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Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 251 (20/11/23) 旧首里西原村 (3) Ishimine Area 首里石嶺町 (2)

2023.11.21 10:56

旧首里西原村 首里石嶺町 (イシンミ、いしみね)



首里石嶺町には今年の8月14日に訪れたのだが、軽い熱中症で途中でリタイヤしている。その後に、その続きという事で二回程、この石嶺町に向かった際にも熱中症の症状が出て、二回目には気を失うという失態をしてしまった。という事で猛暑の期間は沖縄集落巡りを控えていたのだが、そろそろ暑さも和らいでいるので再開することにした。11月14日に一ヶ月の東京、小豆島の旅から沖縄に帰り、数日体を休めて今日から再開。まずは途中リタイヤした首里石嶺町を訪れる。


訪問ログ



御殿山公園 (ウドゥンヤマこうえん)

前回リタイヤした御殿山公園からスタートする。この公園のすぐ北側に丘 (写真右下) があり、御殿山と呼ばれていた事からこの公園の名が付けられている。


伊江御殿の墓 (イヰウドゥンヌハカ)、伊江御殿山 (イヰウドゥンヤマ)

公園の北の道路を渡った所に沖縄では最も古いとされる亀甲墓が残っている。第二尚氏四代尚清王第七子の尚宗賢伊江王子朝義を祖とする伊江御殿の墓になる。五世朝嘉が父四世朝敷の遺志を継いで1687年 (尚貞19年) に創建築造したもの。墓は明から清への交代期に亡命してきた曾得書 (ソウトクロ 中国名チャンタールー) が施工したもので、1999年 (平成11年) に国指定重要文化財に指定されている。以上の事から、この場所は伊江御殿山 (イオウドゥンヤマ) と呼ばれていた。

伊江家の始祖の尚清王七男朝義は、初め羽地間切の按司地頭を務めたが、後に伊江島の按司地頭に転任し、以後代々この職を務めて伊江と称し、同家は三司官に4名就任し、当主4代が王子号を授与した筆頭格御殿だった。六世の向良顕伊江按司朝良の時代、1687年に、この西原間切儀保境內石嶺村を購入し、その一部にこの祖先の墳墓と伊江御殿の別邸を造営している。

伊江家と本家の尚家とは関係は深く、五世の尚和礼伊江王子朝嘉の室は尚質王の五女、七世の尚依仁伊江王子朝倚の室は尚敬王の次女を娶っている。十一世は尚灝王の五男尚健が養子となり伊江王子朝直として伊江御殿を継いでいる。この朝直は琉球処分期の琉球王国最後の摂政で、1872年 (明治5年) には日本への使節団維新慶賀使の正史を務め明治天皇に謁見をしている。この時に琉球処分に貢献した事で、男爵位を与えられている。墓所の中にこの尚健の墓 (写真左上) だけが独立して建てられていた。十四世の朝助 (ちょうじょ) は沖縄銀行取締役や沖縄新報社長などを務め、沖縄県議会議長を経て貴族院男爵議員も務めている。朝助の甥の十五世朝雄 (ともお) は国鉄常務理事から、1977年 (昭和52年) に参議院議員 (自由民主党所属) に当選し、その後、沖縄県出身者初の国務大臣として宮沢内閣で沖縄開発庁長官を務めている。(沖縄選出の国会議員でこの職に就いたのは伊江朝雄と社会党の上原康助の二人のみ) 十四世朝助の顕彰碑 (左下) と十五世朝雄の顕彰碑 (右下) がここの墓所に置かれていた。


伊江御殿 (イヰウドゥン) 別邸、伊江御殿別邸庭園

伊江御殿の墓から御殿山を上まで登りきった所には伊江御殿別邸がある。ここには伊江御殿別邸庭園 (7,435㎡、2249坪) があり、伊江殿内庭園 (巣雲園) と共には国の名勝に指定されている。

2009年に庭園の整備保全のため那覇市に寄贈され、伊江御殿別邸の復元計画を進める事になっていた。その進捗状況については不透明なのだが、2020年 (令和2年) に伊江御殿別邸庭園保存活用計画策定業務の公開入札が行われた。2022年 (令和4年) には国庫補助事業として伊江御殿別邸庭園保存活用計画策定検討委員会により伊江御殿別邸庭園保存活用計画策定事業 (事業経費:3,710,000円: 国2,968,000円、県0円、市742,000円) の保存活用計画書が刊行されたようだ。まだまだ実行には時間がかかりそうだ。

この場所には伊江記念館と庭園があるのだが、非公開で外からしか見る事が出来ない。石垣の塀は見事に残っている。正門 (右上) は以前は戦後に復元されたものがあったのだが、撤去されていた。通用門を入った所には伊江記念館 (左中) が見える。ここには物見台があったそうだそうだ。

伊江家別邸庭園は上流階級の庭園様式を留め、全体を回遊できる石畳道や石橋が造られ、中央には石組みで囲われた池が造られ、庭園内には松や竹も植えられ閑静な落ち着いた庭園になっている。茶室の楽市亭 (右上) もあり、一時期には琉球料理の御膳所として営業し、一般に開放されていた。ここを訪れた団体がインターネットに写真をアップしていたので下に借用。正門 (左上) も戦後に建てられたものも写っている。

アップされた写真の中には幾つかの碑もあった。写真右上は伊江家十一代当主・伊江王子尚健 (1818~1896) が1872年 (明治5年) に維新慶賀使として東京に派遣された時に書した「風清雲静山高水長 (風は清雲は静かにして、山のごとく高く、水のごとく流し)」と刻まれ落款には「中山正使」と記されている。右下は泰山石敢當で、通常は道の突き当りに置かれるので、どこからか移設されたものだろう。左下は何かの模様が刻まれているが、何なのかは不明。左上は十五世伊江朝雄と従兄の伊江朝忠が建立した戦車第27連隊慰霊碑。

沖縄戦ではこの石嶺高地 (Ishimmi Ridge) には日本軍第27戦車隊の陣地が置かれ激戦地となり、700名余の戦死者が出ている。

  • 5/17 - 米軍は石嶺高地を17日未明に夜間攻撃で奇襲し、頂上付近まで侵入。日本軍は戦車連隊で反撃、接戦激闘が終日続き夕刻には多大な損害を出しながらも米軍を撃退。
  • 5/18 - 石嶺高地の日本軍戦車連隊は、昨17日の戦闘で戦力は四分の一となり、防御体制の再配備を強いられている。日本軍の反撃はすさまじく、米軍の武器も少なくなり、前線の確保が精一杯の状態となっていた。
  • 5/19 - 石嶺高地において、悪天候もあり、両軍が対峙しての戦闘。
  • 5/20 - 米軍は130高地 (Wart)、140高地 (Flattop)、150高地 (Dick) を完全に制圧し、日本軍陣地を破壊。戦闘は石嶺高地攻防戦に移り、この高地攻撃に備え米軍は兵力を増強させ、終日激戦が行われたが、日本軍は陣地は確保。
  • 5/24 - 米軍は日本軍の頑強な防備で首里への侵攻は阻まれ、更に沖縄の梅雨によって補給が滞り、5月29日に首里城東に撤退するまで戦況は膠着し、この方面から首里に進撃することはなかった。


殿毛 (トゥンモー)、静魂之碑

伊江御殿別邸から南に少し坂道を下った所に小さな瓦葺きの祠が置かれている。この拝所は単に殿毛 (トゥンモー) としか伝えられてなく詳細は不明だそうだ。琉球国由来記にある儀保之殿ではないかと推測されている。この場所に第二次世界大戦の犠牲者の慰霊碑がある。静魂之碑と呼ばれ、1952年 (昭和27年) に石嶺友進会によって建立され、94柱 (内沖縄戦90柱) を慰霊している。多分石嶺町の住民で戦争で犠牲になった人達の慰霊碑だろう。


伊江御殿松尾 (イキウドゥンマーチュウ)、チジカ毛

伊江御殿別邸から石嶺西公園への稜線 (箱井 [ハクガー] から頂上のチジカ毛) には沖縄戦直前まで、琉球松の並木の尾根で伊江御殿松尾 (イキウドゥンマーチュウ) と呼ばれた。この辺りはチジガ毛と呼ばれ毛全体が小さな掘り込み墓群だったが、いまでは住宅街となり松尾の面影も失せてしまっている。近所のおじいの話では戦前までは民家などは無く、樹々が密集した山だったそうだ。


箱井戸 (ハクガー) (未訪問)

かつては伊江御殿松尾があった稜線を下りていくと箱井戸 (ハクガー) があるそうなのだが、見落としてしまった。箱井戸 (ハクガー) は付近の井戸が涸れても豊富な水量を誇った井泉で、板で四角に囲ったカーグシチー (井口・井瓶のこと) であったことからこの様に呼ばれていたという。



石嶺本字、石嶺集会所

御殿山から南の安謝川支流の石嶺川に降りて行くと石嶺集会所が建っている。この辺りが琉球王国時代の石嶺邑の発祥の地になる。碁盤状の集落区間になっており、蔡温が土地整理を発した1737年 (尚敬25年) 以後に形成された集落で、石嶺本字又は石嶺本部落と呼ばれる。尚敬王時代の首里城失火による再建のために伊江島 (尚氏伊江家は伊江島按司地頭だった) から呼ばれた職人や人夫が、再建後も島に戻らずこの地に農業や石工として留まったのがこの石嶺本部落の始まりと伝わっている。


村井戸 (ムラガー)

本字集会所の裏側に石組造りの大きい共同井戸 (村井戸 ムラガー) が残っている。正月の若水を汲んだ井泉であることから産井 (ウブガー) でもあった。この村井の場所は首里の他の村同様に青年達の溜まり場でもあった。


西の井戸(イリヌカー) 

村井戸 (ムラガー) の西側には文字通り西の井戸(イリヌカー) がある。城北小学校の東端の外側にあり、ここには前回訪れている。


火の神 (ヒヌカン)

村井 (ムラガー) の東の脇の坂 (フィラ) を上っていくと左手に火の神 (ヒヌカン) の祠がある。先程訪れた殿毛の拝所から西への坂道と交差する所にある。琉球国由来記にはこの火の神は記載されておらず、地頭火の神とも推測されている。



以上は本字近辺の史跡で、次は石嶺川沿いをゆいレール石嶺駅に向かって史跡を見ていく。


豊見城御殿 (トゥミグシクウドゥン) の墓、豊見城御殿山 (トゥミグシクウドゥンヤマ)

石嶺集会所から石嶺川沿いを東に進み御殿山公園と石嶺駅の真ん中あたりに古墓がある。第二尚氏11代国王尚貞の第二子尚経豊見城王子朝良 (1662年 - 1687年) を祖とする豊見城御殿の別邸があった場所で、18世紀初頭にこの墓が造られている。豊見城間切を領した王子、按司家であっ たことで豊見城御殿と呼ばれ、墓の背後にある丘は豊見城御殿山 (トゥミグシクウドゥンヤマ) と呼ばれている。墓の前には一世朝良が恩恵を受けた僧侶の報恩乃碑が浦添の小港から移設されている。


ゆいレール石嶺駅

川沿いを更に東に進むとゆいレール石嶺駅がある。沖縄に初めて来た2019年の夏にはまだ工事中だった。その年の10月にゆいレールの首里駅からでだこ西浦駅までの延長路線が開通している。

この石嶺駅には沖縄伝統のシーサーが駅の四隅に置かれ駅と石嶺町を守っている。沖縄ならではのものだ。四神シーサーは東西南北を守る神とされ、交通広場の東に青龍 (青色)、西に白虎 (白色)、南に朱雀 (赤色)、北に玄武 (黒色) のシーサーが設置されている。


阿檀垣 (アダニガチ)

石嶺駅西側から城北中学校への通学路一帯は阿檀垣 (アダニガチ) と呼ばれていた。アダンが垣をなすほどに密生していたことからこの様に呼ばれたが、現在では石嶺駅一帯が開発されその面影は無い。


城北中学校

阿檀垣 (アダニガチ) があった道の先に城北中学校がある。1974年 (昭和49年) に超過密校解消のため、首里中学校から離独立している。 その後も、石嶺の人口増加は著しく現在では首里地域の36%を占め、城北中学校も過密校となって石嶺中学校が創設されている。中学校の前の道にはチンマーサーが作られている。昔からあったのか、新たに作られたのかは分からないが、これも沖縄ならではのものだ。写真には撮らなかったが、おばあが二人石垣に腰掛けてお喋り休憩をしていた。この風景は昔から変わらないのだろう。


白森 (シルムヤー)

石嶺駅からゆいレールが走る大通りを登り、下る坂になる所に沖縄銀行石嶺支店がある。この地はクチャ (第三紀層泥灰岩) の独立小丘で、草木も生えていない禿山で、真夏の太陽の下では、神秘的に白く輝いて見えたという。この事からこの場所を白森 (シルムヤー) と呼ぶ様になったそうだ。


ユーナギマタ

白森 (シルムヤー) の北側、大通りから西の住宅街に入ったところはユーナギマタと呼ばれていた。以前はユーナグラマタと呼ばれたそうで、牛馬の鞍のように湾曲した里道の脇に、ユーナ (オオハマボー) の老木が繁っていたことに由来するという。今ではユーナの木も姿を消し、アスファルトの道に変わってしまった。


石嶺中学校、130高地、Choccolatedrop

石嶺駅の東側には先程の城北中学校から分離独立した石嶺中学校がある。この二つの中学校はそれ程離れていない。こんなに近い距離に二つの中学校がある事から石嶺町の人口増加は凄まじかったと想像できる。この石嶺中学校は高台にあり幾つもの登校門があった。

沖縄戦では130高地 (Wart 130) と呼ばれ、旧日本軍の陣地があり、激戦区だった。130高地の北部分はChoccolatedropと米軍は呼んでいた。米軍は5月11日から130高地を攻め始め、占領したかと思うと取り換えされるという戦闘が展開され、消耗の激しい日本軍は5月17日に首里城に撤退し、18日には米軍に占領されている。


津嘉山砂糖屋跡

石嶺中学校、130高地の北側には津嘉山という個人の経営する黒砂糖を製造する砂糖屋があった。現在は那覇バス石営業所になっている。写真右の奥がChoccolatedropと米軍に呼ばれていた旧日本軍の陣地があった場所。


屋小毛 (ヤーグワモー)

石嶺中学校の東側は北から南に下り坂になっている。この稜線は茅葺き屋根に似た形だった事から屋小毛 (ヤーグワモー) と呼ばれていた。


冊封使行列レリーフ

坂道を降り切った所の擁壁には琉球王府時代に中国皇帝より琉球国王の即位式のために派遣された冊封使行列を表したレリーフが造られている。


読谷山御殿 (ユンタンジャウドゥン) の墓、読谷山御殿山 (ユンタンジャウドゥンヤマ)、高森 (タカムヤー)

冊封使行列レリーフから西に道を進むともう一つ古墓がある。第二尚氏13代尚敬王の第二子尚和読谷山王子朝憲 (1745~1811年) は読谷山御殿の始祖となりこの地に一族の墓を造営している。読谷山御殿は向姓中、比較的に若い門中。昭和2年まで、赤平町に読谷御殿屋敷があった。 王子家の格式を表わす墓の袖石垣が三重になっている。読谷山御殿の墓を造ったことで、読谷山御殿山と呼ばれ、1984年 (昭和59年) に那覇市指定文化財に指定されている。

墓の背後の丘はこの一帯で最も高い孤立丘であったので高森 (タカムヤー) と呼ばれている。ここでオオゴマダラがひらひらと飛んでいた。沖縄では一年中見ることができる。


馬追い小 (ンマウィグヮ)

読谷山御殿の墓の前の道路は、長さ200mほど幅員が広くなっていたことで馬追い小 (ンマウィグヮ) と呼ばれていた。ここが馬場 (馬追い) だったかは不明で、馬場の様に直線道路であったことでこの様に呼ばれたのではと推測されている。


Jane

読谷山御殿の墓と馬追い小の南側にも丘がある。ここも沖縄戦では米軍からJaneと呼ばれた日本軍陣地が置かれていた。旧日本軍は先に触れた130高地から5月21日にこのJaneに移動して、5月29日に撤退するまで首里城防衛の要となっていた。


立川坂 (タチジャービラ)

冊封使行列レリーフから南側に伸びる道を進むと登り坂になる。昔はこの道が西原の幸地、棚原を経て中城間切への往還路だった。立川地域にある坂道であることからタチジャービラと呼ばれていた。立川地域のスポットは前回に訪れている。(立川原、立川井戸、城東小学校)

これでようやく首里石嶺町の散策が終了した。心配していた熱中症は、暑さもやわらいでおり、快適に集落巡りが出来た。



参考文献

  • 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
  • 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
  • 王都首里見て歩き (2016 古都首里探訪会)
  • 首里の地名 (2000 久手堅憲夫)
  • 沖縄「歴史の道」を行く (2001 座間味栄議)
  • 古地図で楽しむ首里・那覇 (2022 安里進)
  • 南島風土記 (1950 東恩納寛惇)