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KANGE's log

映画「響 -HIBIKI-」

2018.10.01 12:28

娘が見たいと言っていたので、昨日、台風が迫るなか、観に行ってました。

もう、平手友梨奈の圧倒的な主人公感と危うさですね。現実の彼女のキャラクターや、置かれている環境とも重なっています。

冒頭、投稿作の封筒にカメラを固定し、ぐるぐると展開していく様子は、この天才の作品を中心に世界が回っていくことを連想させます。ただただ、それを気持ちよく追っかける映画ですね(もちろん、気持ちよく追っかけることができるのは、アヤカ・ウイルソンをはじめ周囲のキャストがいい仕事をしているからこそです)。

「常識や社会というフィルターを通してモノを見て、自分で判断していると思い込んでいては、傑作は生まれない」ということなのでしょう。響の言動には、そのようなフィルターやリミッターが一切ない。彼女は、常に「自分はどう思うのか」を問いかけます。文芸部の本棚のシーンでも、響と同じように鑑賞眼のあるリカの「文芸界にとって意味のある一冊」という評価は、響にとっては意味を持たない。自分が面白いと思うかどうかだけが評価軸なのです。そんなのだから、彼女の正しさは、相手を傷をつける。しかし、自分を安全地帯に置きながら、相手を攻撃するようなことは一切しない。自分が傷つくこともいとわず、常にノーガードの撃ち合いを挑むわけです。

そこで、彼女の作品を読み、かかわりをもった人たちが、どこか解放されていくところが面白かったです。鬼島も田中も、なんだかんだでいい奴になっています。ある意味、救われたのでしょうね。山本も、あの時点では、まだ彼女の作品は読んでいなかったのでしょう。ノミネートの時点で、候補作すべてに目を通していたら、受賞作決定後の行動は変わっていたかもしれません。

そういう意味では、週刊誌記者の矢野は、やはり「お伽の庭」を読まずに、ずっと響を追い続けていたのでしょうね。もしかしたら、読んでしまうと、自分の取材が鈍ってしまうかもしれないという恐怖があったのかもしれません (実際の文学賞受賞記者会見でも、「受賞作、読んでないよね」と思っちゃうような質問があったりしますので、彼を笑うことはできません)。

彼女の、文章を紡ぐ天才的な能力があるのに、暴力に走るところは、まったく理解できませんし、彼女の「正しさ」の行使は受け容れられるもではありません。無理矢理解釈しようと思えば、「こんな奴に、言葉を使うのはもったいない」という気持ちの表れなのかもしれません。でも、そう思いつつも、「ここは、行くでしょ!」と彼女の爆発を期待しているところもあったりします。

ずっと異常なテンションで展開していく物語ですが、唯一のほっこりポイントが、動物園のシーン。意図しているのでしょうね、素のまま、自然体の高校生たちを撮っています。とても、愛おしいシーンです。そこにつながるのが、自宅の部屋の中のシーンです。ちょいダサめの部屋着で、いろんな動物のぬいぐるみ(ダイオウグソクムシ!)に囲まれて、本を読んだり、電話で話したり…。原作は、書店のお試し版をぱらぱら読んだだけですが、こんなにホンワカした感じは、平手版ならではなのではないでしょうか。原作の荒い感じを抑えつつ、女子感もだすところは、監督や彼女なりの「響」像を作り上げているのだと思います。

それにしても、「お伽の庭」は、どのような作品だったのでしょう。内容を連想させる感想は、花井さんの「過去、現在、未来の概念を覆されたわ」ぐらいでしょうか。あとの人は、ただもう「傑作」だと言うばかり。 もちろん、文芸作品がいかに優れいているかを映画で表現するのは難しいでしょう。原作でも表現されていないとのこと。「BECK」のようにわけの分からない手法でごまかすのではなく、周囲の反応だけで表現しようというのは、ある意味、潔いよいかもしれません。しかし、「世界を変える」ほどの作品なのであれば、プロの作家たちが感服する様子や、読んでもいないのにニュースを見て適当なことを言う奴らだけでなく、一般読者の視点が欲しかったと思います。

あと、ちょこっと気になったのは、新人賞授賞式での暴行の様子が、芥川賞・直木賞Wノミネートの段階まで、まったく話題にならなかったというところ。そこまで、世間から注目されていない文芸界の寂しい状況…ということなのでしょうか?