キリストに導く律法
こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。ガラテヤ3:24
律法は何のために与えられたのか。19節でパウロは「律法の目的」について話しています。それは、「違反を示す」ためのものだというんですね。律法とは、それを守り行って救いを得るためのものではなくて、自分が罪人であることを明らかにするためのものだとパウロは言います。すなわち、「私たちがいかに(律法を守ることができない)罪深い存在であるかを示すことが律法の目的であり、人はその罪のゆえに御子キリストが身代わりに(神の罰を受けられ)十字架で死んで下さったことを知るに至るというわけです。
24節に、律法は私たちの「養育係」とありますが、それは、律法は「私たちをイエス・キリストのところまで導く働きをしている」ということです。この律法の役目を悟っていたイスラエル人もいたと思うのですが、大ぜいのイスラエル人は、その目的がわかりませんでした。
ルカ18章9節以降には、イエス様が話された「ふたりの人の祈り」のたとえ話が記されています。これは、主がパリサイ人たちに向けて話されたものです。神殿にふたりの人が祈りに来ました。ひとりはパリサイ人、もう一人は取税人です。パリサイ人は、自分はこれほどに律法を守っており、ことにここにいる罪人の取税人のようでないことを神に感謝して祈りました。一方、取税人は遠く離れて立ち、神様に向かって目を上げられず、胸を打ちながら祈りました。さあ、ふたりの内、どちらが神の前に「正しい」とされたのか。、、、実は、取税人が正しいとされました。 なぜ、取税人が正しいとされたのか。 それは、取税人は自らの罪を認めた上で、神様の赦しを乞うていたわけですが、パリサイ人は律法を守っていることで(自らを)神の前に「正しい」=「救われている」と自負していたわけです。主は言われました。
だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。(ルカ18:14)
人は律法を守って救われるのではなく、自分の罪を認めて主イエスによる救いを信じて救われるのです。人は自分で自分を救うことができない罪人であり、ただ、神様に頼るしかない存在です。取税人は神様に助けを求めたからこそ、祈りがきかれて救われたのだと、主は言われました。
私たちも、神様の恵みを忘れて自己中心になるとき、(神の前に)自分は正しいと言い張ってしまうことがあります。そのようなとき、私たちは、主が話された「たとえ話」のパリサイ人のようですね。気をつけなければなりません。そのような時には、私の罪の身代わりに死なれたイエス様の恵みを思い、主によって救われていることを心から感謝致しましょう。