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やわい屋

十五冊目【現代人の祈り ~呪いと祝い~】

2018.09.26 07:55

【現代人の祈り ~呪いと祝い~】

著者 釈徹宗:内田樹:名越康文

出版社 サンガ


「中央フリーウェイ」のように、見えてくる景色を描写するというのは、「予祝」の法則にのっとっています。「予め、ひと通り先取りしてしまう」というのが「予祝」の手法です。農耕のお祭りなどは、田植えから刈り入れまで、すべての行為をひと通りやってしまいます。それが予め祝うことになる。また、「予め嫌な目にあわせる」という祝いの形もあります。たとえば獅子が頭を噛むことや、ナマハゲがそうです。そして、それらが予祝となるためには、絶対にひとつの条件が必要です。それは、「子供が怖くて泣いている時に、隣で親父がゲラゲラ笑っている」ということです。


釈徹宗、内田樹、名越康文という名だたる面々が揃って面白くないわけがないのですが、予想通りいい意味で脱線という、話がどこまでも膨らんでいって自然と収縮していき、はっとする言葉がポンと産まれてくる…そんな対話が数本収められています。「予め、ひと通り先取りしてしまう」という「予祝」は「予言」と同じようなもので、「預言」とは異なるようにおもいます。「預言」は「言葉を預ける」と書きます。未来になんらかの意思や想いを預ける言葉が「預言」。対して「予言」は「予め言葉を伝える」似ているけど少し異なります。ぼくは「予言」は「予定」と同じように「変わってもいい暫定の未来」であるように感じてます。「預言」の預けるということには確実性が付いてまわります。「預けたもの」は、かならず元の形があって、それが預けている間に変化することはあまり好まれません。(成長するものなど一部例外はありますが…)しかし、予定は「予定は未定である。」という言い方があるように「予言」も、もっと曖昧で力の抜けたものでいいように感じます。「そうなったらいいなって思うんだよなぁー。」という風に未来を想像することは、大切なことです。「こうなる!こうならなければいけない!」というのは、どうも僕の性にあいません。未来の為に、よりリアルな「予言」を残すためには、現在と過去について深い思考を巡らせなけばなりません。「過去のどんなものにも影響を受けていないもの」はありえませんし、過去を(史実の結果のみならず、思考のプロセスや、それが成り立った周辺の環境について)学ぶことは、未来を想像するためのエネルギーとなるものなのです。まさに、温故知新「古きをたずね新しきを知る」ですね。


そこで、冒頭の引用に戻って、「予祝」の話です。ぼくらはパラダイムシフトと呼ばれるおおきな時代の変換期に今まさに生きています。そして、様々なひとが理想の未来や理想の生き方・働き方について言葉を述べています。それらの未来を受け取る側が、ただ受け取るだけでは「預言」を信じて待ち続ける人々のように、預かった未来だけを大切にするあまり、目の前の現実を見ることが疎かになってしまいます。それよりは、予め様々な未来の形を実践してみて、身体に合わないものはきっぱりと諦める。トライ&エラーを繰り返すほうが健全な気がします。ひとつのことを信じることはすばらしいことですが、先日も書いたように「無批判」に受け入れることは、危険が伴いものです。システムの中にいながらそのシステムを達観的に見て、必要であれば批判することも大切なことです。その意味で「社会」の最小限のモデルは「家族」です。伴侶は同期、親は上司、子供は部下に置き換えて考えると、いずれの意見も無批判に受け入れたら「家庭=会社」がむちゃくちゃになるのは時間の問題です。大切なのは会社でしたら会社全体の利益や組織のバランスですし、家族や個人の場合も同じような原理が働いています。


それでは、どのようにして未来を予言し、その予言を現実のものにしていくのか。といえば、ヒントは「中央フリーウェイ」にあります。「見えてくる景色をそのまま描写する」この単純なことが「予祝」になります。つまり、理想とする暮らしを予め行って、その営みをただ見たまま感じたままに言葉に変えて伝えていけばいいのです。別に難しい表現や横文字を与えなくても、山は山のままで美しいし、営みは営みのままですばらしいのです。そして、理想の営みとは「変化しない普遍的なもの」ではなく、「微細な変化を日々繰り返して、常に最適な姿に調整されている状態」を指します。「生活」というものが、他者・自然・社会という自分以外のものと関係を持って存在している以上、「変わらない」というのは軋轢を生む原因となります。むしろ周囲の環境や自分自身の変化に順応する営みが、もっとも強かで末永く続く営みだと思います。


わかりやすくたとえるなら「ラーメンのスープ」です。スープの味を左右する水も野菜も油も、あわゆるものは毎日同じ性質で供給されることはまずあり得ません。亭主は「変わらない味」を守る為に、日々変わる材料で「いつもと同じ味」を作り出します。その為には、微細な変化を感じとり最適な状態に調整(チューニング)する技術が求められます。それをして人はその味を「変わらない味」と賞します。営みも同じように「昔から変わらない営み」といいながらも、今も続いているものは、強かに周囲の変化に対応していくそんな営みだったのではないでしょうか。これからの未来を生きる僕らは、老舗の味のようなに、日々周囲の要素と折り合いをつけつつ、変わらないものはきちんと守ることが出来るのでしょうか。日々の挑戦は続きます。