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田野畑村 2018年8月

2018.08.08 15:00

震災被災地を巡る旅を(ほぼ)毎年続けています。 

今年は、岩手県久慈市そして田野畑村を訪れました。 


なぜ久慈市、田野畑村だったとのか、と言われると、それは「あまちゃん」だったから、という答えになります。
2013年の連続テレビ小説として放送された「あまちゃん」。
その舞台のモデルとなったのが久慈市だったのです。 

恥ずかしながら、放送から5年が経過して、今更CSテレビで再放送されている「あまちゃん」にどっぷりはまってしまっておりまして。
いやあ、おもしろいですよねえ「あまちゃん」。 
そんな小さな動機が、この後ちょっとした悲劇を引き起こすことになるとは、思ってもいませんでした。 


2018年8月9日。この日は台風13号接近中の、最悪のコンディション。
今年は全国各地で猛暑のニュースが伝えられる中、この日は最高気温が21度という、肌寒く感じるほどの天気でした。 訪れたのは、三陸鉄道・田野畑駅。
「あまちゃん」の中でも、主人公の親友が「アイドルになりたーーーい!」と大声で叫ぶシーンなど、いくつもの名シーンが撮影されたスポットです。

三角屋根の、とってもおしゃれな駅舎。

お話をお伺いしたのは、NPO法人・たのはたネットワークの宮森さん。 


宮森さんは震災当日、車で走行中でした。
突如車でまっすぐ走ることができなくなり、駅の駐車場に車を停めます。
そこで初めて地震が起こっていることに気づきました。
下から突き上げるような衝撃は、もはや立っていられないほどだったそうです。 

地震が収まった後、直感的に津波の危険性を感じた宮森さんは、まず車のラジオで情報を確認します。
釜石に津波が到達したとのニュース。これは、すぐにこちらにも到達するに違いない。
すぐに車を離れ、避難を開始します。 

駅の近くの橋を渡ったころ、地面を揺るがすような地響きを感じ、振り返ります。
海の方に、土煙があがっているのが見える。
何が起こったのだろうと思っていると、すぐに津波が押し寄せてきます。 
正直、最悪の事態を想定し、覚悟をしたのだそうです。

これはすぐに津波が襲ってくる、駅もすべて流されてしまう。
自分も助かるまい。

しかし、幸運なことに、津波は駅の手前数十メートルのところで方向を変え、駅舎が流されることはありませんでした。
しかし駅前の駐車場には、流された家屋のがれきや、漁船などが残されていました。 

上の写真、奥に見える三角屋根が駅舎です。
その直前までがれきが押し寄せたことがよく分かります。 

そうこうしているうちに、おびただしいほどのがれきの波が、橋の下に通る小川を遡っていきます。
川のほとりの住宅は次々に流され、あとかたもなく粉々になっていきます。


 「土煙を見てから、そこまではあっという間のことだったよ。」


地震が発生してから、田野畑村に津波が到達するまでは約40分。
最大の津波到達高度は25.5m。 


駅のすぐ裏手の山を登った中腹あたりにある広場が、この地の避難場所になっています。
従来は学校や公民館などが避難場所になっているものですが、ある時にシミュレーションをした結果、この地の学校では標高が低くて津波が到達する可能性があるとわかり、震災の5年前ほどに山の中腹に新たに避難所が設けられたのだそうです。

この階段を登った先に、避難所があります。結構な急勾配。

 この地域の住民の皆さんも、地震の後に次々とこの避難所に集まってきます。
今は樹木が生い茂っていますが、震災当時は3月中旬。
ここから地域全体が見通すことができました。

みるみるうちに津波が迫り、家々が流されている状態を目の当たりにした皆さんは、ここにいるのも心配になって、さらに山を登ろうとしたそうです。
この避難所までは階段で登れますが、これより上はただのがけ。
それでもご高齢な皆さんが次々に山を登って行ったのです。 


それが下の写真の山。ここ、登れますか?

あとから聞いたところによると、 「津波とこの避難所が、同じ高さに思えた」とのこと。
今から見れば、津波が到達した場所からこの避難所には、数十メートルの標高差があります。
それでも迫りくる津波を目の当たりにしたとき、それが同じ高さに見えるほどの危険を感じた。

その恐怖、いかばかりか。

この地区では、お二人の方がお亡くなりになったそうです。
お一方は「津波はここまでは来ない」と頑なに言って、家を離れようとしなかった人。
もうお一方は一度避難所に避難しながら、忘れ物を取りに行ったのか、もう一度家に戻ってしまった人。 

宮森さんは言います。 
「油断した人が、助からなかったんだよね」 

流されなかった駅舎。鉄道はもちろん走れません。しかし、お店を流されてしまった商店の方々が、この駅舎を使ってお店を再開すると、地域の人が自然とそこに集まる場となっていったのだそうです。

みんながみんな今の生活も、先行きも不安だらけの中。
“そこに行けば誰かに会える”と思えるその場所があることが、どれほど心強かったか。 

そこがあったから、自分も生きていけた。宮森さんは言います。

三陸鉄道北リアス線は、2014年4月に全線開通し、駅は本来の姿を取り戻しました。 
来年の2019年3月には、今も不通であるJR山田線(宮古〜釜石間)が開通して三陸鉄道に移管され、第3セクター鉄道としては日本最長の路線が誕生します。
その時にはまた訪れてみたいものです。 


宮森さんからのアドバイス。
絶対準備しておいた方がいいと痛感したものが、2つ。 
それは、ラジオと、懐中電灯だそうです。 

あの時、車の中でラジオを聞いて、津波が来ることがわかったからこそ、行動に移せた。
電気も届かない緊急の時に、本当に不安になることは情報がないことです。
そんな時にラジオはとても大きな力となります。 


私は大学時代、阪神・淡路大震災を、兵庫県川西市で経験しました。
あの日は明け方、電気が止まりテレビも何も使えない中で、やはりどこで何が起こっているのかわからないのが一番不安でした。
その時に同じ寮の仲間の持っていたラジオが情報の頼りでした。
その時のことを鮮明に思い出します。 


この地には過去、明治29年と昭和8年にも、津波が来たことが伝えられています。
その時は深夜だったそうです。今回は昼だったが、もし夜中に津波が来ていたら・・・懐中電灯はまさしく命をつなぐ灯となっていたでしょう。 

今でも宮森さんは、寝床のすぐそばにラジオと懐中電灯だけは、置いて眠るのだそうです。 


震災から7年半。まだ工事車両は多いものの、さすがに街に震災の爪痕は少なくなりました。
特にこの地では、津波の到達した場所には新たに家を建てることが許されないという影響もあるでしょう。
住宅街や商店街が軒並み流されてしまい、その後には家を建てることもできないので、他の地に移り住んだ人がほとんどなんだとか。

そこには整地された土地だけが残ります。

田野畑駅の駅舎の壁に、地元の高校生たちのメッセージが書かれています。 


「一人で悩まないで」 

「上を向いて生きていこう」 

「その痛みが君を守ってくれる」 

「Keep the Smile!」 


皆が集う憩いの場に書かれたこのメッセージに、どれだけの人が励まされたことか。 


今年は全国各地で、自然の脅威と畏怖を、改めて実感させられる出来事が続いています。 
私たちも、生活を取り戻そうとがんばっている全国すべての人々に、こんなメッセージの思いを乗せて、演奏できればと思います。 


p.s. 「ちょっとした悲劇」の話。 

このお話をお伺いした後、三陸鉄道で久慈駅まで行ってみたところ、「あまちゃん」ロケ地を巡るというロケをしていたテレビ番組の撮影に、偶然巻き込まれてしまいました。 
詳しいことはあまりに恥ずかしいので秘密にしますが、なんだか、“ものすごい「あまちゃん」ファンな人”扱いになってしまいまして。
もし万が一放映されてしまい、億が一皆様の目に触れるようなことがあったとしたら、本人はとっても落ち込んでいると思いますので、優しくしてあげてください。。。