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一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

vol.17「菱川師宣」について

2023.11.30 12:14


「浮世」と言えば「浮世絵」である。そして「浮世絵」と言えば「葛飾北斎」や「歌川広重」や「写楽」や「喜多川歌麿」らへんが有名で、絵のイメージも浮かぶのだが、けど急に「菱川師宣」って言われても、いまいちピンと来ない。いま1どころか、いま8くらいピンと来ない。もうピンと来る来ないの距離感ではなく「名前だけは知ってますけどレベル」と言うか、ほんなら読み方言ってみろ、と言われたら「ごめんなさい知ったかぶりました本当は名前すら知りませんレベル」である。のでググると、↓ こんな言葉が。



● 浮世絵の祖「菱川師宣(ひしかわ もろのぶ)」

例えば葛飾北斎や、東洲斎写楽、喜多川歌麿らの著名な浮世絵師が存在しなかったとすれば「浮世絵の歴史」の流れが大きく変わってしまうだろうことは想像に難くありません。しかし、菱川師宣の場合、その影響は「流れが変わる」程度にとどまらず、彼なしには浮世絵が存在せず、浮世絵の歴史自体がなくなってしまいかねないのです

ジョン・コナーかよww 

何がそんなに凄かったのか興味湧いてきたぞ、師宣!(←もろのぶて響きが気に入った)けども、どのページも情報量多くて長い。しかも肝心の絵が少なくて文字ばっか。うへ。べたっとリンク貼り付けて終わりたいところだが、私は真面目なのでポイントだけ摘んで以下にメモることをがんばる。私ってば偉い。誰も褒めてくれないし自分で自分を励ます。



家業の「縫箔師(ぬいはくし)」になるため修行で江戸へ。そこで絵師の名門「狩野派」「土佐派」「長谷川派」の手法を学び、我が物に。さらに自ら工夫を加え、オリジナルの画風を完成。その才能で絵師の仕事に軸足を移してゆく。

お、おう。でも家業はどうすんだ師宣。



その頃、日本は出版ブーム。木版出版の流行により町に書店が増え、書物が一般庶民の手の届く物になり、浄瑠璃本、御伽草子、仮名草子、男女の情愛を描いた枕絵本、などが庶民の娯楽として普及。学問のための「読書」ではなく、娯楽としての「読書」が浸透し、庶民の識字率が上がっていった。師宣が挿絵の絵師としてデビューしたのも、そんな出版ブームの最中。

だから家業は? 師宣。



当時「絵師」と言えば、朝廷や幕府などの有力者の庇護を受けた「御用絵師」で、先に挙げた狩野派や土佐派などの有名画派に属している絵師がほとんど。それゆえ、画派に属さないフリーの「町絵師」が名前をアピールするという発想はありません。ところが師宣は、自らの名前を出して「町絵師」の存在をアピール。この行動が町絵師の地位向上へとつながっていきます。現代で言う「セルフ・ブランディング」、自己のブランド化を積極的に行なったわけです。

さては家業継ぐ気なかったな、師宣。



師宣が行なった工夫で最も浮世絵の発生につながったのは、挿絵を大きくしたこと。絵を主役にし、文章は紙面の5分の1程度に抑えました。この手法は、大きな消費を生み出します。すなわち、文字を読むのが苦手でも本を読みたいと言う庶民が、出版ブームの新しい消費者として取り込まれたのです。その影響力はこうした出版物が「師宣絵本」と呼ばれたことにも見て取れます。師宣はまさに新しいメディアを作り出したのです。


「絵本」と言っても、現在の絵本とは少し意味が異なり、絵師が絵を描く際の見本・模範となる画集や図案集のような物。あくまで絵描きに向けた「絵の見本」としての形式を持つ出版物。ところが、これが一般の人々に売れていたことから、文字が苦手でも楽しめる本としての絵づくしの可能性に着目し東海道分間絵図』という東海道のツアーガイド本を発表。東海道の街道の情景を絵で描き添え、宿の名前や宿場間の距離、名所名物、茶屋、川の渡り方など、実際に東海道を旅する人のためのビジュアル・トラベルガイドとしての役割を果たしました。それは歌川広重の『東海道五十三次』の100年以上前のこと。

う。私も「文字ばっか、うへ」とか言ってた覚えが。。



1685年に発表した『和国諸職絵つくし』では、番匠(大工)、鍛冶屋、壁塗り、屋根の葺き替え、刃物の研師など、当時の様々な職業の仕事風景を記録。1695年の『和国百女』では、武家の奥方、商家、農婦、町人、遊女、比丘尼(びくに:女性の僧)など、様々な女性を描きました。砧打ちや織物、洗濯といった日常の作業を行なう女性の姿が描かれていることは注目に値します。もはやその対象は様々な日常風景へと拡がったのです。身分や職業、性別にかかわりなく庶民生活を切り取った師宣の絵は、町人文化として浮世絵が普及するきっかけになったのです

なかなかやるやん、師宣。



1672~1689年に作成した『北楼及び演劇図巻』の題材は、江戸の悪所(あくしょ)と呼ばれた吉原遊郭と、歌舞伎の芝居小屋。今では浮世絵の題材として「遊女」や「役者」は定番として知られていますが、当時そのような題材を描く絵師はいませんでした。浮世絵の「定番」を作ったのが、他ならぬ師宣だったのです。また、悪所だけでなく例えば「船遊び」や「盆踊り」「花見」など、庶民の行楽も描きました。江戸の人々が集まって騒ぎ、喜び、笑い、楽しむ姿を描いた絵は、またひとつの娯楽として江戸の人々に受け入れられたのです。庶民に受け入れられる題材を選び、浮世絵を娯楽として定着させたことは、彼の大きな功績だと言えます。

けっこースゴいじゃないか! 師宣ぅ〜。



師宣の生み出した革新的なビジネスモデルの頂点は「版画を一枚絵として販売する」と言うもの。それまで高価な1点ものだった「絵」が、版画によって安価で大量生産が可能となり、そば1杯分くらいの値段で買えるように。公家や武家、豪商のような富裕層だけでなく、一般の庶民にも「絵画を所有する」体験が可能になったのです。物語や実用書の付属物だった「絵」そのものが、単独で商品として扱われることも画期的でしたが、それ以上に、版画と言う生産方式を組み合わせることで、ひとつの文化を生み出したと言えます。挿絵に始まった木版画は、役者や花魁、力士のブロマイドとして、あるいは名所ガイドやニュース、広告として、子供のおもちゃ、大人の性愛の楽しみとして……様々なニーズと結びつき、またたく間に広まりました。師宣が発明した「一枚絵の版画」は新たなマーケットを創出し、やがてその舞台であとの浮世絵師達がしのぎを削ることになるのです。


にんとも、かんとも。つまり「絵」というものを、ひとつの「娯楽」としてポジション確立しちゃったのが、マスター師宣なのですね。確かにそれは、なかなかのパイオニアですな。しかも、先駆者にありがちな「既存勢力との戦い」とかも全然なしにスルスルっとニーズ開拓しちゃった鮮やかさが、またスマートで小気味よい。誰も気づかなかった草むらに「こんな良い横道あんじゃん」的な。で、みんな「まじだ〜w」みたいな。



それにしても、さすが引用先の「刀剣ワールド」さん、今回も実に充実した内容で。刀も剣も一切出てこないのに、大満足の読み応え。ごっつぁんです! もうね、どのくだりも良い文章すぎて、端折るに端折れないので、以下はまんまコピペさせていただきますわ。wikiよりずっと分かりやすく勉強になりやす。あざーすっ!

https://www.touken-world-ukiyoe.jp/ukiyoe-artist/hishikawa-moromobu/



● 「浮世絵の祖」と呼ばれた理由

かくして浮世絵の礎を築いたのが菱川師宣です。この功績だけで十分と思われるかもしれませんが、もうひとつだけ重要な要素があります。菱川師宣の出版した本は「絵づくし」あるいは「絵本」と名付けられ、浮世絵としては発表されていません。


そもそも「浮世」とは、仏教用語で「憂き世」(辛く苦しい世)と「浮世」(フセイ、はかない世)と言う2つの意味を持つ言葉。特に江戸の中期には後者の意味が強くなり「わたし達の生きている今」を意味する言葉として親しまれました。したがって浮世絵も「今を描いた絵」と言う意味で使われています。この言葉には、他の絵が「わたし達の今」を描いていなかったと言う意味が隠されているのです



幕府公認のいわゆる「御用絵師」達の考えでは、先人の残した「絵の手本」を参考にして、古典の一場面を描くことこそが絵師の本分。その題材は古典に求められ、眼差しが浮世へ向けられることはありませんでした。


一方、菱川師宣が題材にしたのは浮世に他なりません。移り変わる流行や景観、祭りや遊郭など、これまでに示した題材はどれも目の前にある「江戸の庶民の今」。人々は「今生きているこの瞬間」を楽しみ、絵師はその「今」を記録します。この姿勢は、菱川師宣のあとに続く絵師達にも受け継がれ、やがて人々は彼らのことを浮世絵師と言う名前で呼ぶようになるのです。


ちなみに、当時から浮世はもうひとつの意味も持ち始めました。つまり「どうせ儚い浮き世なら、とことん楽しもう」と言う享楽、快楽を意味するようにもなります。実際、菱川師宣も数多くの「枕絵」と呼ばれる性愛の世界を描いた作品を残しました。その数は膨大な作品の半数を占めていますが、この題材もまた浮世絵の定番のひとつであり、あとの浮世絵師達にも引き継がれていきます。



● 流行~「時世粧」を書き残す

和国百女』のなかで、菱川師宣は様々な階級、あらゆる職業の女性の生活を描写。それは同時に「時世粧(じせいそう)」すなわち、その時代のファッションを写し取り、描き残すことになります。例えば人々が着る衣装の形、衣服に使われる生地の柄、帯の結び方、髪型、アクセサリー、小道具……。菱川師宣の絵には、流行や風俗への鋭い眼差しを見て取ることができます。もともと縫箔師と言う服飾デザインの専門家だったことが影響しているのかもしれません。

江戸における町人文化の誕生は、1657年の「明暦の大火」と関係しています。明暦の大火は江戸の町を6割も焼き、武士も庶民も関係なく10万人におよぶ死者を出した未曾有の大火災でした。大火災のあと、江戸復興のために多くの職人が集結。江戸のあちこちで工事が進み、復興の過程で各地の技術と意匠が持ち込まれました。火災は江戸のひとつの文化を焼き尽くすほど猛威を振るいましたが、人々は復興のなかで新たな文化を生み出していきます。


結果として、上方の影響を抜け出た江戸独自の新しい流行や習俗の発達が始まりました。復興がもたらした空前の好景気のなかで、芽吹いた文化が新しい商売へと昇華していく時代となったのです。ファッションの移り変わりだけではなく、出版ブームもこうした背景から発生。菱川師宣の描き残した「時世粧」は、その記録の確かさにより資料的価値も高く、江戸初期に生まれたこの独自の文化風俗を現代に伝える貴重な資料にもなっています。


流行り廃りについては、菱川師宣自身も痛い思いをしました。実家の家業である縫箔師の仕事が、流行の変化によって立ち行かなくなってしまったのです。縫箔師の仕事は、着物に刺繍や金銀の摺箔などの派手な装飾を施すこと。安土桃山時代に流行した派手な「慶長小袖」ですが、江戸時代に入るとめっきり流行らなくなってしまいました。


流行の変化は、戦乱の終わりと結び付けられて説明されます。安土桃山時代には、明日をも知れぬ戦いの日々のなか、どれだけ尖れるか、目立てるかと言う「かぶき者」の精神がもてはやされました。しかし、江戸の泰平が深まるなかで幕府による「法度」や「倹約令」が相次ぎ、武士も庶民も地味で目立たず、従順なおとなしい服装が推奨されるようになったのです


そうした状況で縫箔師と言う家業を継いだのは、菱川師宣の弟。しかし、彼は衣服をゴージャスに装飾する縫箔師として家を維持することを断念。かつては業務の一部に過ぎなかった、布地を染める業務を主軸に据え「紺屋」としてなんとか家を守ることになります。



家業、継がなくて良かったね、師宣w


は〜、しかし浮世絵の歴史に、こんな奥深い功績のある開拓者がいたとは、まったくもって知らんかったとです。下手に知ったかぶらなくて良かったー(ぶったけど)確かにこれは、過去に戻って師宣の母親を殺せば浮世絵の歴史が消せそうな勢い。だが! 例えターミネーターが師宣抹殺に成功しようとも、必ずや第二、第三の師宣が現れ、庶民にスポットを当てた浮世絵文化が何度でも再興されるであろう! ガーハッハッハッー!(誰)


おしまい