勝ち抜いて天下を取った徳川家」の当主としてどうなんだ、という反発が当然、守旧派にはあります。そして「経済発展」は武士の社会を危うくする「禁じ手」です。あえて、それを堂々と推し進めたのが、綱吉と柳沢なんです。


柳沢吉保、そのブレーンだった荻原重秀は「貨幣の流通量を増やさなければ、経済は大きくならない」という考えで、貨幣を「水増し」して市中に流す政策を推進しました。要は、なんとかミクスと同じですね。しかし、経済を大きくすること自体が、江戸時代には悪なのです。「武士の政権である幕府をあずかる者が、こともあろうに、商人と結託して金儲けをしようとしている」と断罪されるのです。これは「思想」の問題なので、正と邪しかありません。効果は関係ないのです。


幕府の財政は早晩行き詰る。だったら、商業振興して景気よくして、そっちから税金を取ろう。当然の発想です。家計でも会社決算でも国家財政でも一緒です。赤字で困ってるなら解決策は二つ、収入を増やすか、支出を減らすかです。従来、幕府の収入はほとんどすべて農民からの年貢です。商業は悪である、武士は商売をしてはいけないし、商人の上前をはねるような卑しいことはしてはいけない、これが朱子学の思想であり、幕府の基本姿勢です。


ということは、収入を増やそうとすれば、新田開発か年貢率を上げるかしかない、そんなのはすぐ限界がきます。柳沢のやり方が「けしからん」といって、柳沢を追い落として政権を奪取した新井白石は、何をしたか。結局「何もしない」ことが一番、ということになります。新しいことは何もしない、今までやっていたこともすべてやめる、それが、アンチ柳沢の時代の新井白石の政治です。しかし、江戸幕府の常識からすれば、こっちのほうが「正しい人」なんです。柳沢は悪党、という常識は、こうして作りだされたと言っていいでしょう。「柳沢は、低い身分から成りあがった男だから、武士にあるまじき政治を平気でやれたんだ、けがらわしい」。これ、客観的には事実です。生まれも育ちもご立派な門閥老中には、絶対できないことを、柳沢はやりやがったのです。だから、身分制度のうるさい時代に嫌われたのです。


徳川吉宗、松平定信、水野忠邦、つまり江戸時代の「三大改革」として称賛されているものも、基本は「倹約あるのみ」です。これが正しい「武士の政治」なのです。そんな手段じゃもうだめだ、新しい収入の途を考えよう、商業を振興しよう、商人に課税しよう、というのは、普通に考えればごく当然の発想ですが、武士たるもの、そのようなことは考えてはいけないのです。それが朱子学に立脚した「農業立国・江戸幕府」のドグマなのです。


ですから、景気浮揚、貨幣流通量増大、商業振興といった政策をおこなえば、大悪党のレッテルを貼られて抹殺されるのです。ちなみに、同じ系譜の政治家である田沼意次も、そういうふうにして断罪され抹殺されました。そういう思想で出来上がっている政権が江戸幕府です。そういう時代だったんだからしょうがない、としかいいようがありません。


また、いわゆる「生類憐みの令」についての誤解は根深いものあります。生類憐みの令を「天下の悪法」と決めてかかる従来の言説は、綱吉が跡継ぎが生まれないのを悩んでいたところをインチキ坊主に騙されたのだ、とか、綱吉がイヌ年生まれだからイヌを大切にすれば子供が生まれると信じてたのだとか、そういう悪質なデマがついて回りますが、これらはみな、幕府政治に反感を持つ人々が捏造した俗説です(時系列的にありえないことが実証されています)。


これは綱吉の「日本はこれから、どうあるべきか、どう治めていけばよいのか」という国家観、政治的信念からきているものなんです。つまり綱吉は、戦国以来の殺伐とした社会風潮を、このへんで改めて「文治国家」に変えていきたいと願っていたのです。大名も庶民も力ずくで押さえ込もうとしたのが、父・家光時代の政策です。これを転換し、学問を奨励し、人の心を優しくしようと努力します。何事も「力づく」が横行し武士も町人も何かと言うと喧嘩で殺しあうような気風を、改めようとしていたのです


「幕府は強いんだから、従わなければ殺すぞ」という政治は「じゃあ、オレより弱いヤツは殺してもいいんだな」という庶民を生みます。イヌを殺してウサを晴らしているものは、いずれ弱い人間を殺して金品を奪うようになります。そういう社会を改めるためには「道徳教育」しかないのです。大原則としては、庶民のためにもなる、正しい政策です。つまり綱吉は、並々ならぬ信念を持って政治をしていたんです。


だいたい、生類憐みの令、という法令はありません。「野良犬を放置するな」とか「動物をむやみに殺すな」といった数多くの法令の総称です。犬に関する法令が多いのは、それだけ当時の江戸に野犬が多くいた、ということで、綱吉が犬好きだったせいではありませんし、人より犬がえらいなんて言ったことは一度もありません(あたりまえです)。中には「捨て子をしてはいかん」とか「捨て子を見つけたら放置せず、町内で保護しろ」とかいった、ごくごく人道的な法令もあります。


庶民が悪政に苦しんでいたというのも、ウソです。「イヌを殺して死罪になった、島流しになった」という実例はありますが、これはみな「確信犯」で、政治批判のために衆人環視のなかでワザとやった者のみです。庶民というのは、政権に対してはたいてい反抗的なものです。綱吉の意欲的な政治は、大半の庶民にとって「うるせえなあ」というものだったでしょう。


政権批判の言動をする者は人気を取り易いです。「将軍は、跡継ぎが欲しいといった身勝手な動機から庶民に迷惑を強いている」という俗説に飛びついてしまうのも仕方ないところです。しかし、綱吉の時代に江戸の治安は劇的によくなり、おかげで経済が大発展し「元禄文化」が花開いたのも事実です。


経済政策についていえば、元禄文化が花開くというのは、経済活動が活発になる、みんないっぱいお金を使うようになる、ということです。ですから、国の経済を発展させようとすれば、貨幣の流通量を増やさなければなりません。これが社会のニーズです。


でも、金山の産出量がいきなり増えるわけではありません。じゃあどうするか。金の含有量を減らして、お金を増やすしかないんです。これが「経済発展したい、豊かになりたい」という国民の要求に応える唯一の道です。質の悪い金貨を作るのはインチキじゃないか、という批判に対して、勘定奉行・荻原重秀は、こう言いました。「幕府の刻印が打ってあれば、瓦だって一両である」。


つまり、この勘定奉行は、世界で始めて「信用通貨」というものを発明した天才なんです。貨幣というのは、そのものの価値ではなく、その価値を政府が保証しているから通用する、だから金の含有量なんか関係ない。瓦だっていい、紙だっていい。現実に、紙幣という「紙のおカネ」で経済を回している現代人には当たり前のシステムを、はじめて思いついて実行したのが、この荻原なんです。まあ、早すぎて、なかなか理解されず「経済が混乱した」というのは確かですが、豊富になった貨幣流通量が、元禄文化を花開かせたのは紛れもない事実なんです


綱吉の政治を否定する人というのは、要するに、そういうのがまるごとひっくるめて理解できない人々です。「庶民は豊かにならなくていい、経済が発展なんかすれば武士が貧乏になるばかりだ、商業はなるべく抑え込むのが正しい」。つまり新井白石みたいな思想が、江戸時代のスタンダードだった。なので、綱吉時代の政治は否定され、「悪政」というレッテルを貼られ、今に至っているんです。


さらに言うと、大規模な検地や領地の再編などにより、幕府領を280万石から一気に400万石に増加させたこと(綱吉までの時代、農地開発など盛んだったのに、その結果が把握されていなかった)。代官を土着から中央から派遣する官僚に変更するなどの、幕府の行政機構の大改革をしたこと。金銀の鉱山産出が頭打ちになる中で、海外貿易に制限を設ける一方、長崎会所という組織を作って、管理と各府の利益確保をしたことなど。


専制的な政治で嫌われわれはましたが、先の回答者の方々の挙げていることも含めて、暗君どころか、30年近い治世で非常に業績の多い君主です。



↑どうですこれ。

凄まじく勉強になるベストアンサーでないですか。もうこれ以上の解説ないでしょう。後世に残すべき名文である。見解レベルが高尚すぎて、この無知ブログに転載すべきものでは無かったぽいですゴメンナサイ。されど、おかげさまで綱吉の見方がガラリと変わりもうした。劇的ビフォア・アフターです。私が質問したわけではないですが、心からありがとうございました!これ以上、私めごときが口を開くのも、おこがましく憚られるので、これにて終わりもうす!