ひとり一つの歌
幼稚園の誕生日会へ行く。11月生まれの子どもと保護者たちが遊戯室に集まり、ひとりずつ子どもへの手紙を読みあげる。最初は泣きながら幼稚園に行っていたのに今は毎日楽しみで自分で用意ができるようになったね、お父さんとお母さんのところに生まれてきてくれてありがとう宝物だよ、などなどみんなわりと長いお手紙を書いていて「おたんじょうびおめでとう。みんなでげんきにくらそうね」としか書いていなかった私はずっとヒヤヒヤしていた。園からは指定のカードを事前にもらっていたのだけれども、みんな裏も表もデコレーションしていて紙を継ぎ足したり絵本風にしていて、表しかデコレーションしていなかったのは私しかいなかったかもしれない。
保育園から幼稚園に移って2ヶ月、子どもに割く時間は増えた。ならもっとできることがあるのではないか、増えた時間を自分のために使いすぎているのではという不安、けれども子どもを大切に思う気持ちは嘘ではないという自信。それらが混ざりあって手紙の最後に「大好きだよ」となかった一言を付け足した。なんにせよ愛に溢れた時間と空間だった。
誕生会のあとは子どもと別れて雨のなか駅へ向かう。電車の中にいる人はみなスマホをさわったり、雨の街を眺めたり。私も遠くの山肌に建ち並ぶ家々をぼんやり眺めていた。親という役が剥がれていく、寂しいが静かなときでもあった。
はじめての短歌教室はとても緊張した。自分の作品について面と向かって何か言われることというのは作者対読者の関係性の中でしかなく、作者同士が読みあい色々言い合うというのははじめてで、ずっと顔が赤かったと思う。それに言い合うとは書いたがほとんど他の方が話をされるのを聞いていた。言いたいことを言葉にできなかったビブリオバトルのことを思い出す。私はもう直接言葉を交わすという選択をとらない方がいいのではと考える。それでいて独りよがりにならないやり方を模索したい。
こうは書いたけれども受講生の方はみな真剣に歌について話しつつも程よく脱線して、その緩急がもたらす雰囲気が穏やかでとても良かった。短歌は生活とともにあるものと実感する。
親として子として過ごす私たちひとり一つの歌を持ちつつ
たった一人の個人に帰る。そしてまた役割を背負う。その繰り返し。