9月26日 村田町→名取市閖上(ゆりあげ)地区→南相馬市(123km)
昨日とはうってかわって朝から快晴。今日は名取市閖上方面に向かう。
カーナビに誘導され、軽自動車同士でもすれ違うのがやっとという程の、細くて曲がりくねった峠の山越えをさせられる。今までもカーナビのいうことを素直に聞いて、何度かこんな目に遭っている。しばらくは用心するのだが、忘れた頃に、また同じテツを踏む。その繰り返し。事故に遭わなかったのが奇跡と思えるような道もあった。今後は注意しなくては。
さて、難所を過ぎ、車は名取市市街地へと入る。仙台市南隣の名取市は人口8万人程のベッドタウン。ほとんど仙台市の住宅街と地続きといった感あり。仙台空港があるのも、実は名取市内沿岸部だ。
仙台空港にほど近い太平洋沿岸にある閖上地区は、東日本大震災の被害が特に大きかったエリア。10mを超える津波に襲われ、住民の7分の一にあたる700人以上が亡くなり、地区内の建築物の大半が津波によって流されている。
まずは最新情報を得るために観光協会がある「閖上さいかい市場」へと向かう。
仙台空港アクセス鉄道の高架線路の下を走って、美田園駅の手前でちょっと右に入った所に、その仮設商店街はある。
到着してみると、昼時なのに何故かひっそりとしている。おかしいと思ったら、今日は水曜日。市場の商店は一部のラーメン屋さんなどを除いて定休
日であった。
2階の観光協会は開いていたので、名取市についてのパンフレットや地図などをもらい、閖上港方向へと進んでみることに。
港付近では、土木工事が至る所で行われている。
新たな居住区エリアを海抜5mまでかさ上げしたり、
河川の土手を7.2mにするなど、急ピッチで作業が進められているせいか、これまで見てきたどの被災地よりも、圧倒的に重機やトラックの数も多い気がする。
真新しい戸建て住宅や中層のマンションも次々と建設され、
今日も市内仮設住宅入居者を中心に、一部の住宅の入居申し込みが開始されていたようだった。
もうすぐ港というあたりに、鎮魂の場として有名になった日和山がある。
大正時代に海を展望するために作られた標高6mちょっとの築山だが、大震災の津波は、これをさらに2m以上超えた高さで襲ってきた。
山の頂上には大きな松の木が一本。この木の幹に残された傷痕によって、当時の津波の高さが判明したという。
日和山の裏側には、昭和8年の昭和三陸津波後に設置されたという「地震があったら津波の用心」と銘打った碑文が横たわる。
周辺は、ほとんど手付かずの状態。
かつては祭りなどで、近隣の人々が集う憩いの場所であったというが……。
山の傍らで、お地蔵様が今後の行方を見守っている。
車を少し海側に走らせ、閖上港に到着。かつては百数十メートルに渡り植えられていたとされる松林も、わずか46本残されたのみ。
閖上港にある「メイプル館」で食事。ここはカナダ政府から木材等の支援を受けて建設された施設。食事の後、試写スペースで、震災時に閖上地区上空や避難した建物の中から撮影された津波映像を見る。
敷地の隣には、「閖上の記憶」と名付けられた「津波復興祈念資料館」がある。ここは親族を亡くされた被災者自身が、震災を語り継がねばという思いから立ち上げ、運営している。
プレハブ造りの資料館には、2名のボランティア・スタッフの方が居られ、
ここでも津波被害の映像を見せて頂く。その後、スタッフの方が閖上地区の被災状況について、我々だけの為に時間を割いて、以下のような内容を丁寧に教えてくださった。
閖上地区は、過去にも幾度か津波に襲われている。北海道・青森・岩手・宮城で合計3000人あまりの犠牲者を出した、1933年の昭和三陸地震では、閖上地区は小規模の津波に襲われたものの、犠牲者は出なかった。
このときの津波を記録した石碑『地震があったら津波の用心』(前出の日和山にある碑文)には「石巻市沖を震源とする地震による津波は、北東方向から閖上地区を襲ったが、ちょうど牡鹿半島がその波を遮ったため、最小限の津波で済んだ」と書かれていることから、安心感を生み、閖上地区の住民は、津波の経験はあったものの、小さい津波で済んだという記憶だけが残されてしまい、「閖上の津波は貞山運河を越えない」という先入観をもたらしてしまった。
震災時、強い揺れを感じた住民の一部は避難所に避難したが、彼らはその後の津波を恐れたというよりも、「地震の中、家にいるのが不安だ」という思いから避難しただけだった。
地震直後に電話回線が不通、停電で テレビニュースが見られず。住民の情報手段が途絶えた中、行政は防災無線で津波警報を発令したが、機器の故障により防災無線の避難を呼びかける声が住民に伝わることはなく、行政側がこの防災無線のトラブルに気付いたのは4時間後であった。
避難先の公民館で、津波情報が3mから10mへと変更され、2階までしかない公民館は危険だとして3階建ての中学校まで移動するように促され、公民館に避難していた住民の多くは移動中に津波に飲まれてしまい、逆に公民館に残って生き残った住民もいた。
津波の襲来で道行く車は混乱に陥るが、閖上地区にある国道が交わる五叉路につながる大橋は、トラックの積荷落下事故により通行止めになり、避難ルートは遮断されてしまった。
現在、居住区全体の5mのかさ上げ、閖上港の7.2mの防潮堤、津波が溯上した名取川の7.2mの堤防を築く計画が進み、これにより将来の津波の被害がゼロになる保証はないが、少なくとも津波の襲来を遅らせ、津波の規模を小さくすることは出来るであろう。
長い時間説明をしてくださったスタッフの方々に感謝。カンパとしてグッズ等を購入し、資料館をあとにする。
閉館時間が迫っていたが、急いで行けば まだ間に合うということで、スタッフの方から見学を勧められた震災遺構「荒浜小学校」へと向かう。
荒浜小学校は、閖上港から5kmほど離れた仙台市荒浜地区にある。4階建の校舎の2階の中程まで津波が到達したが、中にいた人たちは屋上に避難し全員無事だった。
2階の赤いラインまで津波が到達。
教室になだれ込んだ漂流物。
建物の外観や周辺を見たところで時間切れ。館内の展示物等を見ることが出来ずに閉館時間となってしまった。
「蛍の光」に見送られ、一行は校庭を出る。
車の中で、ふと携帯に目をやると、Kの実家からメールが届いていた。母親が今週末に入院する事になったという。慌てて電話を入れると、さほど心配する必要はないとはいうものの、一行は宮城県の南端に到達したという事で一先ず旅は打ち切りにし、一旦KY双方の実家のある関東地方へと戻ることに決める。
かくして車は白石市方向から福島県相馬市方向へとルート変更し、一路関東方面へ。
今晩の宿営地は福島県南相馬の道の駅「南相馬」。高速道路は使わずとも、明日の日中にはKの実家のある利根川沿の田園風景がのぞめるはずだ。
今後約1ヶ月ほどは、KYの実家をベースに関東周辺に滞在して諸用を済ませ、心機一転、遅くとも11月初めには福島県から再スタートを切る予定である。