弓と禅(2)
<指導法>
オリゲル氏はある時小町谷氏に、師範は何故稽古初めから早速正しい呼吸法に向かって突き進むせなかったのかと質問しました。すると彼は「偉大な達人は同時に偉大な教師でなければなりません。我々の考えではこの両者が一心同体であることは全くわかりきったことなのです。もし師範が呼吸の練習で持って稽古を始めたとすれば、あなたが決定的なものを得たのは呼吸法のおかげであるということを師範はあなたに確信せしめなることはできなかったでしょう。あなたはまず第一にあなたの自身の工夫で持って苦汁を舐めなければならなかったのです。師範があなたに向かって投げ与える救命のブイ(浮き輪)をつかむ準備ができる前に。」 オリゲル氏が“精神的”にすなわち弓を力強くしかも骨折らずに引くことができるようになるのに1年の歳月を経ています。2メートルばかり離れた巻き藁に向かって1年間弓を引くだけの稽古をひたすら繰り返したのです。
得てして我々は、目の前の結果を得るために急いでしまいます。それは教える側も教えられる側もです。どういう理屈でこうなるのかを事細やかに説明する指導者と理屈がわからないと動かない生徒。技術としてはそれでいいのでしょう。しかし、精神的に深く身に付くということは阿波師範の「自身の工夫で苦渋を舐めているときに差し出すブイ」という指導法でなくてはならないのかもしれません。時間的な回り道である悩むというプロセス、指導者も生徒も「待つ」というプロセスこそが人の精神的な成長を促すのかもしれません。
但し、氏は本誌で後述しておりますが師範と弟子について、弟子が師範について絶対的な信頼を寄せるという文化の重要性(当時の日本的特性)を示唆しております。現在のような先生と生徒の距離感や、保護者と先生の距離感、また情報があふれているなかで、師範を絶対視することは難しいかもしれませんが・・・