山田長政の時代
山田長政(天正18年(1590年)頃 ― 寛永7年(1630年))。駿河国生まれとされ、沼津藩主の駕籠かきとして仕え、1612年ごろ、朱印船でシャム国(現在のタイ)に渡り、日本人町の長として東南アジアで活躍した。通称は仁左衛門(にざえもん)。
当時のシャム国ではアユタヤ王朝が全盛期を迎えていた。15世紀ごろから中国とヨーロッパを結ぶ貿易の一大拠点として栄え、ポルトガル、スペイン、オランダ、中国、日本、琉球ほか東南アジアの多くの商人が居留地を設けた。日本からも御朱印船が多く来航し、鹿皮や香木を求めた。
中でも日本人町は最大級の規模を誇り、最盛期には800人を超える商人や武士が出入りした。岩生成一『南陽日本人町の研究』によれば、アユタヤ在住の日本人は「同国の軍事方面に最も華々しく活躍した。1611年には、国王の近衛兵に勤務せる日本人が、あるいは280人、あるいは4、500人あったと伝えられている。当時南洋各地において日本人移民は勇猛好戦的の評を得て」、国王の軍隊でも優位の地位を占めていたはずだ。このことはオランダ商館長の本国への書簡にも記されている。
長政の伝記については憶測や誇張が多く、信ぴょう性に乏しいとされているが、明治以降、オランダやポルトガルなどの古文書研究から、長政がアユタヤに渡った年代などが明らかになりつつある。 同書によれば、また1609年から1688年までの日本人町の頭領の名前が記録され、山田長政は1620年から1630年までオヤ・セナピモクという同国第二の官爵を得て頭領として日本人町を統治しただけでなく、ソンタム国王の傭兵としても活躍した。長政の行動範囲は日本との間だけでなくジャワやマラッカ、カンボジアなど東南アジア全体に広がっている。アユタヤで頭角を現してから、東南アジア有数の貿易商として名を成したことは確かなようだ。
1621年のアユタヤ使節の来日に際して、同行させた部下を通して時の老中、土井利勝などに書を送るなど関係強化を図り、その後も九州などの有力者に贈り物や書状を送り、日本とアユタヤの修好につとめた。 ソンタム国王の死後は王位継承をめぐって内乱が起きた時、長政は「日本人800人、アユタヤ人2万人を統率してピペリに出征し、大いに日本人の勇名を轟かせた」が、六昆(リゴール、ナコーンシータンマラート王国=マレー半島北部のタイ南部)の太守として左遷され、毒殺された。死後、その遺児が太守の座を地元民はなびかず反乱を起こしたという。
オランダの資料によると、長政は1630年、パタニ軍との戦闘中に脚を負傷し、傷口に毒入りの膏薬を塗られて死亡。毒殺は王室の有力者、カラーホーム(シーウォーラウォン)の密命によるという。日本人の影響力を嫌った王室によってアユタヤの日本人町も焼き討ちにされたものの、その後復興し、日本人たちは鎖国後も18世紀初頭まで活躍した。(萬晩報主宰 伴武澄)